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【第七話】 勝者の孤独と、敗者の涙

準決勝の熱狂も冷めやらぬまま、トーナメント決勝戦の火蓋が切られた。


龍炎寺貴和子の相手は、伏兵の実力者。しかし、もはや国技館の誰もが、結果を疑ってはいなかった。

貴和子は、まるで機械のように正確な、そして一切の無駄がない相撲で、危なげなく相手を降した。その取り口は完璧だったが、どこか魂のこもらない、空虚なものに見えた。


絶頂川アナ:「優勝ォォォッ! やはり強い! 横綱・龍炎寺貴和子、今月もまた、この国の頂点に立ちましたァーッ!」


万雷の拍手の中、優勝者にのみ与えられる、最後の『子種拝領の儀』が始まる。

貴和子は、土俵の中央に静かに横たわる。ベールを被った今月の行司が、その傍らにひざまずいた。これから一ヶ月、この男と同居し、国の宝である子種を、その身に宿すべく妊活に励むのだ。これこそが、全ての力士が夢見る、最高の栄誉。


行司の手が、貴和子の体に触れる。

その時、行司が、恍惚とした吐息と共に、ぽつりと囁いた。


「…あの“三日月”、実に美しかった…」


その言葉は、貴和子のためのものではなかった。準決勝で、自分に一矢報いた、あの小娘の技への賛辞。

貴和子の表情は変わらない。だが、その完璧に磨き上げられた体の奥深くで、何かがプツリと切れる音がした。


(…そう。お前も、そうなのね)


最強の女である私が、今、お前を抱いてやっているというのに。お前の心は、ここに非ず。あのひよこの、まぐれの一撃に心を奪われている。

儀式は、完璧に、そして無感動に終わった。行司から注がれた子種は、熱を失ったただの液体のように感じられた。

最強の女の称号、優勝という栄光、そして日本最高の雄との一ヶ月。その全てを手に入れたというのに、貴和子の心は、キャリアの中で最も冷たく、そして孤独だった。


一方、その頃。

十六夜咲は、故郷の、古びた木造の相撲部屋で、一人、静かに座っていた。

国技館の熱狂が、まるで遠い世界の出来事のようだ。脳裏に焼き付いて離れないのは、女王の圧倒的な力と、あの屈辱的な敗北の快感。


「…悔しいかい?」


縁側で茶をすすっていた祖母の撫子が、静かに問う。その声には、責める響きも、慰める響きもなかった。

咲は、こくりと頷く。目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「…うん」

「そうかい」


撫子は、それ以上何も言わない。その変わらぬ態度が、逆に咲の心に火をつけた。

悔しい。

悔しい。

悔しい。

ただ、漠然と感じていた感情が、腹の底からマグマのようにせり上がってくる。

咲は、生まれて初めて、感情を爆発させた。


「悔しいッ!!」


畳を拳で叩き、子供のようにわんわんと泣きじゃくる。


「悔しいよぉ…! あの人に、何も通用しなかった…! 最後は、おもちゃみたいにイかされて…! 悔しい! 悔しいよ、おばあちゃん!」


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、咲は顔を上げた。その瞳には、これまでの気弱な少女の面影は、もはやどこにもなかった。燃え盛る炎のような、強い光が宿っていた。


「強くなりたい…!」

「次は、私の意志で、あの人に勝ちたいッ!」


それは、もう敗者の涙ではなかった。

敗北の味を知り、本当の悔しさを知った者が流す、戦士の涙だった。


その言葉を、撫子は待っていた。

老婆の深く刻まれた皺の奥で、全てを見通すような瞳が、満足そうに、そして誇らしそうに、細められた。

シンデレラの硝子の靴は、無残に砕け散った。

だが、その裸足の足で、彼女は今、本物の戦士への道を、確かに踏み出したのだ。


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