糜芳と士人
翼が関羽の死を偽装してからすぐのこと、江陵城の一室で密会が行われていた。
「関羽様が死んだだと?それは本当なのか!」
腕を組んで話を聞く男の名は糜芳、荊州南方の守りを務めている武将だ。
「し、死体を見た者もいますし、間違いないかと」
オドオドした様子で報告するのは士人、同じく荊州南方の守りを務める武将である。
史実であれば、この二人が簡単に呉に降伏してしまったせいで、関羽は退路を絶たれた。つまり関羽が戦死する元凶いっても過言ではない。
「名の知れた猛将といえど、死ぬ時は実に呆気のない…荊州はこれからどうなってしまうのか」
「僭越ながら、いい話を持ってまいりました」
士人はニヤつきながら、一つの書状を懐から取り出すと糜芳に手渡す。怪訝な顔をしながらも、書状を確認した糜芳は、驚きのあまり目を見開いた。なんとそれは、呉軍大将呂蒙からの降伏勧告だったのだ。
『今すぐに降伏すれば糜芳及び士人、両名の待遇は保証する。しなかった場合、総勢5万の軍勢がお前達を蹂躙することになるだろう』
差出人は呂蒙となっていたが、これは知将陸遜の考えた書状だった。飴と鞭を巧みに織り混ぜることで、人心の掌握を図る。人の心理を知り尽くした、実に巧妙な策であった。
実際、士人はすでに降るつもりでいたし、糜芳の心もそちらに傾いていた。糜芳と士人の兵力を合わせたとしても、一万人にも満たない。その戦力で敵から荊州南方を守ることは不可能だ。
「…すぐに返答はできん」
「何を迷うことがありましょうか。このまま蜀に尽くしたところで、冷遇される未来しかございません」
蜀漢の首都である成都から、荊州はかなり遠い。そのような僻地に、二人は起用されたのだ。現代風にいえば、地方勤務を言い渡された公務員のようなもの、有り体にいえば左遷である。
その実、荊州は蜀漢にとって重要な要所であった。国主である劉備にとっては、優秀で信頼のおける者を配置したつもりだったが、二人はその意味を履き違えていたのだ。
「ええい!そんなことは分かっておる」
「ひぃ!?」
「っ…とりあえず話は持ち帰る」
「で、ですが早くしなければ」
「早急に結論はだす。それまで勝手に動くな」
「はい…」
しつこく食い下がる士人を、糜芳は無理矢理下がらせた。士人が部屋を出ていったのを確認すると、糜芳は「はぁ」っと大きなため息をつく、矢継ぎ早に発生した出来事に脳が追いつかないのだ。
糜芳は考える。理を取るならば呉に降るのが正解だろう。だが、武人としてのプライドがそれを許してはくれない。相反する思いが拮抗して、思考は袋小路に入ってしまった。
「夜分に失礼いたします」
答えを見つけられずにいた糜芳に、一人の男が訪ねてきた。
「お前は…」
「馬良と申します」
馬良のことは噂程度に聞いていた。優秀と評判の文官だ。あの諸葛様も認めているとかなんとか。
「何のようだ」
「糜芳様へとお伝えしなければならないことが」
どうでもいいことだろう。思考に疲れていた糜芳はそう考えたが、馬良の話に本日二度目の衝撃を受けるのだった。