第3話 『魔王と少女、揺れる心』
森の奥、魔物の残骸が静かに横たわっていた。
血の匂いが湿った空気に混じり、わずかに鉄の味が漂っている。
少女──アイリスはその場に膝をついたまま、なおも目の前の男をじっと見つめていた。
「……魔王様。」
恐怖とも畏怖ともつかない声音だった。助けられたはずなのに、彼女の瞳にはなお疑念と警戒が濃く残っている。
ルシアンはその呼び方に眉をわずかに動かす。
内心では苦笑すら浮かんでいた。(やはり、そう呼ばれるか。だが今の俺にふさわしい名でもあるのか……)
沈黙が続く。アイリスが口を開いた。
「どうして……助けたんですか?」
震える声。しかし芯は強い。逃げるでもなく、真正面から問いを投げかけてくる。
ルシアンは視線をわずかに逸らし、淡々と答える。
「別に助けるつもりはなかった。ただ、目の前の魔物を狩っただけだ。」
その冷たい響きに、アイリスは唇を噛んだ。
助けられたことへの安堵と、その後に突きつけられる冷酷な言葉。その落差が彼女の胸を乱す。
「……やっぱり。魔王様は、人を弄んで楽しむおつもりなんでしょう?」
声が震える。怒りと恐怖、そして自分でも説明できない感情が混じっている。
ルシアンは表情を動かさなかった。だが心の奥では小さなざわめきが生じていた。
弄ぶつもりはない。だが利用するつもりなら……ある。勇者と出会う前のこの少女を、俺がどうにかできれば未来は変わる。そう、俺の計算はそう告げている。だが……)
冷酷さを装いながらも、ルシアンは自分の中の「迷い」を否応なく意識していた。
アイリスは耐えきれず、一歩踏み出す。
「……だったら、なぜ私を殺さなかったんですか? あなたなら、簡単にできたはずです!」
その声は張り詰め、森の中に響いた。小鳥の鳴き声すら止み、ただ二人の間に緊張だけが漂う。
ルシアンは短く息を吐くと、口の端をわずかに上げた。
「……勘がいいな。」
その一言に、アイリスは目を見開いた。褒められたのか、嘲られたのか、判断できない。だが彼女は視線を逸らさない。
数瞬の沈黙。
やがてアイリスは小さく息を吸い、震える声で問いかけた。
「……魔王様。あなたの……名前を、教えていただけませんか?」