第5話 『魔獣の襲撃』
焚き火の炎が弱まり、夜の森は一層深い闇に包まれていった。
ルシアンは立ち上がったまま、背を向けて動かない。アイリスは言いたいことを飲み込み、ただ彼の背中を見つめる。重苦しい沈黙が流れ——その均衡を、突如として破ったのは森の奥から響く低い咆哮だった。
「……ッ!」
アイリスが反射的に振り返る。闇の中から、赤く爛れた目がいくつも浮かび上がる。影狼の群れ。森の奥に潜む魔獣の一種で、通常は単独で行動するが、稀に群れで人間を襲うことがある。
「まずい……!」
アイリスは腰の剣を抜き、ルシアンの前へと一歩踏み出した。
彼女の肩は小刻みに震えていたが、剣を握る手は決して離さない。
ルシアンは小さく鼻を鳴らす。
「正義だ悪だと語った舌の根も乾かぬうちに、化け物に食われるか」
皮肉交じりに吐き捨てると同時に、影狼たちが一斉に飛びかかってきた。
アイリスが鋭く剣を振る。光を帯びた刃が闇を裂き、一体の影狼を弾き飛ばした。しかし数が多すぎる。二体、三体と取り囲むように迫り、その牙が彼女の細い腕を狙う。
「アイリス!」
ルシアンが思わず声を荒げた。
次の瞬間、黒い影が彼の足元から立ち上がり、鎖のように形を変えて狼たちを絡め取る。呻き声とともに地に引き倒される魔獣。
アイリスは振り返り、息を呑む。
「……あなた、やっぱり——!」
「勘違いするな」
ルシアンは低く言い放つ。
「お前を助けるつもりはない。ただ、こんな小物どもに背中を食われるのが不快なだけだ」
そう言いながらも、彼の影は自在にうねり、アイリスの死角から迫る狼を次々と引き裂いていく。その力は圧倒的だった。
アイリスはその背に守られながらも、震える足を必死に踏み出す。
「……私だって、守られてばかりじゃない!」
叫びとともに、彼女の剣が再び閃く。
仲間に加わる前から——彼女は既に勇者パーティーの一員にふさわしい胆力を秘めていた。
やがて群れの頭と思しき巨大な影狼が現れた。血走った両目と漆黒の体毛、他の個体よりも一回り大きい。
アイリスが無意識に後退しかけたその時、ルシアンの声が飛ぶ。
「怯むな。あれを仕留めれば、群れは崩れる」
アイリスは驚きに目を見開く。
敵を前にしても冷静に戦況を読み、迷いなく言葉を放つ姿。そこに一瞬、彼を“魔王”ではなく“頼れる戦士”として感じてしまった。
「……はい!」
アイリスは息を整え、剣を構える。
ルシアンは影を操り、狼の動きを封じる。アイリスはその隙を見逃さず、渾身の一撃を叩き込んだ。
轟音とともに、巨体が崩れ落ちる。残された群れは悲鳴を上げて散り散りに逃げていった。
森に再び静寂が戻る。
アイリスは荒い息を吐きながら剣を収め、ルシアンの横顔を見上げる。
「……やっぱり、あなたは悪なんかじゃない」
ルシアンは一瞬、表情を歪めた。だが次の瞬間には、いつもの冷たい微笑みに戻る。
「勝手にそう思っていろ」
しかしその言葉の裏で、彼の胸の奥には説明できない熱が残っていた。
共に戦った瞬間、ほんの僅かに心が動いた自分を——彼自身が一番認めたくなかった。