第4話 『魔王の名は…』
森のざわめきが一瞬やんだように思えた。
枝葉の隙間から差し込む陽光が、淡い金色の光を彼女の横顔に落とす。
その眼差しは真っ直ぐで、どこまでも揺らぎを知らぬようだった。
唐突に向けられた問い。
ルシアンの心臓がわずかに跳ねる。これまで彼女は「魔王様」としか呼ばなかった。
だが、いま自分の名を問われた瞬間、なぜか逃げ場を失った気がした。
名前——。
この世界に生まれ直した証であり、前世の自分を完全に切り離すもの。
ほんの短い沈黙のあと、彼は吐き出すように答えた。
「……ルシアンだ…ルシアン・ダルクレン」
その名を聞いたアイリスは、驚いたように瞬きをし、やがて小さく笑みを浮かべる。
「ルシアン……いい名前ですね。これからは、そう呼んでもいいですか?」
ルシアンは視線を逸らす。胸の奥に不快とも安堵ともつかない奇妙な感情が広がっていく。
魔王と呼ばれるのは慣れていた。恐れ、憎しみ、畏怖——それが当然だったからだ。
だが「ルシアン」という個の名で呼ばれると、自分がただの人間だった頃の感覚が無理やり引き戻される。
「……好きにしろ」
わざと冷たく返す。だが、彼女は怯まず、どこか嬉しそうに頷いた。
アイリスは焚き火に小枝をくべながら、ふと問いを重ねる。
「ルシアン様は……本当に“悪”なんですか?」
その言葉に、空気が張り詰める。
彼女は勇者パーティーに加わる未来を持つ少女——ゲームで知る限り、どこまでも真っ直ぐで正義を信じる存在だ。そんな彼女が、目の前で「悪」の象徴である魔王に疑問を投げかけている。
「勘がいいな」
ルシアンは思わず口にしていた。
皮肉交じりの声に、アイリスはきょとんとする。
「悪とは何だ?」
ルシアンは低く呟く。
「人間を焼き払えば悪か? 魔族を守れば善か? どちらに立つかで名は変わる。結局は勝者が“正義”を名乗り、敗者が“悪”とされる。それだけだ」
アイリスは言葉を失ったように沈黙した。だが、その拳は強く握られている。彼女の信じる正義と、ルシアンの吐き出した現実が真っ向からぶつかっている証だった。
「それでも……私は、誰かを傷つけるのは間違ってると思います」
震える声ながらも、アイリスの目は強くルシアンを射抜く。
胸の奥にチクリと痛みが走った。かつて人間だった頃、神谷悠真としてゲームに没頭していた日々。勇者や仲間たちの物語を、ただの画面越しに見ていた日々。——その姿と、目の前の少女の真剣な瞳が重なる。
ルシアンは焚き火に視線を落とした。ぱちぱちと燃える音だけが、二人の間に長い沈黙を作る。
「……好きに思えばいい」
それだけを残し、彼は立ち上がった。
アイリスは言葉を飲み込み、ただその背中を見つめる。彼女の胸にもまた、説明できないざわめきが芽生えていた。