馬良の甘言
時は遡り翼が白帝城に旅立った後のこと、麦城の一室で関平と馬良は相対していた。
「あそこまでする必要は、無かったんじゃねぇか」
関平は怒気を孕んだ言葉を発する。彼は苛立っていることを自覚しつつも、その気持ちを抑えられないでいた。
「利用できる物を利用しただけですよ」
対して馬良の答えは淡々としている。関平が激昂している理由を、理解できていない訳ではない。たが、自分の行いが間違っているとも思っていないのだ。
二人が火花を散らしている理由、それは関羽の死を偽装するにあたり、敵の捕虜を使ったことに起因していた。
関羽軍は先の樊城攻めの戦果として、魏軍五大将が于禁及び一万の敵兵を捕虜として捉えている。馬良はその中から関羽に近い妙齢の男を選び、翼が勢いで剃った髭を使って偽の死体を作らせたのだ。
本物の髭を使った偽装の効果は絶大だった。誰もが関羽の死を信じ込み、あっという間にその噂は広まることになる。
「成功したから、そんなことが言えんだよ」
「敵兵にそこまで情けをかけるとは、理解できませんな。命を奪った訳ではないのですから、問題ないでしょう」
「それこそ、運がよかっただけだろが!…まぁいい、これからどうするつもりだ?」
樊城から撤退する時から、少なからず溝のある仲だったが、今回の一件でさらにその溝は深まることになる。とはいえ、今は仲違いしている場合ではない。そのことを関平は理解していた。
「関羽殿の話では、糜芳と士人が呉に寝返るつもりらしいので、それを阻止します」
「具体的には?」
「特に決めておりません」
「はぁ!?」
「まずは情報を集めないことには始まりませんので」
「お前、何を悠長な」
「ただ一つ言えることはあります」
「なんだ?」
「あなたと私は敵対することになるでしょう」
すでに印象が最悪な関平は、本当にそうなっても構わないと、内心では思ってしまった。だが、それを言葉にするほど子供ではない。
馬良はそれ以上語ることはなく、早々に身支度を整えると、糜芳と士人が守る荊州南部に向けて移動を開始するのだった。
そして場面は変わり、士人との密談を終えた糜芳のもとに馬良は現れる。糜芳としては間一髪といったタイミングだった。士人との密談を聞かれていれば、成都の連中に報告され、即刻更迭されていたに違いない。
「本題に入る前に確認ですが、関羽将軍がお亡くなりになったのは、ご存知でしょうか」
「うむ、ついさっき知ったところだ」
「知っておられるなら話が早い。お伝えしたいことというのは、糜芳様に空白となった荊州総督を引き継いでもらいたいのです」
糜芳は驚きのあまり椅子から転がり落ちる。荊州総督、つまりあの関羽の後釜に指名されたのだ。実質的な荊州のトップ、今の役職に比べれば大出世に違いない。
「まっ待ってくれ、意味が分からんぞ」
「論ずるより、こちらを見せた方が早いでしょう」
馬良は懐から木簡を取り出すと糜芳に渡した。そこには荊州総督に、自分を任命する旨が記されている。押印されている諸葛丞相の印が、これは本物だと物語っていた。
「ご理解いただけたでしょうか」
「解せぬ」
「はい?」
「関羽様には息子がいただろう」
これは糜芳なりの牽制だった。都合のいい話には必ず裏がある。このまま二つ返事で総督役を受けてしまえば、先の関羽の息子と確執が生まれることは目に見えていた。
士人のように、あからさまな言葉にしたことはないが、関羽の下で荊州南部を守護することに憤りを感じていのだ。少なからず、態度や行動にそれが露見している自覚があった。
「関平様のことですね」
「そうだ。彼も関羽様に劣らない武勇を持っていると聞いておる。後を継いでも、誰も文句を言わないはずだが」
今なら呉に降るも、蜀漢で上職に付くことも出来る。糜芳としては、この場は有耶無耶にした方が都合がよかった。寧ろ双方の申し出を一度断り、さらに条件を吊り上げて交渉することも考えていた。
「糜芳様しかいないのです!!!」
突然の大声に糜芳は不快感を覚えたが、馬良の大粒の涙を流していることに気がつくと、その思いも消えてしまう。
「成都の高官の中では、樊城を攻め倦ねていた関羽将軍に、失望の声も出ておりました。今この荊州を治ることができるのは、糜芳様ただ一人なのです」
「お、おおう」
「おっしゃるとおり、関羽将軍の息子も候補に上がっておりました。ですが、あんな戦うことしか脳のない木偶の坊ではだめなのです」
「わ、分かった。そなたの話を呑もう」
矢継ぎ早に捲し立てられた糜芳は、荊州総督の役を受けてしまう。若干、当初の予定とは逸れてしまったが、よくよく考えると悪い話ではない。権力も財力も今の比ではなくなるのだから。
こうして馬良の巧みな話術により、糜芳の裏切りは阻止されたのだった。