【第四話】 土俵の外の女たち
シンデレラ、十六夜咲の二連勝。
そのニュースは、ネオジャパンのスポーツ紙や週刊誌の見出しを派手に飾っていた。だが、週刊誌『週刊文寸』の契約記者、涼風涼子――通称“ゴシップお涼”は、その熱狂を冷めた目で見ていた。
彼女が陣取るのは、国技館の記者席ではない。国会図書館の、カビ臭い書庫の一角だ。目の前には、過去数十年分の『月刊マンコ相撲』のバックナンバーが山と積まれている。
(十六夜咲、十六歳。田舎の無名部屋、十六夜部屋の所属…。クリーンすぎる。シンデレラストーリーなんて、大衆は喜ぶけど、あたしが欲しいのはそんな上っ面じゃない)
ハイエナのような鋭い目で、彼女はマイクロフィルムの画像を睨む。欲しいのは、シンデレラのガラスの靴に隠された、泥や垢だ。
「あった…」
お涼は、今から三十年前の古い名鑑に、一つの名を見つけてほくそ笑んだ。
【元大関・十六夜 撫子】
咲の師匠であり、祖母。その記録の末尾には、こう記されていた。
【理由非公開のまま、協会より追放処分】
「…引退じゃなく、“追放”。これよ、この匂い…」
お涼は、獲物を見つけた肉食獣のように、不気味に口角を吊り上げた。
その頃、ネオジャパン最強の力士たちが集う名門、龍炎寺部屋は、静かな緊張感に包まれていた。
最新鋭のトレーニングマシンが並ぶ稽古場。中央の土俵では、若い力士たちが汗を流している。しかし、その空気は殺伐としていた。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
部屋のナンバー2である麗華が、四股を踏んでいた下級生の足元に、わざと給水ボトルの水をこぼす。下級生はビクリと体を震わせるが、何も言えずに黙々と稽古を続ける。
その光景を、横目で見ながら、別のグループの力士たちが囁き合う。
「聞いた? 咲とかいう小娘、天知さんの解説だと、横綱の『万物吸引』を破る可能性があるんですって」
「馬鹿らしい。横綱が、あんな田舎娘に負けるものですか」
「そうよねぇ。でも、横綱ももう三十二歳。そろそろ…ねぇ?」
嫉妬、羨望、そして野心。横綱という、たった一つの玉座を巡る女たちの欲望が、ねっとりとした瘴気のように稽古場に渦巻いている。
その空気を、たった一人の人間の登場が、一瞬で切り裂いた。
龍炎寺貴和子。
稽古着姿の彼女が、すっと稽古場に足を踏み入れた瞬間、全ての私語が止み、空気は氷のように張り詰めた。
貴和子は、渦巻く欲望の中心にいながら、その何一つにも興味を示さない。ただ、冷たく、そして絶対的な女王として、そこに君臨している。
「…随分と、楽しそうじゃないの」
静かな、しかし芯のある声が響く。
「お喋りする時間があるなら、その口で互いの性器でも舐め合って、感度でも高めておいたらどうかしら? それとも、四股を追加で五百回、踏みたいのかしら?」
「「「申し訳ありませんでした!!」」」
力士たちが、蜘蛛の子を散らすように稽古に戻る。貴和子は、その光景に鼻を鳴らすと、自らも土俵へと向かった。
(小娘一人の勝利で、揺らぐ程度の忠誠心…。我が部屋も、焼きが回ったものね)
その瞳には、咲への苛立ちと共に、自らが作り上げたこの「城」の脆さに対する、微かな失望の色が浮かんでいた。
深夜。お涼は、馴染みの情報屋――協会を不祥事でクビになった元職員の男と、安酒場で向かい合っていた。
「…十六夜撫子のこと、ねぇ。お嬢ちゃん、またヤバいとこ突っつくねぇ」
男は、お涼がテーブルに置いた分厚い封筒を懐にしまいながら、声を潜める。
「あの名前は、協会のタブーだよ。特に、龍炎寺部屋の前ではな」
「どういうこと?」
「昔、どっちが先に横綱になるかって、撫子と龍炎寺部屋の先代――つまり、今の横綱の師匠が、そりゃあもう壮絶なライバル関係でね。人気も実力も、完全に二分してた」
「……」
「だが、ある年の『天下一番相撲会』の決勝で、事件は起きた。撫子が、龍炎寺の先代を“壊しちまった”んだよ。再起不能になるほどの、えげつない“禁じ手”でな。その結果、撫子は追放。龍炎寺部屋は、絶対的な権力を手に入れた。…表向きは、そうなってる」
「表向き?」
お涼の目が、鋭く光る。
男は、酒をぐいっと煽ると、さらに声を潜めた。
「…妙だと思わねえか? その決勝戦の映像、なぜか協会から完全に消されてんだよ。そして、その試合の行司…当時の人気ナンバーワンだったんだが、試合直後に、謎の失踪を遂げてる」
禁じ手。追放された伝説の力士。消された映像。失踪した行司。
そして、その伝説の孫娘が、三十年の時を経て、龍炎寺の女王が君臨する土俵に上がってきた。
「はっ…!」
お涼は、思わず笑い声を漏らした。点と点が、線で繋がり、巨大なスキャンダルの輪郭を描き始める。
「面白くなってきたじゃないの…!」
シンデレラの物語は、復讐劇の序章に過ぎなかった。
土俵の外で、静かに、しかし確実に、新たな戦いの火蓋が切られようとしていた。