第7話 『2人の間に芽生えたもの』
夜が明けた。
森の木々の隙間から差し込む朝の光が、霧を透かして銀色に輝いている。
昨夜の焚き火の跡を前に、ルシアンは静かに剣を磨いていた。その横で、アイリスは何度もちらりと彼を盗み見ている。
――ルシアン。
彼女がそう呼んだ瞬間から、二人の距離感は微妙に変わっていた。
魔王様、という呼び方ではなく、名前。敵としての象徴ではなく、一人の人間として。口にするたびに、自分でも説明のつかない感情が胸に湧き上がってくるのを、アイリスは必死に抑えていた。
(……でも、この人は魔王。私たちの敵。そうなのに……どうして――)
不安と矛盾に押しつぶされそうになりながらも、彼女は昨夜の光景を忘れることができなかった。炎を背にして剣を振るうルシアンの姿。その背は、恐怖ではなく、不思議な安心感を与えてくれたのだ。
一方のルシアンは、そんな彼女の視線に気づきながらも、あえて口を開かない。
前世の記憶――神谷悠真として知るゲームの知識が告げていた。
勇者と出会う前のアイリスは、必ず魔物に襲われて瀕死になる。そこを勇者が救い、信頼関係が生まれる。
本来なら、自分が踏み込む余地などなかったはずの“イベント”に、彼は割り込んでしまった。
(……この世界は、ゲームそのものじゃない。けれど、流れは確かに似ている。なら俺が介入したことで、この先はどう変わる?)
剣を握る手に力がこもる。
運命をねじ曲げた代償が、いずれ自分自身に返ってくるのではないか――そんな予感が胸を冷たく締めつける。
と、そのとき。
「ルシアン様、その……私はこれからどうすればいいんでしょう?」
アイリスがおそるおそる声をかけてきた。
「村に戻れば……きっと、皆に責められる。魔王と一緒にいたなんて知られたら……」
その言葉に、ルシアンは無意識に彼女を見つめた。怯えた顔。迷子のように揺れる瞳。
放っておけばいい。勇者が拾う運命に戻してしまえばいい。
――だが口をついて出たのは、別の言葉だった。
「……俺のそばにいればいい」
アイリスは目を見開いた。
「え……?」
ルシアン自身、なぜそんなことを言ったのか分からない。
それは魔王としての冷酷さではなく、人としての本能だった。敵であるはずの少女を突き放せない――そんな弱さ。
沈黙が落ちる。
やがてアイリスは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……はい。ルシアンがそう言うなら。」
その瞬間、二人の間に小さな種が芽生えた。
それは信頼か、錯覚か、あるいは破滅の始まりか。まだ誰にも分からなかった。