302号室中山優香
私の頭ははてなマークがついた。
は?
なんだこれ。
私の部屋は3階の303号室である。
302号室は隣である。
が、私は隣の住人を知らない。
挨拶に行かなかったからだ。
この2週間で一度も見かけた事もないし、名前も知らない。
薄い壁から生活音は聞こえてくるが302から聞こえてきた音かはわからないし、女性の声が聞こえてきた覚えもない。
よく見ると真っ暗だと思った画面は、どこかの部屋を映していた。
窓際に置かれたベッドの上に、人が横たわっているようだ。
メガネをかけてなお、暗くてよく見えない。
ベッドの上に横たわった人らしき影は、なにやらもぞもぞと動いている。
その時、声がした。
あ、かもしくは、ん、と言った短い音で、それは若い女の嬌声だった。
私はどきりとした。
画面の中から聞こえた気もしたし、壁の向こうから聞こえた気もした。
一瞬テレビから目を逸らし壁を見た。
本棚を設置したので壁に直接触れる事はできない。
本棚がなければ壁に耳を当てていただろう。
私は画面に目を戻した。
そこでようやく、画面上部の文字が、臨時ニュース、ではない事に気がついた。
隣人ニュース。
確かに、隣人ニュース、と書いてある。
隣人ニュース:302号室中山優香、自慰開始
と。
私はしばし裸で立ったままバスタオルだけを羽織り、テレビに見入った。
画面内は暗くてよく見えないが、画面内の人物は自身の手で体をまさぐり、自慰行為をしているように見える。
だが、それはとても控えめで、エロスやリビドーを感じさせない。
よほど不慣れか、強い罪悪感を持っているのかもしれない。
ほんの数分で女は動きを止めると、毛布を抱き眠りについた。
途端にテレビ画面が明るくなり、大きな音がした。
急に現れたまぶしく光る画面と大きな音に私は飛び上がるほど驚いた。
覗きを急に咎められた気がした。
近年感じた事がないほど強く心臓が縮み上がる思いをした。
へたり込むようにベッドに腰掛けると、脈打つ鼓動が落ち着いてきた。
ドラマの後番組である音楽番組だった。
人気の男性アイドルグループが、さわやかな笑顔で歌い踊っている。
先ほどの映像は一体なんだったのだ。
私は自分のベッドに横になり、壁の方を見た。
本棚のある壁の向こうは302号室である。
そこに、中山優香なる女が住んでいて、今しがた自慰行為をしたというのだろうか。
その様子を、中山優香の302号室仕掛けられた盗撮カメラが私のテレビに映ししたのか?
仮にそうだとして、なぜ私のテレビにその映像が映し出されたのだ。
隣の302号室の盗撮用カメラと、私の303号室のテレビの配線と繋がっているのだろうか。
電気の配線の事はよくわからない。
が、もしそうだとしたら、そんな小細工をした犯人は、以前この303号室に住んでいた人間に違いない。
私は困った。
この事を管理人に告げたら、私が疑われてしまう可能性もあるのではないか。
この事実を、伝えるべきか否か。
伝えるなら、中山優香本人か、はたまた管理会社か。
いや待てよ、と私は考えを巡らせた。
今起きた事を可能にするには、302、303号室の両方にカメラを仕掛ける必要がある。
という事は、303号室に住んでいた犯人は302号室に忍び込んだのだろうか。
だとしたら中山優香のストーカーに違いない。
いや、ならばなぜそのストーカー303号室から引っ越したのだ。
ストーカーとしてこれ以上最良の場所はない。
バレそうになったから逃げたのか?
だとしたら誰に、なぜバレたのか。
中山優香に?管理会社に?それとも警察に?
もしゴタゴタが起きているのなら、この部屋はいわくつきである。
いつ犯罪に巻き込まれるかわからない。
いやもう現に巻き込まれていると言っていいかもしれない。
暗くてほとんど見えなかったとはいえ、私は中山優香の自慰を見てしまったのは事実である。
この部屋の居心地が一気に悪くなった。
だが待てよ、と私は思った。
両方の部屋に入る事のできる人物を思い浮かべてみた。
管理会社が仕掛けた、と言う可能性もあるではないか。
大家が仕掛けた、と言う事もあり得る。
マンションの施工会社かも知れない。
鍵さえあればどの部屋にでも入ることができるのだ。
最近では内側ロックを容易に外せる動画も出回っている。
疑い出したらキリがない事に私は気がついた。
今迂闊に動けば危険だ。
通報先を間違えれば、犯人に直訴する事になる。
そうなったら口封じとして犯人に襲われかねない。
私は深呼吸をした。
今、実害を被っているのは、中山優香だ。
ならば絶対に犯人ではないのは彼女しかいない。
彼女に直接言うか、または、警察に連絡するか、その二択しかない。
そこで私はまた悩んだ。
そう言えば、さっきの画面は再現できるのだろうか。
マンション内で何かが混線した可能性はないだろうか。
先ほどの映像は本当に302号室で、本当に中山優香だという保証はない。
それに、こんな盗撮をしておいて「隣人ニュース」とはふざけている。
もし映像が再現できないなら、私は訳のわからない事を訴えるおかしな人になる。
そこで私は、テレビに映し出された映像のアングルを思い出した。
中山優香の姿は、斜め上から俯瞰で映されていた。
部屋の天井の隅に設置されたカメラから映されたような...。
私は自分の部屋の天井の隅を見た。
煙の探知機と思われるよくわからない装置がついていた。
半円形の黒い半透明のプラスチックに覆われている。
あれにカメラがついていたら?
先程の映像のようなアングルになる気がした。
私の読み通りあれにカメラがついているのだとしたら大変だ。
あの探知機のようなものは、おそらくこのマンションの全ての部屋に設置されている。
このエンゼルマンション50室全てに。
犯人が個人、すなわち中山優香のストーカーなら、302と303だけの問題かもしれない。
しかし、もし組織的に設置されたのなら、カメラは中山優香の部屋だけだとは言い切れない。
無論この部屋も例外ではないだろう。
今も誰かが私を見ているかもしれない。
プライバシーなど何もない。
これは大事だ。
このマンションは住人全てが部屋の中まで監視されているかもしれない。
なんて事だ。
私は焦った。
どうすればいい。
警察へ連絡するか。
しかしこうなってくると、警察は買収されていないかも、と心配になってくる。
こんなリスクの高い事をする犯罪組織があったとしたら、警察も買収しているかもしれない。
最近の警察は不祥事続きだし、信用できない。
ではもう中山優香本人に言うしかない。
だが慎重にせねばならない。
偶然とはいえ、私が中山優香の自慰行為を見てしまったのは事実だ。
見られた側は、不快を通り越して恐怖に違いない。
そしてこれは犯罪である。
伝え方次第では、私が変質者扱いを受けるかもしれない。
私がカメラを仕掛けた、と言われない保証はない。
ここまで考えて、私は先ほどの考えに立ち戻った。
全ての部屋にカメラがついているのなら、この部屋の映像も筒抜けという事になる。
すなわち犯人は今この瞬間も私を見ているかもしれない。
それが一番恐ろしいではないか。
私の背筋が凍った瞬間、ピンポーン、と大きな音がした。
びくりとした私は、インターホンの画面が点灯している事に気がついた。
誰かが映っている。
ベッドを降りた私は、恐る恐る忍足で画面へ近づいていった。