403号室田中辰雄
どきりとした。
その電子音に起こされた私は首を起こし、明るいテレビの画面を見た。
部屋が映っている。
この部屋303号室と全く同じ間取りで、明かりがついている。
そして、私と同年代と思われる中年男が映っていた。
毛布をめくり起き上がった私は、テレビの横の時計に目をやった。
夜中の2時である。
メガネをかけず顔を近づけ、テロップを見た
隣人ニュース:403号室田中辰雄飛び降りへ
ギョッとした。
403号室は真上だ。
真上に田中という男が住んでいて、今から飛び降りそうなのだという。
うかうかしてはおれない。
警察へ電話だ。
いや、待て。
理由はどうする。
説明のしようがない。
画面を見ると、悲壮な顔をした田中は、部屋の中央でうずくまっている。
しかし中山優香はテロップ通りの行動した。
田中もそうするに違いない。
どうすべきか迷っていると田中が立ち上がった。
田中は台所へ行ったりリビングに戻ってきたりしている。
天井越しに田中のドタドタと動き回る音がする。
私の下の階の住人が聞いた苦情は、田中の歩き回る音に違いなかった。
田中は台所で立ち止まると引き出しを開け包丁を取り出した。
隣人ニュースでは飛び降りと書いてあった。
一体田中はこの後どうすると言うのだ。
私はパニックになり、とりあえず部屋の電気をつけると、わざと力いっぱいベランダの扉を開けた。
静かな夜の住宅街に、どん、という音が響いた。
田中に、下の階の住人が起きているのだというアピールだった。
自殺などと言うものは思い詰めてするものだ。
深夜は静かだから自分一人しかいない感覚になってしまう。
私は田中に隣人の存在を伝えたかった。
そうすれば田中が自殺を思いとどまるのではないか、と思ったのだった。
スリッパを履いた私は外に出ると、わざとらしく伸びをして声を出した。
「んーっ。いい天気だなあ」
月は雲に隠れていて外は暗い。
言葉の内容などなんでもよかった。
田中の行動に水を差したくて思わず口を出た言葉だった。
田中は私に気がついただろうか。
上の階のベランダ扉を開ける音は聞こえない。
まだ部屋にいるようだ。
私はテレビの画面を見ようとしたが、ベランダからでは全く見えない。
田中に動きがないので私は一旦部屋に戻ろうとした時、上の階のベランダの扉が開く音がした。
私はベランダで咳払いをするとまた独り言を言った。
「えへんおほん、ああ、いい空気だなあ」
鼻歌なぞを付け足し、出来るだけ明るい空気を作ろうとした。
私は上を見たが、田中は降ってこない。
しばらく鼻歌を続けていると、ベランダの扉を閉める音が聞こえた。
すると、部屋のテレビからあの音が聞こえた。
私はダッシュで部屋に戻り、テレビを見た。
隣人ニュースのテロップが出ている。
隣人ニュース:403号室田中辰雄飛び降り延期へ
よかった。
どうやら田中は翻意したようだ。
すぐに画面が消えた。
しかし、中止ではなく延期と書いてあるのでまだ諦めてはいないようだ。
包丁は置いたのだろうか。
時刻はもう3時近い。
どっと疲れた私はそのままベッドに横になりすぐに寝入った。
翌日、なんとか起床し会社で仕事をし、昼の時間になった。
警察に行こうとして会社を出ると、スマホに電話がかかってきた。
この電話番号は、管理会社である。
私は電話に出た。
「はい」
管理会社の西谷と名乗った女性は、感じの良い話し方で私に質問をした。
「あのう、昨日の深夜、ベランダで騒音があったと苦情がありまして。心当たりはありますか?」
昨日、ベランダで騒音といえば私しかいない。
私は夜中に騒いだ事を詫びた。
だが私は事情を言わず、酒を飲みついベランダで歌ってしまった、とだけ言った。
私は詫びながら、どこか誇らしくもあった。
一人の人間の飛び降り自殺を防いだのである。
「わかりました。403号室の方にはそうお伝えしておきますので」
と言って管理会社の西谷は電話を切った。
私は「ん?」となった。
おそらく管理会社の西谷は口を滑らせたのだろう。
通常、苦情を申し立てた人間の名前は言わない。
しかし西谷は、403号室の田中と言った。
苦情の主は403号室の住人、すなわち田中だ。
なんてやつだ。
命の恩人の私に苦情を入れるなど言語道断である。
同情して損したではないか。
私は怒りが収まらぬまますぐ横の定食屋に入り、カツ丼を大盛りで食べた。
食べている時に、警察へ行きそびれた事に気がついた。
もやもやしたまま会社に戻り、私は仕事に追われ、就業時刻を迎えた。
なんだか今日は帰りたくない。
というより、あのマンションへ戻りたくない。
またいつあの隣人ニュースが表示されるかわからない。
そもそも自分自身も監視されているかも知れない。
こんなに心落ち着かない我が家もない。
どこかで一杯ひっかけて、と思っていると、思いがけず同僚の山下淳一に誘われた。