2-8. 消えた桐箱
蔵を見てみようと思ったのは、本当にただの思いつきだった。
玄関に蔵の鍵があったのを思い出したから、和孝さんに言ってちょっと覗いてみるかって。和孝さん自身が何も言わなかったということは、桐箱がそこにある可能性は低いかもしれないけど。もし覗いてみて、何かありそうだったらシロさんに報告できればいいや、くらいの気持ちで。桐箱が見つからないんじゃ、いつ帰れるようになるか分からない。状況を打開できるようなヒントでも見つかればいい、それくらいの、本当にちょっとした期待みたいなものだった。
和孝さんが見つからなかったから、とりあえず庭に出て、まだ行ってないあたりに向かうと、母家と同じ瓦屋根の小さな蔵がすぐに見つかった。
結果として、蔵には何もなかった。
むしろ、たまたま会った朱里さんと閉じ込められて、かなり怖い思いをした。あれは野狐だ、俺たちをビビらせようとして、まんまと罠にハマってしまった。
でも、大きな収穫があった。
蔵から母屋へと続く砂利道を、なるべく早歩きで、蔵から離れるように歩く。一歩後ろを歩く朱里さんをチラッと振り返ると、黙ったまま、俺が渡した折り紙の犬を握っていた。
顔色が少し悪いけど、それ以外は特に問題なさそうに見える。サンダルが歩きにくいのか、ほんの少し小走りみたいになってるけど。
野狐が追いかけてきてないのは分かってるのに、スピードは落としたくなかった。
俺と朱里さんは、この家の唯一の安息の地である子供部屋へ向かった。
階段を上り、子供部屋の前に立ち、少し迷ってから障子戸をノックする。
「藤見です。……入ってもいいかな?」
「いいよー」
中から返ってきたのは、春斗くんの声だった。
戸を開けた瞬間、目に飛び込んできた明るく穏やかな空気に、肺の奥に溜まっていた重苦しさが一気に抜けていくのを感じた。
子供部屋には、明るい照明の下で携帯ゲーム機を手に持つ春斗くんと、その隣で折り紙の本を開いている夏美ちゃんの姿があった。
「あれ、和美さんは?」
さっきまで一緒に動画を見ていたはずの、和美さんの姿がない。
「和美おばちゃんなら、もう帰ったよ」
「えっ、帰った?」
春斗くんの言葉に、思わず壁にかけられた時計を見上げる。十六時になろうとしていた。
「……そんなに経ったのか」
子供部屋を出て、庭の蔵へ向かったのが十五時前だったはずだ。蔵に閉じ込められていたのは、せいぜい二十分程度だと思っていた。なのに、実際には一時間近い時間が経っていた。
朱里さんも中に入ったのを確認してから、静かに障子戸を閉める。それだけで、あの蔵の窓から手招きしていた真っ白な指先や、音を立てていた扉が遠い世界の出来事のように思えた。ふぅ、と息を吐いてから、深呼吸をする。
「……あ、朱里ちゃん」
夏美ちゃんが、顔を上げて意外そうな声を出す。春斗くんも、驚いたように目を瞬かせていた。
朱里さんは何も言わずに戸の前に立ったまま、所在なげに視線を泳がせている。最近はあまり来てなかったとか言ってたっけ。自分より年下の子供と、何をしゃべったらいいのか分からない、気まずい気持ちはよく分かる。
朱里さんの細い指先が無意識に、渡した犬の折り紙をいじっていた。
「あ、その折り紙……」
夏美ちゃんが、朱里さんの手元を見て小さく呟く。
「……この折り紙のおかげで、助かったよ。ありがとう、夏美ちゃん」
俺が代わりに答えると、夏美ちゃんは不思議そうな顔をした。
……なんで助かったのか、理由はよく分かってないけど。でもシロさんが「役に立つ」って言ったのは、本当だったんだな。ポケットから、自分用の茶色い折り紙の犬を取り出す。握りしめてしまったから、少しくしゃっと形が歪んでいたけど、ただの折り紙以上に頼りがいのある犬に見えた。
その時、コートのポケットの中で着信音が鳴り響いた。
蔵の中では電源すら入らなかった携帯電話。 慌てて取り出すと、画面には『シロさん』の文字が光っている。
「もしもしシロさん!」
『今、母屋に戻った。どこにいる?』
耳に届く飄々とした声。それだけで、ようやく本当の意味で、張り詰めていた緊張の糸が解けた気がした。
十分後。シロさんが、子供部屋に現れた。
シロさんを部屋の隅へ呼び、声を潜めて、蔵で朱里さんから聞いた話を伝える。子供たちの前で蔵での出来事や狐狸の箱の話をするのは少し躊躇われたけれど、今はまだ、この部屋から出る勇気はなかった。
「……持ち込んだのは博さんだったみたいです。奥さんの梓さんも知っているみたいで」
狐狸の箱という単語は伏せた。けれど、シロさんはさほど驚いた様子もなく、「そうか」と短く相槌を打つだけだった。
「……驚かないんですね」
「まあ、消去法でいけば和幸さんか博さんの線が濃かったからな。もし和幸さんだったら、自分で持ち込んだものにやられていることになる。今考えると、それはないだろうしな」
シロさんはそう言って、部屋の中をうろうろしている朱里さんをチラリと一瞥した。彼女はシロさんが来た時に軽く会釈こそしたものの、知らない大人が増えたことでますます居心地が悪そうに、部屋の棚や机の周りを所在なげにゆっくり歩き回っている。春斗くんと夏美ちゃんはシロさんの登場を喜んでいたが、俺たちが小声で深刻そうに話しているのを察して、またゲームや本の世界へと戻っていった。
「シロさん、肝心の桐箱の中身なんですけど……」
俺が本題を切り出そうとした、その時だった。
「えっ……何で、これがここにあるの?」
部屋の反対側、学習机の前にいた朱里さんが、素っ頓狂な声を上げた。
彼女の手には、夏美ちゃんの机に置かれていた、お守りがあった。
「それ……」
「これ……! 私が昔、書斎で見たやつ……。桐箱の中に入ってたの、これだよ!」
俺に向かって、手に持ったお守りを見せてくる。
蔵で聞いた、桐箱の中身。朱里さんはこう言っていた。
『なんてことないお守りだったよ。神社で売ってそうな、たしか縁結びって書いてあったかな。くすんだ薄いピンクに、ちょっと大きめ組紐がついてた』
……何で、それが、ここに?
俺が混乱で固まっていると、隣でシロさんが「なるほどな」と小さく手を打った。
「だから、ここにこれがあったのか」
シロさんは迷いのない足取りで、ローテーブルの上へ歩み寄った。そして、それを手に持つ。
「これが、探していた桐箱の正体だ」
・
重苦しい沈黙が支配する茶の間に、大人たちが集められていた。
シロさんが「桐箱に関する、極めて重要な話がある」と、和孝さんに大人たちを集めてもらうようお願いしたのだ。
夏美ちゃんと春斗くんはもちろん、朱里さんと、兄である博之さんの出席は断った。最初博さんは「子供に聞かせられないような話でもするのか」とせせら笑うように抗議してきたが、シロさんの静かな、けれど拒絶を許さない視線に押されるようにして渋々従った。
これからする話――きっと自分の親がしたことを知らない、博之さんと朱里さんへの配慮だ。朱里さんは、俺に「私も聞きたい! 私が話したから、色々分かったんでしょ!」と食い下がってきたけど、遠慮してもらった。
「……あとで、教えてね」
「……うん」
寂しそうな表情に頷いてしまったけど、どこまで話せるんだろう。
朱里さんと博之さんの去った今、この広い居間にいるのは、和孝さんと佑香さん、顔色の悪い和幸さんとその隣で微笑みを浮かべるサキさん。そして、苛立ちを隠そうともしない博さんと梓さんの夫婦だ。
和孝さんは、何かを期待するように膝の上で手を握りしめている。一方、佑香さんは何が始まるのかと不安げに俺たちの様子を窺っていた。和幸さんは……昼間見たよりもさらに顔色が悪く見える。落ち窪んだ目で、じとりと俺とシロさんを睨みつけていた。サキさんは、和美さんや子供たちがいないせいか、初日に見た時と同じ、貼り付いたような笑みを浮かべている。
そして博さんと梓さんは、腕を組んで不機嫌そうに鼻を鳴らした。二人とも、「一体何を勿体ぶっているんだ」というような不信感を隠そうともしていない。
全員に囲まれるようローテーブルの上には、湯気を立てる湯呑みが人数分並んでいる。さっき俺が朱里さんと話している間に、シロさんが佑香さんと用意していた。けれど、誰も手をつけようとはしなかった。
「お忙しい中、集まっていただきありがとうございます」
シロさんが口を開いた。
「さて、お集まりいただいたのは――」
「前置きはいい。さっさと話せ」
シロさんの言葉を遮るように、博さんが苛立たしげに声を荒らげた。
「例の桐箱のことなんだろう? 見つかったのか? それとも、もう無いなんて言うつもりじゃないだろうな」
「ええ。ですがその前に、皆さんに見ていただきたいものがあります」
シロさんは落ち着き払った動作で、足元に隠していたビニール袋を持ち上げた。それは、この家の床下から見つけた、あの白い紙箱だった。
「……っ!」
その瞬間、博さんと梓さんの顔色が一変した。二人はぎょっとしたように目を見開き、狼狽えた様子で辺りを見渡した。けれど、隣に座る和孝さんや佑香さんが「それは何?」と言いたげに首を傾げているのを見て、まだバレていないと思い直したのか、必死に表情を取り繕った。
「これは『狐狸の箱』と言います」
シロさんの声が、静まり返った室内に凛と響く。
「狐狸、つまり狐や狸、あるいは狢といった、人間に害を与える妖怪を閉じ込め、育てるための箱です。これを人知れず他人の家に放り込むと、中で負の思念を餌にした妖怪が育ち、その家の人間には次々と不幸が降りかかる。……呪い、あるいは災いの種と言ってもいいでしょう」
「……呪い?」
和孝さんが、呆気に取られたように呟いた。隣の佑香さんも、シロさんが急に何を言い出したのか理解できないという顔で、俺たちを交互に見ている。幽霊や呪いなんて信じていない、普通の人間の反応だ。
博さんと梓さんは、拳を握りしめたまま押し黙っている。犯人が自分たちだと名指しされたわけではない。けれど、自分たちが嫌がらせとして置いたものが、白日の下に晒されたことへの焦りと屈辱が、その横顔から滲み出ていた。
ふと、サキさんに目を向けた。 初日に見たような、あの作り物のような微笑みは、もうどこにもなかった。彼女の顔からは一切の感情が消え、まるで能面のように、虚無的な表情で箱を見つめていた。
「孝蔵さんの具合がみるみる悪くなっていったのも、実は狐の妖怪のせいなんです」
シロさんの言葉が、静まり返った居間に突き刺さった。和孝さんと佑香さんは、まるで理解できない言語を聞かされたかのように呆然としている。
「今まで、感じたことはありませんでしたか? 空気が淀んでいるような気がする。誰もいない場所から物音がする。電気が勝手に消える、物がいつの間にか無くなっている――どれもこれも、気のせいなんかじゃない」
畳みかけるシロさんの言葉。和孝さんは「いや、でも……」と力なく首を振ったが、佑香さんは何か心当たりがあるのか、震える両手で口を覆った。
「現に今も、深刻な影響を受けている人がいるでしょう」
シロさんの鋭い視線が、和幸さんを射抜いた。和幸さんは昨日よりもさらに頬がこけ、目の下の隈が黒々と浮き出ている。その姿は、生きている人間というより、何かに生気を吸い取られている抜け殻のようだった。
「何だよ……。俺が、何か問題でもあるって言うのか!」
和幸さんが掠れた声で食って掛かる。だが、シロさんは微動だにせず、彼の隣に座る女性を見据えた。
「問題があるのは、お隣の女性ですね。……いえ、女性とは呼べないか。人間じゃないんだから」
その場の全員が息を呑んだ。
シロさんの見据える先――サキさんは、能面になっていた表情を、また貼り付いたような微笑へ戻していた。
「……私が、人間じゃない?」
サキさんはゆっくりとした口調で、落ち着きを装って応えた。だが、膝の上で握り込まれた指先が、白くなるほど強く震えていた。
「何を言っているのか、さっぱり。ねえ、和幸さんもそう思うわよね?」
しなだれかかるように和幸さんの腕に触れる彼女に、シロさんは冷徹に言い放つ。
「そろそろ正体を現したらどうだ? それとも、ここで徹底的に祓われたいか」
シロさんの言葉に、サキさんの瞳から光が消えたように見えた。
じっとシロさんを睨みつけながら、彼女は喉を鳴らすように、ごくりと生唾を飲み込む。
「……喉が渇いているなら、お茶をどうぞ。あ、それとも、狐は猫舌だったかな?」
「よく、その赤い模様の入った湯呑を使っていたそうじゃないか」と、ちょうど彼女の前に置いてある湯呑を指差した。少し濁って見える透明な黄緑色は、もう湯気を立ててはいない。
「……だから! 私は狐でも妖怪でもないって言ってるでしょう!」
サキさんの顔が、怒りで険しく歪む。彼女はシロさんの挑発に乗るように、湯呑みを掴み、一気にそのお茶を啜った。
次の瞬間――。
『ギャァァァッ!!!』
人間のものではない、耳を裂くような悲鳴が響き渡った。
サキさんは喉を掻きむしり、畳の上に転がり落ちてのたうち回る。その白かった皮膚から、異様な速さで硬い茶色の毛が噴き出し、顔が、四肢が、見る間に獣の形へと変貌していく。
「う、うわああああ!」
「何だ、これは……!」
和孝さんと佑香さん、そして博さん夫婦は、悲鳴を上げて部屋の隅へと逃げ惑う。和幸さんは驚愕しながらも、目の前で化け物へと変わっていく恋人に手を伸ばそうとし、そのあまりの異様さに手を引っ込める。
俺も、あまりの光景に息が止まった。一歩、また一歩と、無意識に後ずさる。対照的に、シロさんだけは冷めた目で、床で暴れるサキさん――だった妖怪を見下ろしていた。
完全に狐の姿となったサキさんは、口から白い泡を吹きながら、四本足でふらつきながら立ち上がる。そして、縁側の障子を突き破らんばかりの勢いで飛び出すと、夕闇へと溶けるように消えていった。
居間には、ひっくり返った湯呑みと、獣の残り香。そして、言葉を失った大人たちの荒い呼吸だけが残された。
「あれが、この家に入り込んでいた妖怪の正体です」
シロさんの静かな声が、凍りついた居間に響いた。和幸さんは腰を抜かしたまま、サキさん――野狐が消えた縁側を呆然と見つめている。恋人だと思っていた女性が、あんな風に獣の姿になってのたうち回ったんだ。無理もない。
俺自身、妖怪を見るのは初めてじゃないけれど、あんな風に目の前で変貌されるのは流石に心臓に悪い。
俺は、隣に立つシロさんに耳打ちした。
「……お茶の中に何入れてたんですか?」
「殺鼠剤だよ」
「えっ……」
俺の前に置かれた湯呑みを思わず見つめる。シロさんは俺の顔を見て、いたずらが成功した子供のように少しだけ口角を上げた。
「あれにしか入れてないから、安心していい」
さて、と。シロさんは少し大きな声を出して、混乱の中にいる大人たちの意識を自分へと向けさせた。
「心当たり、ありますよね。博さん」
名前を呼ばれた博さんは、「なっ、何の話だ」としらばっくれたが、その声にさっきまでの勢いはない。目の前で起きた現象に、全身から嫌な脂汗を流している。
シロさんは、透明なビニール袋に入れたままの狐狸の箱を、博さんの目の前に掲げた。
「しらばっくれても、良いことはありませんよ。指紋というものは、紙や木であれば数年から数十年も残る。ここにあなたの指紋が残っていたら……どうなるか、言わなくても分かりますよね?」
シロさんは鋭い視線で、博さんをじっと見つめる。
「警察にはちょっとしたツテがあるんです。すぐにでも調べてもらいましょうか」
博さんはぐっと唇を噛んだ。額には大粒の汗が浮かび、梓さんと何度も視線を交わし合う。
やがて、逃げ場がないことを悟ったのか、ガクリと項垂れた。
「……あれは、たまたま貰ったんだ」
博さんは苦虫を噛み潰したような表情で、ぽつぽつと語り始めた。
約二年ほど前。
夜遅い時間に、行きつけの居酒屋で愚痴をこぼしていたのだという。
「あの日も居酒屋で……この家のことを話していた。親父がよく言ってたんだ、孝蔵おじさんが成功してるのは幸運の守り神のおかげだって。桐箱の中身の手に入れてから成功続きだったからな。それを持ってたら、うちだってもっと金持ちになれた。……だから愚痴をな、少し……」
博さんは言いにくそうにしながら、顔に脂汗を大量に浮かべていた。
「かなり飲んでいたから、居酒屋で知り合った相手と話し込んでいて……そいつが、それをくれたんだ。……憎い相手の家に置いておけば、不幸が訪れる、俺にとってはラッキーアイテムだって。やるから、良かったら使ってみてくれって。俺はそいつに唆されたんだよ。だから、その日の帰り、気づいたらこの家に来ていた。夜遅くだったから、もう辺りも暗くて、家の電気もついてなかった。俺は……これを置いて、帰った」
自分は悪くないとでも言うような、ところどころに保身の言い訳が混ざるような説明だった。
「そんな……っ!」
和孝さんの声には、驚愕と、深い軽蔑が混じっていた。
「試しにやってみよう、くらいの気持ちだったんだ! まさかあんな……」
さきほどの野狐の様子を思い出したのか、顔色をますます悪くすると、ブルブルと振り払うように頭を振った。
「あんなものがいるなんて……知らなかったんだよ!」
博さんは脂汗まみれの顔を上げ、必死に無実を訴えるように叫んだ。
「その箱をくれたのは、どんな奴でした?」
シロさんの問いに、博さんは「覚えてない! 酔ってたんだ!」と激しく頭を振る。
「……タダでくれたんですか?」
「え……?」
「そんな曰く付きのもの、見ず知らずの男がタダでくれたんですか」
博さんは口をパクパクとさせて絶句した。シロさんは、憐れむような冷ややかな目で彼を見下ろす。
「そんな都合の良い話は、この世にはない。あなたはきっと、何か対価を差し出している。自分でも気づかないうちに、大切なものを失っているかもしれませんね」
その言葉に、博さんは呆然と座り込み、梓さんも顔を青くして震え始めた。
シロさんは和孝さんの方に向き直った。その声からは先ほどの冷徹さが消え、少しだけ柔らかい響きが含まれている。
「……警察に行ったところで、彼を裁くのは難しいでしょう。住居侵入といっても、普段から出入りしている親族では取り合ってもらえない。まして呪術なんて……どうするか、気持ちの落としどころはあなたたちで決めてください」
和孝さんと佑香さんは、顔を見合わせた。
やがて、和孝さんは重苦しい溜息をつくと、絞り出すように言った。
「分かりました。……二人で、考えます」
シロさんは、満足したように、静かに頷いた。
「さて。肝心の桐箱ですが」
シロさんはそう言うと、俺の足元に隠すように置いていた、箱を手に取った。
シルバーや宇宙柄の折り紙がベタベタと貼られた、一見すると不格好な子供の工作箱。ゲームソフトを入れてる、お姉ちゃんが作ってくれた、と春斗くんが嬉しそうに教えてくれた箱だ。
和孝さんはそれを見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「それは……たしか、春斗の……」
「そうです。これこそが、皆さんが血眼になっていた桐箱だったんですよ」
シロさんは微笑みながら、表面の折り紙を一枚、ぺりぺりと剥がした。
「あ、ちゃんと子供たちには許可を取っていますからね」
糊が強力だったのか完全には綺麗にならなかったが、剥がれた隙間から現れたのは、薄いベージュの細かい木目。紛れもない桐の木目だった。
「そんな……。でも、何でそれが、春斗のところに」
絶句する和孝さんに、シロさんは穏やかに語り始めた。
「孝蔵さん――おじいちゃんから直接貰ったそうですよ。亡くなるほんの数日前、寝室で一緒に遊んでいた時に、春斗くんが『ゲームソフトを入れる箱が欲しい』と言った。それを聞いた孝蔵さんは、この桐箱を差し出したんです。『良かったら、これを使いなさい』とね」
シロさんの口角が、どこか誇らしげに上がる。
「サイズがちょうど良かったので、すぐに夏美ちゃんが得意の折り紙でデコレーションしてくれたそうです。……無骨な桐箱が、孫たちの手で賑やかになっていくのを、孝蔵さんはどんな気持ちで眺めていたんでしょうね」
「そんな……てっきり、いらなくなった箱でも使ってるのかと……」
佑香さんと一度視線を合わせた和孝さんは、ハッとしたように、「な、中身は……? 中身はどうなったんですか」と縋るように問いかけた。博さんや梓さんも、一気に老け込んだような顔をしながら、それでも中身の行方に固唾を呑んでいる。
「中身は、これです」
俺は持っていた、あのお守りを皆の前に差し出した。
「は……?」
和孝さんは呆気に取られ、博さん夫婦も「はぁ?」と間抜けた声を漏らした。夏美ちゃんの机に置かれていた、使い古された地味な色合いのお守り。そこには『縁結び守』という文字が、刺繍で刻まれている。
シロさんが黙って俺を促した。俺は、さっき子供部屋で確信した事実を口にする。
「これは……孝蔵さんが、亡くなった奥さんから貰ったもののようです。ずっと、大切に持っていたお守りなんです」
「でも、父さんはあれを幸運の守り神だと言って、持っているから成功できたんだって……」
和孝さんは困惑しながらも、言いながら自分でも気づき始めているようだった。
「武田先生に話を伺ったとき、孝蔵さんは照れくさそうに、『これを見ると頑張れるんだ』『力が湧いてくるんだ』と言っていたそうですね」
シロさんが静かに言葉を重ねる。
「……失礼ながら、お守りの中も確認させていただきました。内容は伏せますが、奥様から孝蔵さんへ向けた、温かい手紙が入っていましたよ」
シロさんの視線が、博さんたちを射抜く。
「この世で一番大切な人から貰った、手紙とお守り。それを眺めては、家族を養うため、共に生きていくために自分を奮い立たせる。……それ以上に、人生を頑張るための力が湧いてくる『守り神』が、他にあるでしょうか」
居間には、もう誰も声を上げる者はいなかった。
「夏美ちゃんと春斗くんはまだ幼いですから。孝蔵さんに『お守りだから大切にしてくれ』と言われても、つい興味のない物を雑に扱ってしまうのは仕方のないことです」
シロさんは微笑みながら続けた。
「孝蔵さんが遺言の修正を頼む前に亡くなられてしまったこと。そして、子供たちが桐箱の重要性を知らなかったこと。その偶然が重なって、話がややこしくなってしまったんでしょうね」
気づけば、日は完全に落ちていた。
博さんと梓さんの夫妻は、吐き捨てるようなため息と共に子供たちを連れて帰っていった。朱里さんは玄関を出る間際まで、俺に何かを言いたげに視線を送っていたけれど、結局最後まで口を開くことはなく、この家を後にした。
和幸さんは、心身ともに衰弱していた。
「医者ではないので確実なことは言えませんが、しっかり栄養を取って休養すれば、きっと元に戻りますよ」
シロさんの助言を受け、和孝さんはホッとした顔をしていた。とはいえ、一旦は病院へ連れて行こうという話になり、シロさんと二人で彼を夜間診療の病院へ連れて行くことになった。和幸さんはされるがまま、今までの態度が嘘のように大人しかった。
戻ってきた和孝さんの厚意に甘え、俺とシロさんは今夜、この屋敷にもう一泊させてもらうことになった。
夕食後、シロさんと和孝さん、そして俺の三人で、床下や庭の隅々に殺鼠剤をまいた。暗闇の中で、足元をさっとかすめていく何かがいた。家の外へ、石塀の向こうへ逃げて行くそれは、少なくとも三、四匹はいたような気がする。
やっとすべてが終わったその夜、俺は驚くほど深く、静かな眠りについた。
翌朝、俺は差し込む朝日の眩しさで目を覚ました。和紙が太陽の光を拡散して、部屋全体を明るくしている。今日は晴れるみたいだ。
シロさんと母屋へ向かうと、そこには既に和孝さんたちの姿があった。
不思議な感覚だった。昨夜までは重苦しく、淀んでいた屋敷の空気が、軽くなっている。まだ隅の方にいる小さな影がゼロになったわけではないけれど、少なくとも薄暗く感じる不気味さはかなり消えていた。
和孝さんと佑香さん、そして夏美ちゃんと春斗くん。俺とシロさんを含めた六人での朝食は、昨日までの空気とは打って変わって、賑やかで明るいものだった。
和幸さんは昨夜病院から戻った後、まだ自分の部屋で泥のように眠っているらしい。「しばらくはゆっくり休ませてあげてください」というシロさんの言葉に、和孝さんは深く頷いていた。
朝食が終わり、ようやく帰れると安堵して、俺は護符の件を思い出す。
「そういえば護符って、貼ってから帰るんですか?」
「ああ、その件なんだが……君は少しここで待っていてくれ。和孝さんと、ちょっと出かけてくる」
「は? どこへ行くんですか?」
理由を聞く前に、二人はそそくさと玄関を出て、和孝さんの車で走り去ってしまった。
取り残された俺は、仕方なく子供部屋で夏美ちゃんたちの遊び相手をすることになった。春斗くんに誘われてゲームをさせてもらったが、慣れない操作に戸惑っているうちに、画面の中の俺のキャラクターはあっさりと穴に落ちて消えた。
「お兄ちゃん、下手!」
「……やるの初めてだし。あとこれ、意外と難しいから」
そんなやり取りをしながら過ごす時間は、昨日までの状態を考えると、嘘みたいに平和だった。
二時間ほど経った頃だろうか。開け放していた子供部屋の窓から、車のエンジン音が聞こえてきた。続いて、止まった車の音と共に、高い声が響く。
――キャン! キャンキャン!
夏美ちゃんと春斗くんが顔を見合わせ、弾かれたように部屋を飛び出していった。俺も首を傾げながら、二人の後を追う。
玄関まで行くと、すりガラスの向こうに、大きなプラスチック製のペットケージを抱えたシロさんと和孝さんのシルエットが見えた。
「ただいま」
ガラリ、と引き戸を開けると、ケージの中から元気いっぱいに吠える声が溢れ出した。中にいたのは、それぞれコロコロと丸い二匹の柴犬の子犬だった。
「うわぁっ! 犬、いぬ!」
「きゃああああ! かわいい!」
子供たちが悲鳴のような歓声を上げ、ケージを覗き込んで大興奮している。騒いでいる声が聞こえたのか、エプロンをしたままの佑香さんも駆けつけて、子どもたちのはしゃぎっぷりに笑っていた。
和孝さんは子供たちを「こらこら、家の中で暴れるんじゃない」と優しくたしなめながら、居間へとケージを運んでいった。
居間の畳の上で放たれた二匹の子犬は、新しい環境を恐れる様子もなく、尻尾を振り回して子供たちの周りを転がるように駆け回っている。和孝さんはその光景を眺めながら、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。
目の前の家族の様子を眺めながら、俺は隣に立つシロさんに、こっそりと尋ねた。
「どうしたんですか、急に犬なんて……」
「手っ取り早く、この家を守るためさ」
シロさんは、はしゃぐ子犬たちを見つめたまま、事も無げに答えた。
「……?」
首を傾げる俺に、シロさんは少しだけ声を落として続けた。
「野狐の天敵は狼、つまり犬だからな。彼らがこの家を走り回っていれば、逃げ出した野狐も、二度とこの敷居を跨ぐことはできない」
その瞬間、頭の中であの折り紙が繋がった。蔵の中で助けてくれた、シロさんが「念のため」と俺に持たせた二匹の犬の形をした折り紙。そして、犬が溢れた子供部屋だけが、影響を受けていなかったことも。
「……そういうことだったのか」
蔵での恐怖を思い出し、少しだけ顔を引き攣らせてシロさんに抗議した。
「だったら、最初からそう教えておいてくださいよ! こっちは必死だったんですから」
するとシロさんは、「言わなかったか?」と、本当に忘れていたかのような、けろっとした顔で笑った。
窓から差し込む冬の終わりの柔らかな光の中で、子犬たちの高い鳴き声と子供たちの笑い声が、屋敷の隅々にまで染み渡っていく。この家の新しい守り神が、確かにそこにいた。
和孝さんと佑香さんが、俺とシロさんを玄関の外まで見送ってくれた。夏美ちゃんと春斗くんは子犬に夢中で、さよならの挨拶をしたときもほとんどこっちを見ていなかったのが、ちょっとだけ切なかった。
終わってみれば二泊三日。桐箱探しの依頼は、途中で違う物を見つけたりと当初の目的とは違ったこともしたけど、あっという間に終わった。
俺とシロさんは、白いSUVに乗り込む。来た道を、今度は戻っていく。これから二時間、代わり映えのしない風景が続くのかと思うとちょっと億劫だ。でも帰り道は行きと違って、心は驚くほど軽かった。
「シロさん。いつ、あのゲームソフト入れが桐箱だって気づいたんですか?」
「最初に持ったときだな。折り紙が貼ってあっても、プラスチックケースなのか木の箱なのかくらいは分かる」
「……分かってて、黙ってたんですか?」
「高級そうな箱だ、と声には出しただろ」
ああ、そうですか。もっと早く言ってくれていたら、すぐ帰れたのに。……と思ったけど、子供部屋に入ったときにあれが桐箱だと、中身が何か分かって、シロさんと俺が帰っていたら。きっと、今も野狐があの家を蝕み続けていたんだろう。
流れていく尾実村の景色を、助手席の窓からぼんやりと眺める。
ふと、田畑の奥、林の木々の間に、巨大な黒い後ろ姿が見えた気がした。のそのそと、頭の上のボロボロの麻の帽子を揺らしていた気がするけど、すぐ見えなくなった。
「……あ」
声を上げそうになって、飲み込んだ。
あっちの方向は、根本家だ。野狐がいなくなり、本物の犬がやってきたあの家。前より騒がしくはなるだろうけれど、もう一度棲みつくには十分なほど居心地の良い家に戻りつつあるのかもしれない。
「どうかしたか?」
ハンドルを握るシロさんが、目だけ動かしてこちらを見た。
「……いえ。お土産、何がいいかなって考えてただけです」
俺は小さく笑って、座席に深く背を預けた。
『消えた桐箱』 完




