思惑
「まずい、まずい、まずい」
士人は血相を変えて馬を走らせていた。別に馬が苦手だからではない。馬良と糜芳の話を、彼は盗み聞きをしていたのだ。
「普通は断るだろ」
憤りが独り言に変わる。糜芳が荊州総督を引き受けるとは、思っていなかった彼は、自身が裏切り者として処罰されることを危惧していた。
「こうなったら、俺だけでも…」
これら全てが馬良の策だった。糜芳と士人どちらかを優遇することで、意図的に不和を生む。いわゆる『離間の計』というやつだ。
自らの保身しか考えていない士人は、策に嵌っているとも疑うこともない。次の宿主へ鞍替えするために、馬の尻をひたすらに叩くのだった。
時は流れ、馬良は再び関平のもとを訪れていた。
「で、これはどういうことなんだ?」
関平は机に木簡を叩きつけて怒鳴り散らす。勿論、書かれている内容に怒っているのだが、馬良は眉ひとつ動かさない。予めこうなることを予感していたかのようだ。
「どうもこうもありませんよ。今の私は糜芳総督の使者として参っています。宣言していたとおり敵としてね」
関平は額に青筋が立てながらも、怒りを我慢していた。表面上は険悪に見えるが、これは演技だと理解しているからだ。理解していても抑えきれないのは、木簡の内容が本当に酷いものだったからに他ならない。
「関羽元将軍の配下は直ちに武装を解除し、即刻、江陵城に出頭するべし」
まるで関平達が逆賊だと言わんばかりの書きぶりに、糜芳の性格がよく出ている。用は総督になって調子にノッているのだ。
「…はぁ、それでどう答えればいい」
「それは関平殿がお考えになればよろしいのでは?」
「おい!」
なれない演技に早くも限界がきた関平は、降参とばかりに馬良に答えを聞いた。
「冗談ですよ。そうですね…二、三回は断ればいいと思います」
「理由は」
「武装、統率力、物資、どれを取っても糜芳様は足りていません…それに」
「なんだ?」
「いえ、一番足りてないのは人望でしょうね」
馬良の話に満足した関平は、案を採用してシンプルに断りの手紙を書くと、それを馬良に渡した。
「では私はこれを持って、のらりくらり時間をかけて帰ります故に」
「よろしく頼むぞ」
馬良は挨拶も簡単に、部屋を後にしようと扉に手をかけた。
「そうだ。関羽殿が帰られたと聞きましたが」
「親父なら今頃、江陵の市場にでもいるんじゃないか」
「なんと!?危険では」
「心配いらない。あいつが付いてるからな」
翼は馬良が来る一日前に、関平のもとを訪れていた。簡単な情報交換とあることが目的だった。
「帰りの旅はあっという間だったな」
白帝城からの帰りは、行きと違いスムーズにいった。一度通った道ということもあるが、隣の人物によるところが大きいだろう。
「パパはやく〜」
銀屏の案内のお陰で道に迷うこともなく、関所も何不自由なく通行することができた。やはり慣れない文化や土地は、現地の人に教えてもらうのが一番だ。
爆速で帰還した俺と銀屏を、関平が出迎えてくれる。始めは驚いていたようだが、「まぁ、親父らしいか」と最終的に納得してくれた。
「というわけで、本国からとびきりの精鋭が援軍に向かっている」
「精鋭…もしかして叔父さんが!?」
「お、叔父?…ああ、張飛のことか」
関平の中では援軍は張飛で確定したようだ。確かに張飛が来てくれれば百人力かもしれない。ただ、個人的には、やはり諸葛亮や趙雲も捨てがたい。この三人の誰かが来てくれれば、魏呉の同盟軍であろうと返り討ちにできるだろう。
「パパまだ〜?」
物思いにふけていると、銀屏が不満そうな声を上げる。早く江陵の市場に向かいたいのだろう。
長江という大河が流れる関係で、貿易や物資のやり取りが盛んな江陵には、様々な甘味が集まる。銀屏はそれを食するのが目的なのだ。
「はあ、関平ひとつ頼みなんだが」
「なんだ」
「金を貸してくれ」
何をするにも金がいるのは、何処の世界でも一緒だった。旅をするのも物を食べるのも、何をするにも金だ。白帝城への旅で路銀は既に尽きていた。
流石にどうかと思ったが死を偽装している以上、自分の金などこの世に存在しない。他に頼るあてもない俺は、息子に金をせびるしかないのだった。