69話 袋のネズミと四角い空
次に千聖のスマホが鳴ったのは、ユキと別れた翌日の朝。
学校へ行くための支度の途中で、部屋に掛けておいた綺麗な制服のシャツに袖を通した時だった。
時間に余裕があった為、鼻歌なんか唄いながらベッドの上に投げ置かれているスマホを取りに行く。
眠から折り返しでも来たのかとばかり思っていたが、そこに表示されていたのは数字の羅列。つまり、登録してない番号という事だ。しかしながらこの数字の配列には見覚えがある。
まさかな、と思った。
「はい、龍崇です」
『……ごめんなさい』
昨日聞いた声──ユキの声だ。
番号を見た瞬間に軽くよぎった嫌な予感が、存在感を増して戻ってくる。
声のトーン、朝早くの電話、うっすら聞こえる呼吸のリズム。
答えを聞く前に千聖はスマホを耳と肩で挟んで両手を自由にすると、急いでシャツのボタンを閉め始める。
『今、追われてて……』
そう電波に乗せて伝えられるのと同時に、千聖はハンガーに取り残されていたネクタイをひっつかんで首にかけてから、スマホを手に持ち替える。次に机の上に置かれていたイヤホンを握りしめて、部屋を飛び出した。
「相手は? 人間?」
『多分……!』
「とりあえず、なるべく人の多いところに逃げてくれ。おれは昨日と同じ方法でユキを追うから、どこに逃げてもいいよ。撒けるなら撒いて隠れてて」
指示をしながら千聖は、急ぎ足で下の階へと向かう階段を目指す。
相手が人間ならば──いや、たとえそうじゃなくとも、さすがに人気の多いところでは仕掛けてこないだろう。
途中、靴下を履き忘れたのには気付いたが取りに戻るのも面倒くさく思えて、裸足のままで廊下を急ぐ。
夏の朝、空気はすでに蒸し暑かったが、足の裏で感じるうっすらと冷たい廊下の感覚が心地良い。そんなことを悠長に感じている場合じゃないけど。
『わかった……それじゃあ、電話は繋がったままに……?』
「うん、それで!」
言い終わってすぐ、千聖はスマホを耳から離した。
一旦歩くスピードを緩めながらスマホのイヤホンジャックに、握りしめたコードのプラグを差し込む。本体をシャツの胸ポケットにしまってから、イヤーピースを耳に差し込んだ。
シャットアウトされる外の音。しかし、微かに木の軋む音を捉えた。
咄嗟に身をよじって間一髪、真横で開かれたドアをかわす。
「おはよぉ千聖ー」
間の抜けた声とともに姿を現したのは、寝起きの姉。
濃紺色の長髪は寝ぐせか、前日のセットのなごりなのか、うねりながらあちらこちらに毛先を伸ばしている。端的に言えば、爆発している。
まだ完全に開いていない瞼をこすりながらフラフラと部屋から飛び出した姉が身に着けているのは、薄ピンク色のパジャマ。ボタンは上から3つ目まで空いているせいで胸元が大胆に開かれているのにもかかわらず、女性特有の膨らみの存在などまるで感じない。
たとえそこが絶壁であろうとも、もう少し隠しておけよなんて思いながらそんな姉を適当にかわし、千聖は階段を駆け下りていく。
薄くドアが開かれた居間からは、食器棚が開かれる音や、母が朝食を準備する音に混ざって、人気アイドルの引退を報道するアナウンサーの声が聞こえてくる。
千聖は居間を介さずそのまま真っ直ぐ玄関に向かい、下駄箱の上に置かれたガラス製の器に入っている自転車のキーを鷲掴みにした。が、一瞬考えてそれを戻す。
走った方が速い。
「あれぇ、千聖もう行くのー?」
後ろでのろのろと階段を降りる姉の疑問は完全に無視。スニーカーを履こうとして素足であることを思い出し、隣に並ぶクロックスに目が移った。躊躇したがそれでもそのまま素足をスニーカーに突っ込む。こっちの方が速く走れる。
玄関のドアを開ける頃には、姉の声に気づいて居間から顔を出す母の「千聖、ご飯は?」なんて言葉と、姉の「ちょっとぉー」と間延びした声が聞こえてきた。
騒がしい朝のBGMも、玄関のドアが閉まり切れば嘘のように聞こえなくなる。
目の前には、家の中よりも幾分明るい外の世界が広がった。
千聖は繋いだユキとの電波を手繰り寄せるようにして居場所を辿り、走り出す。
どうやら、今日の補習もまともには受けられなさそうだ。
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「ユキ! いた! どうしてまたこんな所に」
ユキからの連絡を受け、電波を頼りに街中を走り回った。
そして肝心の彼女を見つけだしたのがどこかといえば、路地裏に置かれた業務用ゴミ箱の陰。悪臭と散らばったごみに囲まれながら、彼女はしゃがみ込んで身を潜めている。
一国のお姫様が、なんということだ。
「ここで撒けたから、とりあえずここに隠れてようって」
「……確かに言ったな、おれ」
確かに撒いて隠れて、なんて指示を出したのは千聖である。まさかこんなところに隠れるとは思ってなかった。女の子に──ましてやお姫様という肩書をもつお方にこんなみじめな思いをさせることになるとは……。
ユキの様子を観察しながら、千聖もその場に腰を落とした。
上がった息を整えるため空気を深く吸って痛感する。ここ本当に臭い。
長い髪を片側に寄せ、肩にかける仕草をする彼女は、この状況をあまり気にしていないようだった。
少しの申し訳なさを感じるが、それ以上に場所を選ばずに身をひそめることができる彼女の強さに関心している。彼女が気位もプライドも高いお嬢様じゃなくてよかった。もしそうだとしたら、隠れる場所を見つけられなくて捕まっていたかもしれない。
「学校に行こうとして追われたの?」
「ううん……すでに教室に居たんだけど、私を探してるって外部の人が学校に来ちゃって。それで……夏休みで、先生も少ないから……」
「友達を巻き込まないように敷地外に逃げたってことか」
「そう!」
「そっか、偉いね」
元気のいい肯定の言葉に対しそんな風に返してみれば、ユキは手で髪を梳きながら「ふつうだよ」なんて呟いている。
少し視線を上げれば、少しだけ照れるかわいらしい表情の姫を見ることができたのだが、あいにく千聖の視線はユキの長い髪の毛先にあった。髪がゴミにつかないか心配でしかたがなかったのだ。
「とりあえず、ここ汚いしニオイも酷いから移動しよう」
そういって千聖が手を伸ばせば、ユキは迷いなくそれを掴んで立ち上がる。
光が溢れている方向へ手を引かれながらユキは、人知れず自分の腕を鼻の近くに持ってきて匂いを確かめた。長時間悪臭に晒されていた嗅覚はすっかり疲労してしまい、自分にその匂いがついているのかどうかの判断ができない。
「……もしかして私、におう?」
「さぁ、出てみないことにはわからないな」
フォローすることもせず、千聖は振り返らないままそれだけ答えた。そっけないその回答に、ユキはちょっとだけがっかりする。何かを期待してたわけではないが──といっても「大丈夫だよ」くらいの優しい言葉を期待していた。
もう2,3歩行けば路地裏から出られるという位置で一度立ち止まった千聖は、すぐに出ることはせずその背を壁にピタリと付ける。一度路地裏から表の通りを覗き周囲を警戒した。
「通りには人間しかいない。あれから人間以外の気配は特に感じなかった?」
振り向いた千聖の瞳は、魂を選別していたせいか死神特有の赤色へと変化している。
ユキはその瞳を、アスガルド城ですれ違った時に一度見たことがあった。
綺麗だと思って視線が逸らせなかったことをよく覚えている。
それはやっぱり、ここで見ても同じだった。
澄んだ赤色。縦に割れた瞳孔すらも、ものすごく綺麗だと感じる。死神全員なのか、それともこの人が特別綺麗な瞳をしてるのかは、わからないけれど。
じっと観察していれば、瞳の赤色は徐々に青く変化していく。
「ユキ?」
「あ、うん! なかった、と思う……」
「そうか。それなら……」
喋りながら手を引き、歩みを再開する千聖とユキ。
路地裏から一歩踏み出した千聖のスニーカーが、その光を浴びた瞬間──
「おーっと危ない危ない、逃すところだった」
出口から溢れていた光が急に陰った。
すぐ耳元で声を聴いた千聖は、慌てて数歩引き下がり距離を取る。
路地裏の出口を塞ぐように立ちはだかるのは二人の男。
千聖の瞳に映る彼らの魂は──人間だ。
「あらら? さっきの奴が連れ去れば金くれるって言ってたのって、このオンナノコだよな?」
「オレもそうだと思ったけど」
「ここに居るっていったよな? ってことはこの男もターゲット? 男運ぶのってちょい辛くない?」
「さあ。あの子連れてきゃ金は貰えるんだから、男の方はなんならココに放置でいいだろ」
だらだらと緊張感に欠ける調子で、二人は何やら相談している。
千聖は背にユキを隠すようにして構え、相手の会話を聞きながら出方をうかがっていた。
目の前の二人はそれほど喧嘩が強そうな体つきには見えない。外見だけでいえば、昨晩の男たちのようにいきなり殴り合いに発展するなんて流れは考えにくい。
しかし、考えなしに向かってくることの方がもっとに考えにくい。
一体どうやってユキを連れ去る計算なんだ? まさかここで魔法の撃ち合いでもするつもりか? それともなんらかの脅しか交渉でもしようってんのか……?
隙をついて通りに出て逃げるのか、路地裏でこれから相手が起こす行動に対抗するのか。これ以上下がれば前者は難しい。しかし後者を選ぶのならばもう少し下がって距離を取りたい。
どちらが悪手となりえるか、まだ判断材料が少ない。
今度の奴らは金で釣られたようなことを話している。
昨日は強姦目的、でもって今度は金。
何かで人を釣ろうとしているやり方は一緒、ユキをねらう大元は昨日と変わらない人物と見える。
ユキを背に隠しながら、千聖はふとその視線を上にあげた。
見上げたとき、深い意味などなかった。もしかしたら無意識に、上に逃げ道がないか期待しての事かもしれない。ただ本人からしたら本当になんとなく天を仰いだだけだったのだが──ビルに囲われた四角い空の中を、飛び去る影が視界に映ってしまった。
ビルの上を飛び去ることができる種族なんて、一つしか思いつかない。
やっぱり昨日考えた通り──黒幕は天使だ。
「ユキ、さっき後を付けてきた奴らって」
「こ、この人たちじゃない……」
ぎゅっと、ユキが千聖の腕を掴む。
要するに撒けたのは最初にユキを追っていた人間たちだけであって、離れた場所で様子を見ていたであろう大元の天使はユキを観察し続けていた。この路地裏で動きが止まったところで今度は近くにいた別の人間を金で雇った、そう考えるのが自然だ。
今この町で、雇われている人間がこの二人だけとは思えない。ひょっとすると次から次へと近くにいる人間に声を掛けてはユキを襲うように指示を出し、金で買っている可能性がある。
これは想像していたよりもずっと厄介な展開になってきた。
天使が相手なら武器を振ることもできたが、人間相手にはそうもいかない。
昨晩のようにこちらも人間として “喧嘩” という形で応戦するしかないのだが、昨日の一件で自分に喧嘩のセンスがないということを痛感している千聖としては、喧嘩という展開は避けたいところ。
「いやっ……!」
後ろから聞こえたユキの悲鳴で我に返れば、路地裏に入ってきた男の一人が、いつのまにやら手にした折り畳みナイフをこちらに向けて、ゆっくりと近付いて来ている。
もう一人はこちらに背を向け、路地裏を塞ぐように立っていた。見張り役だ。
刃物の使い道といえば、殺しか脅し。
わざとらしく目につくように持っているあたり、後者だろう。
もちろん、脅されていうことを聞く気などこれっぽっちもない。となれば大方相手を逆上させてしまう流れになるのは確定しているといえる。結局のところ刃物を振り回される未来が見えてきた。
千聖は後ろに下がりながら、そっとその手を自らのベルトへと伸ばす。
まず、ユキの身の安全のためにも相手の手から刃物を取り上げる必要があるが、それは戦闘を意味している。
一度戦闘になってしまえば、片時もユキのそばを離れずに守り切るなんてのは難しくなる。
となるとユキにもある程度、身を守る術を持ってもらわなければいけない。
防御魔法を展開する方法も考えたが、ナイフのように力が一点に集中するようなもので突かれ体重を乗せられれば、簡単に敗れてしまいそうだ。それに、昨日の彼女の様子からテンパると頭が真っ白になるようだから、展開時にある程度の冷静さを必要とする魔法よりは、ただぶんぶんと振り回せるものの方がいい──そう判断し、ベルトを外した。
静かに引き抜き後ろ手に持つと、器用にベルトの先を尾錠部分にくぐらせ小さな輪を作る。そしてそれをユキに手渡して、前を見たまま説明をする。
「相手が近づいて来たら思い切り振り回すんだ。金具の部分で顔狙ってね。突きの姿勢で迫ってきたら振り回して、ないと思うけどもし振りかぶってきたら両手で持ってカバーする、いい?」
「は、はいっ」
「振り回すときは、手から抜けたら困るから、持ち手に巻き付け──てッ」
いきなり顔面を狙って放たれたナイフの突き──は攻撃というより、目の前の邪魔な何かを追い払うかのような軽さだった。もちろんかわしたが、相手から続く攻撃がないのでこれは多分ただの牽制。もとより当てる気はなかったのだろう。
「その様子から、脅されてビビってくれるつもりはないみたいね」
相手の男はこれ以上近づいてこない。
悪い意味でこれ以上脅しはしない、ということだろう。
意図をくみ取った千聖は更に数歩下がって距離をとり、腕を後ろに引き腰を落として構えた。
男の視線は自分から動かない。後ろのユキは眼中にないようだった。
(まずはおれだけを狙ってくるつもりか……)
ナイフを向けるその目に迷いは見受けられない。
武器を使用したうえで手加減し、それでも完膚なきまで相手を抑える技量があるようには見えない……迷いがないのは単純に、相手を傷つけることになんの躊躇いもないからだ。




