怒れる魂/悍ましい愛
「儀礼装束の準備ができました」
巫女装束に着替えた光美がその手に儀礼装束を抱えて奥の和室の襖を開ける。
中では既にポニーテールを解き、その長い黒髪を丁寧に梳かし終え、下着以外の衣類を脱いだ状態の雪奈が静かに佇んでいた。
「失礼します」
光美はそう言うと、儀礼装束の着付けを始める。
光美は黙々と雪奈の身体に白装束を纏わせ、その上から儀礼装束を纏わせる。
薄く赤みがかった巫女装束にも似た儀礼装束、その本質は他者の霊力……すなわち魂のエネルギーを込めることによって発揮されるソレはアキルと光美の二人に込められた力によって仄かに熱を帯びていた。
最後に薄紫色の炎と雪の刺繍が施された羽織に雪奈は袖を通す。
「……」
雪奈は暫しの沈黙の後、ぽつりと言葉を漏らす。
「私は……私たちはどこで違えてしまったんでしょう……」
雪奈のその言葉に光美は静かに瞳を閉じ、沈黙する。
外からは泣き叫ぶ人々の声が遠く響く、助けを求める人々の嘆き声が。
決意を固めた雪奈は光美に言葉を紡ぐ。
「光美、私は貴女の姉を……美影をもう一度殺します。ですが……」
雪奈がその先を言うのを遮る様に光美は答える。
「分かっています。だから……どうか、お願いします」
光美顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
それでも、彼女はそう告げた。
雪奈はそんな光美を見て、何も言わずに瞳を閉じ、自らの拳を強く握りしめる。
雪奈の瞳がゆっくりと開く、その眼には決意の炎が灯っていた。
「行きましょう……!」
雪奈の一言と共に二人は外に向かう。
既に外で待っていたアキルと共に三人は急いで市街地へと向かった。
——————————————————
「何よ……コレ……」
あまりの光景にアキルは無意識に言葉を漏らした。
無理もない、三人が市街地に着いた頃には既に京の町は地獄絵図と化していた。
晴れ渡っていた空は血にも似た赤黒の雲に覆われ、人々を食い殺しながら不快な羽音と共に蟲達の群勢が次の餌を求めて飛び回っている、その苦痛を嘲笑うかの様に天をも穿つ程の巨木が町の中心で、仄かに輝く薄紅色の桜の花を傲慢に咲かせていた。
辺り一面から聞こえるのは苦痛の声、絶叫、悲鳴。
美しかった京の街並みは赤黒く染め上げられ、あたり一面に無惨に殺された人々の亡骸が積み重なって転がっていた。
鼻腔をくすぐる血と肉が入り混じった絶望の匂いに、アキルは思わず口を押さえた。
「無理はしないでください。光美、アキルさんと生存者をお願いします」
「御任せを‼︎」
パンッ、と拍手を一回行い、光美は三体の式神を呼び出す。
「右牙! 左牙! 白桜! まだ生きている人がいたらここまで連れてきて!」
光美の命令を受諾した三体はすぐさま走り出す。
同時に光美は地面に右手を当て素早く、それでいて厳かに祝詞を紡ぐ。
「我守護するは無辜の民なり、我排するは邪悪なり、我が身を贄に一時の安寧を願いまする!」
祝詞を終えると同時に手の触れた地面から淡い光がドーム状にどんどん広がっていく、その大きさ実に凡そ半径25km。
そして広がる最中、結界に触れた肉蟲達を次々と塵へと還す。
光美が広げたこの光のドームは外敵を廃し無辜の民を守護する物……神代の一族が脈々と受け継ぎ紡ぎ続けた結界術、その名を『楼閣』、術者の霊力、ひいては命そのものさえも贄として発動される絶対安全領域である。
「っはぁ……!」
光美は膝から崩れ落ち、大きく息を吐いたのち肩で息をする。
無理もない、これほど巨大な結界を一人で組み上げたのだから。
本来、これほどの大規模結界を創り上げるには複数の術者の補助が必要だ。
しかし今現在、市内に居る他の術者達を集めている暇など無い。
だからこそ、無理を承知で己が命の多くを贄としてでも結界を張ったのには意味がある。
この結界内は原則的に光美が認めた『無辜の民』以外侵入する事は出来ず、それ以外のものが結界に触れば強制的に迎撃する絶対安全領域。
故に、この結界内で民衆を保護する事で他の陰陽師達には戦闘に集中して貰えると光美は考えたのだ。
「ありがとう、光美……私は行くね」
光美に感謝を述べ雪奈は一目散に駆ける。
目指すは呪楼の根元、おそらくそこに美影はいるはずだ。
式神を行使する術者が死ねば術者の霊力によって顕現している彼らは霧散し消え果てる。
この事態を解決する為の唯一絶対の条件、ソレは美影を殺すことただ一つだけ。
迷いを全て捨て駆け抜けて行く雪奈、自らのやれることを精一杯やる光美、その二人を何もできずにただ見るだけだったアキルは自ら心を、魂を、奮い立たせ、ある決心をする。
———呪楼『蠱毒』の根元に全速力で向かう雪奈、次第に周囲の空気が変わる。
そして……
「久しぶり、雪奈‼︎」
蠱毒に続く一直線の道……蠱毒が成長する際に意図的に建物を壊し、蟲達に殺された多くの人々の魂を鬼火にして照らし、鮮血で美しい紅色に塗り上げた花路。
その道の最果て、呪楼の下でコチラに気づいた美影が嬉しそうに手を振っている。
雪奈は辺りを見渡す。
無惨に殺された人々の亡骸、大人も子供も男女も関係なしに皆殺しにされたその中には我が子を守ろうとした両親とその子供のものと思われる亡骸もあった。
周囲からは悲鳴と助けを求める嘆きの声が終わることなく木霊し続ける。
身体が震える、思考を研ぎ澄まされる、魂が荒ぶる、雪奈の中に灯された怒りの炎が激しく、熱く、燃え盛る。
「美影ぇえ!!!」
怒りの声を上げ、雪奈は地面を抉り取るほどの力を込めて踏み込む。
人体の限界まで鍛え上げた雪奈のソレは最早瞬間移動と大差のないものとなっていた。
20m近くあった距離を時間にして1秒にも満たない、まさに一瞬で詰める。
美影の懐に潜り込んだ雪奈は腰に差した刀の鞘を軽く押さえ、柄を握る。
「あれ?」
何が起こったのか美影は理解できていない様だった。
無理もない、先程まで居たはずの雪奈が瞬きの間に視界から完全に消失していたのだから。
自身の背後に雪奈の気配を感じたであろう美影はコチラに振り向いた。
「せつ」
言葉を発しようとした瞬間、美影の視界が二つに割れる。
美影は何が起こったか理解できなかった、何故なら斬撃どころか抜刀の瞬間すら全く視えなかったのだから。
先程の疑問を思考する間を与えられる事無く美影の身体がバラバラに崩れ落ち、鮮血を噴き出しながら美影は完全に沈黙した。
暫し遅れて鍔鳴りの音が静寂の中に木霊する。
雪奈が行った攻撃、それは至極単純な居合だ。
ただし、限界まで研ぎ澄まされた……音速の先、超音速へと至ったモノだが。
雪奈の一族、不知火の流派は古くから人体を限界まで鍛え抜く事を研究し、更にその先へ至るための研鑽を紡いだ。
その究極系こそ音を超えた不可視の斬撃、その名を『送火』痛みを理解する暇すら与えず黄泉へと送る極限の一刀である。
本来、『送火』を使った使用者は身体に莫大なダメージを負ってしまう。
幾ら極限まで鍛え抜こうと所詮は生身の人間、超音速に至る斬撃はそれほどまでに危険な物なのだ。
だが、今は違う。
雪奈がその身に纏う儀式礼装……『桜華・不知火』、その真骨頂の一つは付与された霊力によって、纏う者の身に防壁の役割を果たす小規模な結果を膜のように展開すること。
この結界により本来ならば連続使用が不可能な『送火』の連続使用を可能とするのだ。
しかし……
「お前はいつまで死んだふりをしている?」
バラバラになった美影の亡骸に対して雪奈は冷淡に告げる。
一切の油断もなく告げられたその声に呼応する様に美影の亡骸は蠢き始める。
切られた箇所から筋繊維、神経、血管を伸ばし互いをつなぎ合わせる。
悍ましく冒涜的な光景、しかし雪奈は眉ひとつ動かすことすらない。
ソレどころか、次の攻防に備えて冷静に刀の柄を握り構えを取る。
しばらくして元通りになった美影は口を開く。
既に美影は人であることを放棄し、人ならざる外道に堕ちていた。
「あぁ! すごいわ雪奈! いつの間にこんなに強」
美影の言葉を待つことなく雪奈は再び『送火』を放つ。
もはや、外道に堕ちたモノに慈悲など必要に在らず。
先程同様、鍔鳴りだけが遅れて響き、同時に美影の身体が崩れていく。
しかし、今度は完全には崩れない。
正確に言えば、文字通り皮一枚で美影の身体は繋がっていた。
自らの肉体を修復しながら美影は呟く。
「ものすごいスピードの『送火』ね? 貴女のお父さんより早かったわよ」
純粋に賞賛する様に、無邪気な笑顔で美影はそう言い放った。
瞬間、雪奈の中で何かがプツリと切れる。
同時に先程と同じ『送火』を放つ。
何度も、何度も、何度も……美影が細切れになり、肉片だけになるまで何度も。
間違いなく全て決まったはずだ、だが、しかし……
「ふふ、嬉しいわぁ! 雪奈がこんなにも私を殺意ってくれているなんて!」
美影は健在だった。
ソレどころか先程までより修復のスピードが飛躍的に上がっている。
このままでは不味い、と思った雪奈は再び刀に手を向けようとするが……
「つーかまえた♡」
不意に、背後から声と同時に何かに抱きつかれる。
ほんの一瞬、雪奈は注意がそちらに向いた、向いてしまった。
その一瞬の隙を美影は見逃さなかった、即座に地面から四体、ムカデの式神を呼び出し雪奈の四肢に巻き付かせ、拘束する。
雪奈は強引にでも拘束を逃れようと四肢に全力で力を込める。
が、雪奈の人間離れした圧倒的な膂力を持ってしてもムカデ達は千切れない。
「ふふ、大成功」
自分に抱きついているナニカがそう呟く、その声色と気配に雪奈はある事に気づく。
そんな事有り得ない、あり得ていいはずがない。
そう思いながらも雪奈は自分の後ろに視線を向ける。
そこに居たのはまごうことなく神代美影だった。
再び正面を向くと自身の目前に先程まで切り刻まれていた美影の顔があった。
「雪奈は大きくなったねぇ、そのままだと目線が合わせられないから蟲が居ないと大変よ」
ふふ、と無邪気そうに眼前の美影は笑う。
「ワタシが二人いてビックリした? 安心して、どっちもワタシだから」
思考が追いつかない、光美から美影が居たと聞いた時から既に人外と化した事は想定していたが、何故増えている?
自らの完全な分体を生み出すなんて芸当は余程高位な存在……それこそ大妖怪や神性存在でもない限り不可能のはず、少なくともたかだか八年前に死んだ元人間がその領域に至るのは不可能だ。
思考を限界まで回す雪奈を他所に美影達は言葉を紡ぐ。
「あぁ、雪奈の匂いも温もりも昔のままだわ……髪の毛もサラサラで綺麗で……」
「ちょっと? ワタシとは言え雪奈を独り占めしないでくれるかしら?」
「別にいいじゃない、ワタシ? 感覚も共有してるのだし問題ないでしょ?」
そんなくだらない問答を二人の美影は続ける。
だが、この状況で無駄な問答で時間を浪費してくれるのならむしろ助かる。
雪奈は今、いつ殺されてもおかしくない状況下にある。
だからこそ、勝手に時間を作ってくれるなら……
そう雪奈が考えていると周囲からくすくすと無数の笑い声が聞こえ始める。
「あらあら、ワタシ達? 雪奈は一人しかいないのだからみんな平等に、ね?」
その声を皮切りに、雪奈にとって悪夢の様な光景が視界に広がる、空から、地から、無数の美影達が這い出でる。
「ええ、そうよ、平等よ!」「けれど雪奈は一人しかいないわよ?」「大丈夫よ、ワタシ達、別に触れ合う以外にも方法はあるもの!」「「「そうね、ワタシ!」」」
無数の美影達が問答を繰り返し、結論に至る。
そして……
「それじゃあ、始めましょうか」
ひとりの美影が指を鳴らす。
瞬間、雪奈の四肢を巻きついていたムカデが限界まで締め上げ、潰し、破壊する。
「ぎっぃやぁぁぁぁぁぁあ!!!」
不意の激痛に雪奈は絶叫する。
四肢は完全に破壊され内部の筋繊維や骨が鮮血と共に露出している、その状態で雪奈は地面に仰向けに降ろされ、ムカデ達は離れていく。
その声を姿を見た美影達はあるものは恍惚な表情を、あるものは身を悶えさせ、またあるものは歓声を上げる。
苦痛で雪奈の呼吸が荒くなる、そんな雪奈の頭を自らの膝の上に乗せて、美影の一人が頭を撫でる。
「痛いわよね……けど、ワタシ嬉しいの! 雪奈がこんなにも痛がっているのを初めて見ることができたのだもの!」
優しい声色と表情でそう言い放つ。
「安心して、雪奈? ワタシは貴女に死んでほしいわけじゃないのよ? もし耐えらなくて死んでしまっても大丈夫! ワタシがちゃんと治してあげるから!」
その言葉を聞いて雪奈は絶句した。
同時に底知れぬ恐怖に心が支配されそうになる。
その表情を視た美影はまた嬉しそうに喋り始める。
「良いわ、雪奈! 今、恐怖しているのでしょう? その表情とっても素敵よ!」
もっと良く見せて、と美影が顔を近づける。
瞬間、雪奈は上半身を勢いよく起こし、美影の首を全力噛みちぎる。
「ペッ……!」
口の中の美影の肉片を吐き捨てる。
どれだけ怖かろうと、勝ちの目がなかろうと、ただ諦めるなんて雪奈の魂が……否、この身を焼き尽くす程の怒りが許さない。
死が目前に迫っていようと最後まで足掻いてみせる。
コレはその魂の表れだ。
美影は首に手を振れ、噛みちぎられた喉から噴き出し自らの手を赤く染める鮮血で何が起こったかを理解する。
「あ、あぁ……!」
美影は身体を震わす。
しかし、首を噛みちぎられた痛みからではない……
「雪奈がワタシを食べてくれた!!!」
雪奈は再び絶句する、その言葉の意味が理解できなかった。
しかし、美影はそんなのお構いなしに熱狂のまま捲し立てる。
「嬉しい、ワタシ嬉しいわ、雪奈! さっきまでの恐怖していた貴女も素敵だったけれど、今の貴女はもっと素敵! 怖くて怖くて仕方ないのに! 手足もグチャグチャで使い物にならないのに! それでも! ワタシに果敢に噛み付いた! あぁ、あぁ!!!」
美影は身体を震わせ悍しいすら感じるほどの恍惚の笑みを浮かべる。
そして……
「あぁ……ごめんなさい、雪奈、ワタシ昂っちゃった……もう、我慢できないの……」
美影は優しく雪奈の頭を抱える。
そして……全力でその頭を潰した。
「がっ……」
最後の言葉を発する暇もなく、痛みを感じる事も、思考する間も無く雪奈の頭蓋は砕け散り、その中身をぶちまける。
残ったのは下顎から先だけが力なく沈黙した雪奈の亡骸だけだ。
「ふふ……やっぱり、雪奈は脳も綺麗ね……」
両手にこびり付いた雪奈の脳を美影は丁寧に舐め取り、咀嚼し、ゆっくりと味わうように嚥下する。
腹部から身を焦がす熱い炎の様に激しい快楽が美影の全身を駆け巡る。
思わずその身を震わせ、至福の笑みを浮かべる。
「ふふ、ちょっとやり過ぎちゃったわね……続きは一旦休憩してからにしましょ? ねぇ、雪奈」
そう呟くと美影が指を鳴らす。
同時に呪楼に人より少し大きい程度の裂け目が開く。
深淵を切り取ったかのような黒に塗りつぶした裂け目からは、まるで呪うかの様な怨嗟の声が響いていた……
美影達はそんなことなど気にせず、頭の上半分と四肢が潰れた雪奈の亡骸と辺りに飛び散った雪奈の肉片をかき集め、呪楼にできた裂け目からその中へと消えていった。