取調室3
マンションの上の階に、どうにも精神異常と思われる人物が住んでいる。
受付の警察官にそう言うと、私は通路奥の取調室に通された。
部屋番号は3。
刑事ドラマでよくみるのと全く同じ、灰色の殺風景な部屋だった。
ドラマで見る取り調べと違い扉は終始開けたままであり、聞き取りにやって来た警察官は一人だけだった。
担当になった警官は私より一回り大きくがっしりとした体つきの中年男で、今井と名乗った。
太い声の今井は挨拶もそこそこに淡々と、私と目を合わせずに、田中について話す私の話しを書き留めていった。
出だしからやる気のなさそうな今井だったが、頷きながらふんふんと親身に話しを聞いてくれた。
奇声のくだりなどは、何時だったかや声の大きさなど前のめりに聞いてきた。
が、私が包丁の話しをすると怪訝な顔をした。
顔を上げた今井はその日初めて私の目を見た。
「なぜあなたはその田中さんが部屋で包丁を握っているとわかったんです?」
私は一瞬言葉に詰まった。
今日私は隣人ニュースの事を話すつもりで来た。
だが、何をどう説明するか頭の中にあった筋書きは、いざ警察官を目の前にしてみると吹き飛んでしまい、田中の話しをしたのだった。
私は先に隣人ニュースの話しをすべきだったと内心舌打ちした。
「あの、それには奇妙なわけがあるんです。私は今日その話しをしに来たんです」
「上の階の田中さんの件ではなく?」
「いやそれもありますよ、もちろん。繋がっているんです。とにかくおかしいんです、いろいろと」
うまく言えない苛立ちから私の語気は少し荒くなった。
今井は眉を上げわざとらしく驚いた顔を作り、何度ゆっくりうなずいて見せた。
「まあまあ。落ち着いて」
言われて私は一度鼻で深呼吸をした。
「で、おかしいというのは?」
今井はペンをくるりと回し、目で私を促した。
「出るんです」
「出る?はは、幽霊ですか?」
今井は笑った。
私はなんだか馬鹿にされたようでむっとした。
怒りながら反論しようとしたせいか、緊張していたせいか、それとも取調室の空気が乾燥していたせいだろうか。
言葉を発しようとして私は少し咳き込んだ。
その様子を今井は無表情な顔で見つめた。
息を整えた私は
「違いますよ。テレビに出るんです。田中の部屋の様子とか。隣人ニュースって字幕付きで」
と言った。
ちょうど廊下の外を歩いていた女性警察官がバインダーを落とし、その音が廊下に響き、私は廊下を見た。
中年というにはまだ少し若いその婦人警官は、かがみながらこちらを凝視していた。
私と目が合うとすぐに顔をそらし、バインダーを拾うとそそくさと歩いて言った。
私が顔を戻し今井を見ると、そこには目を見開いた今井の顔があった。
驚いているというより睨んでいるに近い。
さっきまでの今井とはまるで別人で、それこそ刑事ドラマでみる刑事の顔だった。
今井の変容が理解できなかった私は、
「...今井、さん?」
と声をかけた。
今井は目を泳がせ、と小さな声で、ああ、と言って調書に目を落とした。
ペンを持つ手を顎に当て、
「んー、で、なんでしたっけ?」
と言って、机に置いていた調書を挟んだバインダーを抱え込んだ。
「だから、出るんです。田中の部屋の様子が。田中だけじゃない。マンションの住人の部屋の様子が、私のテレビに映し出されるんです。全く、隣人ニュースだなんて、趣味の悪い文字までつけて。これはもしかしたら大掛かりな犯罪かもしれない。今日、うちに確認に来てくれませんか?仕事は夕方の六時には終わりますから」
私は今井に捲し立てた。
そこで私は気がついた。
どうにも今井の様子がおかしい。
今井はずっとバインダー越しに私を見ている。
その目には、猜疑心というか、こちらと距離を取る色がある。
少し押し黙った後、今井はその座った目のまま、
「悪ふざけがすぎますよ」
と言った。
低く、太い声だった。
「悪ふざけなんかじゃないですよ!本当の事です!見に来てくれればわかります!」
私は怒鳴った。
また少し間を置いてから、
「...わかりました。では夜に署の人間が確認へ伺います」
と言った。
事務的な声だった。
警察官は19時に来る事になった。
私は取調室3を出るとそのまま廊下を歩き、警察署の外へ出た。
昼休みはもうすぐ終わりかけだった。
雨はすっかり強く降り始めていた。
傘のない私は、小走りで会社へ戻った。
なんだか釈然としなかったが、なにわともあれこれであの忌々しい隣人ニュースに悩まされる日々が終わる。
この時の私はそう思っていた。