76話 優しくなんてないよ
どうして、女子の部屋は総じていい匂いがするのか。
もしかすると全員がそういうわけではないかも知れないが、少なくとも自分が出会い、お邪魔した女子の部屋は必ずいい匂いがした。
「おれ……ここに居るの不味いんじゃ」
千聖はそわそわする心を落ちつかせるかのように、床に敷かれた白い絨毯を何度も撫でる。長毛の絨毯の毛並みは、千聖の手により完全に整えられていた。
にもかかわらず、何度も何度も、千聖は絨毯を撫でつける。
すでに手の届く範囲の毛先は綺麗に同じ方向を向いている。だいぶ前からだ。
しかしこれしかやる事がない。
「バ、バレなきゃ大丈夫……」
ベッドに腰を掛けてぬいぐるみを抱き締めるユキから溢れ出る緊張感。
それが部屋全体を覆って、ユキと絶妙に距離をとって絨毯の上に正座する千聖にも伝染する。
「ごめんね……連れ込んじゃって」
「心配だし、そこは気にしないでよ」
最初に助けた夜から始まったこの生活も、もう4日目を終えようとしていた。
そして4日目の夜、いつにも増してしつこかった敵に追い回され、逃げるうちに、気が付けばユキの部屋まで来てしまった。
ユキの部屋とはつまり、学校の寮。
ユキの学校は女子校らしいから、当たり前だが寮は男子禁制。
もちろん連れ込みだって許されてるはずがない。
『あれー? メグは?』
『あぁ、今日カレシの家にお泊まりだってさー』
『そっかぁ、夏休み前に1回連れ込んでるのバレて1週間停学になってたからねー!』
薄いドアから聞こえるのは、廊下を歩く女子達の話し声。
バレたら停学になるらしい。この連日に渡る襲撃のせいで、ユキは夏期講習だか資格取得のための講座だか―……とりあえず襲撃のせいで授業も毎回遅刻したり休み時間から時間通りに教室に戻れなかったりしているはずだから、その上寮に男を連れ込んだと分かればかなりまずいのではないだろうか。
よく誰にも見つからず普通に入ってこれたものだなと、入場時の事を思い出してゾッとする。正面入口から正々堂々とユキと一緒に入ったのだから、知らぬうちに偉業を成し遂げていたのかもしれない。
「本当にバレない? おれ窓からでも帰れると思うけど……」
「だ、大丈夫! いざとなったら魔法使って見えなくするし! そんな事よりお腹空かない? なんか作るよ!」
ガバッと立ち上がって、こちらの返答を聞かずに小さなキッチンへ向かう。何となく不安になって千聖もついていった。
大体の学生は基本的に自炊はしないと想定されての造りなのか、部屋の入口近くに備え付けられていたのは小さなシンクとコンロがひとつ。インスタントラーメンを作るくらいしか出来ないような、申し訳程度のキッチンだ。
しかしシンクの上に取り付けられた台には割と新しめの調味料が置かれている。
「自炊してるの?」
「ちょっとだけ、ね! 花嫁修行といいますか……結婚はいやだけど、少しくらい出来ないと恥ずかしいから」
コンロの隣に設置された冷蔵庫の中を覗き込みながらそう語るユキに、千聖は少し驚いた。
「ユキはお姫様だし、その辺のことって周りがやってくれるんじゃない? 政略結婚なんだし、そんな──」
ゆっくりと立ち上がったユキに玉ねぎと卵を手渡され、千聖は喋るのをやめる。
ユキはまた冷蔵庫を覗き込むと、今度は鶏肉とケチャップを取り出して、もう一度千聖と向き合った。
「確かにそう。本当に嫌だし私はまだ認めてない。そもそもそんな話が出たせいで命まで狙われるから、最悪」
ちらりと指輪を眺めて、ユキはため息まじりにほんの少し微笑んでみせる。
「逃げてやるとか思ってるけど、どうせ結婚は変えようがないのはわかってる。だから……料理が上手ないい女になって将軍をベタ惚れさせて、私は見向きもしないで冷たくあしらってやるって決めたの」
「なっ」
ユキはふんっと鼻息を荒くし、立て掛けられていたまな板を器用にシンクの端に乗せると、どこかから取り出した包丁で鶏肉を切り始めた。
将軍を惚れさせて、冷たくしてやるとは。傷付けるのには名案といえるだろうが、かといって別に “将軍” が決めた結婚でもないわけで……。
(おれ、なんかかわいそうだな……)
将来の妻のとんでもない案に苦笑しながら、彼女の手元を眺めていれば、ふとある事に気が付いた。取り出された材料から作ろうとしているのはオムライスと思われるが、ライスたるものが見当たらない。
「あのさユキ、ご飯は……」
まさか忘れてるわけじゃないだろうなと、その事に関して聞こうとした時、突然部屋のドアが叩かれる。
「……ッ!」
たまたま誰かがぶつかったとか、隣の部屋のドアが叩かれただけ、とかではなく意図してこのドアが叩かれたのは明確だ。
『先にお風呂行ってて、私はユキに声掛けてくる』
ドアの向こうからそんな声が聞こえる。
これはまずい。確実にここは狙われている。
ドアを開けてまず視界に入るのはおそらくこのキッチンだから、ドアが開き始めたら少しの猶予もない。すぐに行動に移さないと身を隠す時間すらないぞ。
「わっわ……隠れてッ」
「え!!」
姿を隠す魔法を発動させようと、頭の中で魔術の構成を始めた千聖。
そしてそんな千聖の身体を力いっぱい押し、大慌てで部屋の奥へ隠そうとするユキ。
当初の予定とは違う事に戸惑い、そもそもこの部屋のどこに隠れればいいのか逡巡した千聖は咄嗟にその場に踏み止まってしまった。
『ユキー?』
「お布団の中に入ってーっ」
ガチャリ、とドアノブの回る音。
予想に反した千聖の不動ぶりにさらに慌てたユキの勢いで、シンクの端にて絶妙なバランスで乗っていたまな板と包丁が大きく傾いた。
「うしろ!」
ユキ越しにそんな光景を捉えた千聖の思考は姿を隠すことよりも、傾き落下しようとする包丁をなんとかせねばと、優先順位を切り替える。
「危なっ」
千聖はユキを巻き込むような形で、彼女の後ろではやくも落下を始めている包丁へと手を伸ばした。この際両手に持っていた卵と玉ねぎの犠牲は仕方がないと、床に投げ捨てる。
「うひゃあっ」
包丁の柄を見事掴んだものの、勢いを殺しきれず、ガガガンっと大きな音を出しながらユキを挟んでシンクの方へと突っ込んだ。
咄嗟にシンクの奥の壁に左手をついたため、ユキを押しつぶすことはさけれられたが、腕の中から小さな悲鳴が上がる。
その間にも下では、床に着地した卵が割れて飛び散り、勢いで一歩前に出た千聖の右足が、なぜか足元に置かれていたケチャップを踏みつけ、圧力により飛び出したケチャップの中身が高々と宙を舞った。
そのまま、宙を舞う赤は容赦なく2人を彩る。
(なんでケチャップここに置いてるんだよ!)
なんてツッコミをするまもなく、ドアは開かれる。
「ユキー! うちらこれから風呂行くんだけど、一緒に……」
多分、彼女が見た光景は──
キッチンで刃物を持ち、所々シャツに血をつけた他校の男子が、同じく血まみれとなった友人をシンクに押さえつけている様子。
次に来るのは、絶対に悲鳴だ。
そう結論づけた千聖は、彼女が悲鳴として吐き出すための息を吸い込む前に何か言わねばと、咄嗟に口を開く。
「お邪魔してます! 合意の上です!」
必要最低限の説明。
刹那、部屋に置かれた時計の秒針の音だけが、重く、響く。
「ぇっ……え?」
わかりやすい困惑の色。
悲鳴のために開けられた口を、ただパクパクとさせる友人の視線は、千聖とユキを何度も行き来する。
「え、ユキ、もしかしてソレ彼氏?」
人指し指で示されて千聖はケチャップだらけの顔で精一杯の会釈をした。
「あぁっいや、えっとね……とっても複雑な話で、説明すると長くな」
「るので簡潔におれから説明すると彼氏です」
あわあわと説明を始めようとするユキの言葉を遮り、台詞を奪い都合のいいように改変する。
片手に包丁を持った、自称 “カレシ” と名乗る男をしばし訝しげに眺め、それから怪しい男とシンクに挟まれるユキを、心配そうに見つめる。
「心配しなくて大丈夫だよ。彼、ちょっとバイオレンスなだけだから! み、みんなには内緒だよ? 秘密の彼氏だから!」
慌てて話を合わせながら千聖の腕から抜け、今度は友人をドアの向こうへと押しやり、閉める分の隙間が会いた瞬間、ものすごい勢いでドアを閉める。
『ちょっとー!? ちゃんと後で詳しく教えてよねー?』
締め出された友達の声を聞きながら、ユキはへなへなとその場に座り込んだ。
千聖はとりあえず、包丁をシンクの中に置く。
「ごめんね千聖、ケチャップまみれにした挙句変な嘘までつかせてしまった」
「あぁ、全然いいよ。そもそもケチャップ踏んづけて噴射させたのおれだし、卵も一個ダメにしちゃった」
「あはは、これじゃなんも作れないねッ」
脱力して力無く笑うユキと向かい合うようにしゃがみこんで、千聖はユキの顔を覗き込んだ。
「卵まだ残ってるなら責任持っておれがチャーハンかなんか作るよ」
「え、ご飯ないよ!」
「……ん? あれ、じゃあ一体なに作ろうとしてた?」
「……オムラ……はっ!」
言いかけてやめた。そして、俯いてしまう。
結局明確な事は何も言ってないが、その様子は何を言いたいのか言葉にするよりわかりやすい。今になってご飯がない事に気が付いたらしい。
人の失敗に対して笑うのは失礼かもしれないが、思わずぶっと息がもれてしまった。
「笑ってごめん」
流石にここまで抜けてると先が思いやられるし、将来旦那として悩まされそうだが……。でもまあ、今のうちはまだ他人だから笑っていられる。
「私なんかテンパってて……ごめん。うん、笑っていいよ。そう、初めからご飯なんてないの。ライスないの……ライスなしオムライスだったの」
「そんな気に病まないでよ、おれ笑ってるけどなんも気にしてないし」
放っておくとこのまま勝手にどんどん気分を急降下させていきそうで、千聖はユキをなんとな立たせようと右手を差し出した。
「……いつも助けてもらってるし、少しくらいいいところ見せよって思ったの」
差し出された手をチラリとみて、控えめに左手の指を、千聖の右の手のひらに乗せる。
「こないだ喫茶店でオムライス頼んでたからきっと好きなんだろうなーって思って、実はちょっと練習してた。お部屋に連れてくる機会があったら……ううん、いつか連れてきて食べてもらおうって。せっかくのチャンスだったのに恥ずかしいなぁホント」
千聖は手の上に置かれた彼女の細い指先を、親指でそっと撫でる。
その仕草に顔を上げた彼女の瞳はうるんでいて、瞬きをしたら涙が零れ落ちそうだ。
「次、楽しみにしてる。ありがと」
ちなみに、オムライスが特別好物というわけではない。
「優しいなぁ、千聖は!」
もーぅ!といいながら、ユキは千聖よりも先に立ち上がってその手を離す。ぽんぽんと乱れたスカートのヒダを直しながら、テーブルの上に置かれたティッシュ箱を取りに行った。
そんな様子を後ろから眺めて、キッチンの片付けに着手するんだと悟った千聖は、しゃがんだままの状態で手近な位置にあった玉ねぎと卵の殻を拾い集めて立ち上がる。先程包丁を掴むために打ち捨てた玉ねぎと卵だ。
「おれは優しくなんかないよ」
すぐ足元には無残に踏み潰されたケチャップの容器が落ちている。
(目的のためと思えば、なんだって捨てるし、なんだって踏み潰せるんだ。
そのうち、君の心だっておれは──)
ティッシュを手に持ったユキと視線が絡む。
美しい銀髪を揺らし、にっこりと笑う彼女に、千聖も微笑みを返した。




