エンゼルマンション303号室
エンゼルマンションへようこそ。
当マンションは快適です。
24時間ゴミ出し可能、高い防音性能と防犯性能、自転車もバイクも置けます。管理人は常駐です。
何も心配ございません。
ご安心いただくために、住人の皆さまのご協力のもと、エンゼルマンションを紹介いたします。
ところで、あなたのマンションは大丈夫ですか?
もしよろしければ、当エンゼルマンションへお越しください。
いつでも、空室がございます。
テレビドラマを観ていたら、無機質な電子音とともに臨時ニュースのテロップが流れた。
「与党山城代議士、贈収賄を認め辞意表明」
ドラマはちょうどクライマックスのキスシーン。
没入していたところを、一気に引き戻された。
すっかり台無しである。
テレビ局はドラマの邪魔をしてまで臨時ニュースを流して何がしたいのか。
隕石でも落ちてくるならいざ知らず、代議士の辞任のニュースなど、ドラマ視聴者のいったい誰が欲しているというのだ。
ドラマはエンディングになった。
私はため息をつきながら台所へ行き、コップに水を汲み飲み干した。
イラつきが収まらない私の耳に、風呂の方から軽やかな旋律の電子音が届いた。
その音は、私の気持ちを落ち着かせた。
風呂に湯が張れた事を知らせるこの電子音は、風呂好きの私にとってこの上なく喜ばしい音色だった。
私は毎日21時50分にお湯張りが完成するようセットしていて、毎日この音を聞くとすぐ風呂に入る。
私、冨岡健司三十九歳、未婚、独身、彼女なし、ブラック企業スレスレのグレー企業で二十年ほど働いてきた。
婚期を逃したのは会社のせいだと思いたいが、山下をはじめ同期の面々が皆キチンと結婚した事実は、原因が自分にある事を告げていた。
どうにも私はモテないようだ。
風呂の電子音を聞く度に、もし結婚していたら、妻が声をかけてくれるのだろうな、などと思ったりする。
が、私はこの感情のない電子音の声かけに十分癒されていた。
早速私は風呂に入った。
体を洗い湯船に浸る。
誰にも邪魔されない、至福のひとときだ。
風呂は何もかも気に入らないこの部屋にあって、唯一お気に入りの場所だった。
私はつい二週間前、この単身用の小さな2Kのマンション「エンゼルマンション」に引っ越してきたばかりである。
部屋番号は303。
急いで入居を決めてしまったせいだろう。
この部屋は気に入らないところで溢れていた。
小さい問題、すなわち、交換費用を取ったくせにドアノブと鍵が明らかに使い回しな事とか、駐輪場がカオスで皆が自転車を無理やり押し込むので毎朝数台をどかさないと自分の自転車が取り出せない、とかはこの際置いておく。
ちゃんと確認しなかった私に非があると言われれば、そうと言えなくもないからだ。
しかしである。
私は当初不動産屋に、「今住んでいるところが安アパートなので騒音がひどい、ついては家賃が高くなってもいいので静かに暮らせる防音性の高い物件を」、と頼んだ。
なのにである。
私は入居初日から音の問題にまみれるはめになった。
まず、室内に設置されたインターホン。
オートロックの画面付きで、来訪者の顔が見えるのは良い。
しかし、この会話口付近から高周波が鳴っている。
一日中ずっとだ。
管理会社に連絡すると、会話口にテープを貼れという。
試しにガムテープを貼ってみると、なるほど確かに音は随分聞こえなくなった。
だが、なくなったわけではない。
見た目もすこぶる悪くなった。
さらに、先週からクーラーが水漏れし始めた。
ポタポタと雨漏りのように、クーラーの通風口から水が滴り落ちる。
一応冷却に問題はないのでつけてはいるが、バケツを置き水びたしになるのをしのいでいる。
ポタポタと水の滴る音を聞き続けなければならない。
バケツに溜まっていく水もまた不恰好で情けない。
まだ8月に入ったばかりだから、クーラーは是が非でもなんとかしてほしい。
再び管理会社に連絡すると、修理は2週間先になるという。
私は唖然としたが、扇風機でしのぎつつ待つほかない。
極め付けは壁である。
この部屋で1番がっかりだったのは、壁の、いや天井や床も、防音性能が皆無だった事だ。
鉄筋鉄骨のマンションだと言う言葉に安心してしまった。
このマンションの防音性能は以前住んでいた軽量鉄骨のボロアパートとさほど変わりなかった。
私はひどく落胆した。
これはきっと、壁、床、天井の内部構造が手抜き工事された欠陥住宅に違いない。
私は素人ながら確信めいた思いを抱いた。
騒音問題は厄介で、住人の質にも大きく左右される。
過敏過ぎたり、気を遣わなさ過ぎたり、いわゆる変な人が隣人になるととすぐトラブルになる。
私の不安は的中した。
先週、つまり入居してわずか1週間で真下の住人から苦情が来た。
夜中2時にドタドタ歩き回る騒音がすると言う。
あり得ない話しだ。
その時間私は完全に眠っている。
私はその事を、電話してきた管理会社の人間に半ば感情的にまくしたてた。
電話口の担当の女は慣れたもので、優しい口調で私をいなした。
私は、部屋選びを間違えた事を悟った。
部屋の良し悪しの全てなど、内覧した程度でわかるわけがないのだ。
せめて1週間くらい仮住まいさせてほしい。
などと考えながら私は湯船に深く沈み込み浸み、またため息をついた。
この風呂は好きだ。
立地も良い。
が、早めにまた引越した方がいいかもしれない、などと考えていると、部屋から無機質な電子音がした。
臨時ニュースの速報テロップに似ていた。
が、何か違う気もした。
ともあれ私は、テレビを消したはずな気がした。
「消し忘れたかな?」
もしかするとスマホが鳴ったのかもしれない。
まあよい。
どうせ男の一人暮らしである。
誰にはばかる事もない。
さすがにこの時間にこの程度の音で苦情は来まい。
私は音の事を頭から追い出し、しばし湯を楽しんだ。
風呂から上がり体を拭いて頭を乾かし、新しいシャツとパンツを履き、部屋に戻った。
やはりテレビがついている。
どうやら消し忘れたようだ。
だが、画面がおかしい。
なにやら暗いのである。
時刻は22時30分。
消し忘れたのなら、ドラマの次の歌番組が始まっているはずだった。
よく見ると、画面上部には臨時ニュースと思われる白い文字が映っている。
先程の臨時ニュースがずっと出ているのだろうか。
わたしは目が悪い。
入浴前にテーブルの上に置いたメガネを手に取ってかけると、再び画面を見た。
臨時ニュースの文字に目をやった。
そこには「302号室の中山優香、自慰開始」とあった。