4話 将軍の狗
「霊夢っ!」
将軍の狗は、横たわる少女の真横に両手を突き、周囲には目もくれず彼女に呼びかける。
突然現れた狗の存在に一度身構えたルナだが、先程の行動からしても敵意がこちらに向いてないのは明らかだ。
とはいえ袖のない衣装から伸びる鍛え上げられた上腕。この距離から体術を仕掛けられれば逃げる隙などないだろうし、無論応戦したところでこちらに勝ち目はない。
狗は戦場において武器を使わないと聞くが、腕だけではない、パッと見ただけでも全身くまなく鍛え上げられているのがわかる。
過去参加した戦場で遠巻きに数回見かけた事があるとはいえ、間近で見るそのとんでもない迫力に、口の中はからからに乾いていた。
何とか唾を飲み込んでルナは目の前の青年に声を掛けてみる。
「あの……まだ、治療は」
声を掛けながらも、狗の基本戦術は体術だろうから武器を出現させるなどの予備動作は期待できない為、仕掛けられてから動くのでは遅い。
などと判断しながらルナは、治療する手は止めずに姿勢を正した。
「こんだけしてくれりゃ充分だ。あとはこっちで何とかしてやれる」
半ば相手にされないだろうと思って声を掛けたが、意外にもあっさりと返答をくれる。
やはり、その言葉のどこを取っても敵意は感じない。
「治癒魔法は、ひとりの魔力で最後まで治療し終えるのが基本です」
「そうかも知ん──ッ!」
狗が食い下がろうとした時、その頭に生えた獣の耳がピクリと反応する。
舌打ちをかましながらその姿を再び狼へと戻し、ルナを飛び越ていった。
直ぐに真後ろから聞こえてくる悲鳴と肉の裂かれる音にルナは身震いをする。
振り返ればそこには、食いちぎられた無残な姿で横たわる革命兵と、こちらから少し距離をとった位置で武器を構える数名の革命兵たちの姿。
きっと、この少女から逃げ切った革命兵が帝国兵の出現を伝えに戻り、増援を呼んだのだろう。
しかし、せっかく来た増援も“帝国の狗”の存在に狼狽えているのがよくわかる。
狗は全くの容赦もなく、革命兵を踏みつけ、噛みつき、散らしていく。
ルナは大きく息を吸い込み、少女の方へ向き直ると治療を再開した。
こうして庇ってくれたのだから尚更、最後までこの手で完璧な治療を施すべきだ。
「お前正気か!? 早く逃げろ!」
再び青年の姿で戻ってきた狗の必死とも言えるその形相と気迫に押されかけるが、こちらに危害を加える気がないのはもう分かっている。
「まだっ」
「状況なんて全くわかんねえけど! どう考えたってお前逃げ遅れてんだろ」
腕を引いて立たせようとしてくるが、それもなんとか振りほどいて再び治療に戻る。
「そもそもコイツ敵国の兵だろ!? 敵に塩を送るような真似してどうすんだよ!」
「それを言うならこの子に言ってあげてください。それに貴方もなぜ敵であるボクを庇って、逃がそうとまでするんですかっ」
顔を上げてそう聞き返せば、まっすぐこちらに向けらていた狗の視線とぶつかる。
目が合ったのは、これが初めてだ。
「逃げ遅れてまでオレの仲間を救おうとしてくれてるからだろ!」
迷いなく言い放つ彼を見て尚更、彼女の事を確実に救わねばという強い使命感に駆られる。瀕死の怪我を負ってまで、ここを守ってくれたのだから。
「だから、オレにはあんたを救う義務があんだよ」
「だったら、ボクにも彼女を何としてでも救う義務があります」
冷徹な者の集まりだとばかり思っていた帝国の者から守られ、そのような言葉まで聞いてしまえば、自分の中に僅かばかり残っていた疑問や迷いは、綺麗さっぱりなくなってしまった。
敵味方なんてない、救いたいと思った命を救うことに、良いも悪いもない。
ルナの強い瞳に、説き伏せるのは無駄だと悟ったのか、狗は深いため息を溢しながら、その場にどっかりと腰を降ろした。
「治療続行するってんなら、状況を教えてくんねえか」
彼の事は元から噂などで知っている。
多分、向こうもこちらを知っている。
「オレは将軍の従者だけどな、軍に所属はしてねぇ。革命軍でもなけりゃ死神でもねぇ。誰に許可をもらわなくたって、ここでアンタを助ける事ができる」
改めてこうして面と向かうのは初めてだけれど、何故だか不思議と、対峙した時から敵国の相手としての嫌悪感は微塵も感じられなかった。
「彼女がここを守ってくれていたんです。先ほどこの場が革命軍に狙われていると連絡があり、まだ攻撃を受けていない補給基地に動ける騎士を一旦集めることにしました。ボクはそこのテントに残って怪我人の転送を……敵襲がないまま怪我人の移動が終わりテントから出てみれば、沢山の革命軍の遺体と、怪我を負った彼女がここに」
「成る程な、そーゆー事か。その指揮はお前が?」
「はい」
「……どうしようもねーな、お前もうちのも」
ルナの返答を聞いて、狗は再び大きくため息をつき頭をぼりぼりと掻きむしる。
言葉と仕草、その両方で痛いほど伝わってくる狗の感情は、“呆れ”のみ。
「ここに到着したのはついさっきだけどよ、戦況もそれなりに見てきた。どう考えたってもうお前ら無理だろ。体制立て直すって、撤退の為か? ここまで追い詰められて怪我人引き連れて撤退ってお前もうちょい戦略の勉強した方がいいぜ」
「なッ、あ、貴方は怪我人を見捨てろと……」
「そこまでハッキリとは言ってねーけど」
治療は続けたままムッとしてみれば、狗は周辺を警戒しつつも少しだけバツが悪そうな顔をする。
その人間味のあるリアクションに、ルナは少し驚いた。
「貴方は、“将軍の狗”とお見受けいたしますが……何故ここにいらっしゃるのでしょうか」
「なんだ! オレの事知ってんのか。理由なんてこの戦いに乱入したかっただけだ。けど、霊夢は別。もともとこの戦場を偵察してた」
“乱入”
その一言に、ルナの動きは停止する。
少女に守られ、帝国の狗に庇われ、信じられないような事が一気に起こって混乱していたのか、帝国の狗と普通に会話するまでに危機感がマヒしていた。
今になってようやく、そのことに気が付いた。
霊夢が助けてくれたのは変わらない事実だが──帝国の狗は必ずしも天使を助けたとは限らない。
そもそも普段かならずそばにいるはずの将軍はどこにいる?
狗がいまこうして自分の目の前にいるのは足止めの為の罠で、将軍の方が騎士団の移動先を襲撃している可能性だってある。
というよりも、これまでの関係性を考えれば会話が成立する可能性よりも、罠を仕掛けられる可能性の方が高いだろう。
(迂闊だった。そもそも軍のトップがこんなに隙だらけなわけがない……)
勘付かれないよう、静かにそっと、ルナは身構える。
治療はもう、ほぼ終了しているといっていい。
終了したと分かれば、狗がどういった行動に出るかわからない。
普通に考えれば、都合よく治療させたうえで、消すだろう。
逃げるなら、空。
狗は空を舞う術を持たないから、手の届かない場所まで飛んでしまえば逃げ切れる。
ただ、どれくらい跳躍力があるのかは不明だ。
飛べるなんてステータスは、この際有利とはいえない。
脚に力を入れた瞬間に、狗の耳が先ほどと同様、ピクリと反応する。
勘付かれたか──そう思ったが、すぐにルナも狗が感じ取った異変と同じものを、その肌に感じた。
突如として後ろから、正体のまるで分らない重圧を感じる。
漂う空気そのものの質量が変わったのではと思えるほどに、空気の圧が変わった。
「霊夢……? と、眠?」
後ろから聴こえたのは初めて聞く声、だったが。
それでも、空気すら変わるその圧に、振り返らずとも誰がそこに現れたかはわかる。
「あぁクソ!」
将軍の狗が叫んで飛び出したのと、ルナがその両手に、十字架を模った短剣を生み出したのはほぼ同時。
「違うんだ! コイツは」
ルナと、その背後に現れた人物の間に、狗は両手を広げて割って入る。
「はぁあぁぁっ!!」
「ばッおま……」
ルナは自分を庇うために広げられた狗の腕をすり抜け、武器を両手に突っ込んでいった。