65話 覚悟
講習が終わり、一番最後に教室を出た千聖は、そっと電気を消して廊下に出た。
ドアを引けば静かな廊下に、普段は耳に入ってこないような、木製のドアが金属で出来たレールの上を滑るスーッなんて音が響く。相変わらず節電なのか、廊下の窓から差し込む月光以外に光源はなく、薄暗闇が広がっている。
階段へと続く廊下の途中、ひと足先に廊下に出ていた舞が窓の縁に背を預けていた。
腕を組みながらさりげなくこちらを待っているようだ。
「待っててくれたんだ」
薄く開いた窓からの風を受け、月明かりに照らされて輝く金色の髪が穏やかに揺れる。
「別に? アンタじゃなくても待ってたし。夜の学校なんて不気味で1人になりたくないだけよ」
「そこは素直なのか」
千聖が追いつくのを待たず、階段に向かって歩き出す舞を追う。横に並ぶことはせずに、舞の後ろ姿を何気なく眺めていた。髪と、頭の両サイドに括り付けられた赤いリボンが、階段を降り始めた彼女の動きに合わせてふわりふわりと柔らかく上下する。
「あのさぁ」
階段の中腹に差し掛かったあたりで、舞に声を掛けてみた。
舞からのリアクションを待つほんの少しの間、千聖は視線を自分の左手に向ける。微かな光を受けて輝くのは何の飾りもない、シンプルなシルバーリング。嵌められている指が意味するのは、『結婚』。そして付けている通り、その意味に偽りはない。
なぜわざわざ彼女に伝えようと思ったのかと問われれば、その理由は誰にも言えないくらい、女々しいものだ。
先日の補習中に薬指の指輪について触れられたから、というのも理由の一つだし、昨日眠に暴露された通り、一昔前の千聖にとっては舞が特別な存在だったから、という部分も多少なりともある。
だけど一番の理由は、これから先の『結婚』が怖いからだった。
これから先、自分が誰かの『夫』や『父親』になることが怖い。
王から命令された政略結婚だといえばそれまでだ。
王の為だとか、世界の為だとか。
何かのせいにするのは簡単だ。だけど、自分で選択した以上、それは自分の為である。
そして千聖自身、政略結婚の承諾は自分のために選んだという自覚はあった。
とはいえ、いざ話が進んでみると情けない感情も、迷いも、強くなっていく。
結婚相手として指定された姫と、将来生まれてくるであろう子供を、命を懸けて守るなんてことができるのか。いや、できるかどうかじゃない、できなければいけない。
『和平の象徴』となるその覚悟を、しないといけない。
最後の最後まで覚悟できないままなんじゃないかって思う自分が怖かった。
プレッシャーに逃げ出したいなんて感情が時々よぎる、そんな弱さが嫌で仕方がない。
こんなカッコ悪い本音は、誰にも話したくない。
「え、なに?」
舞は、丁度踊り場の中央で足を止める。
振り返りこちらを見上げてくる舞の視線に、千聖は顔を横に向け、右手で首筋を掻いた。これが気不味く感じた時の癖だって事はとっくの昔に自分で気付いている。
怖くて逃げ出したいからこそ、誰かに対して声を出して宣言する必要があると思ったのだ。
口に出せば、何も言わないより覚悟が決まるんじゃないかと。
「なによ」
今度は1回目よりも強い、苛立ちを含んだ声。
本当はイラついてなんてない事を千聖は知っているが、それでも舞の圧力に負けて、一度、大きく息を吸う。そして、ゆっくりを吐いてから、息を止めた。
「おれ、結婚する」
千聖の声は決して大きなものではない、それなのに、二人しかいない階段の踊り場に響き渡る。夜の廊下の静けさは、まるで世界が動きを止めてこちらの様子を伺ってでもいるのかと思えるくらいで。
「やっぱりね。おかしいと思ったのよ、アンタが指輪なんて」
そう言って、今度は舞がスゥっと息を吸う。吐いたそれがため息なのか、ただの深呼吸だったのか、千聖にはわからない。舞の表情も、丁度陰になってわからなかった。
「優柔不断だし喧嘩は弱いし、頼りない。お洒落じゃないし、面白くもない。自分勝手で仕事優先、アンタみたいな男が旦那なんて相手の子は本当に可哀想ね」
また始まったな、とは思わなかった。
言葉の1つ1つを大切にして、紡いでいるというのがわかるから。
だから千聖も、1つ1つの言葉をしっかりと受け止めた。
「言ってくれるな」
「現状維持が大好きなアンタのことだから、結婚だって誰かに言われてのことでしょ?」
「半分はそう」
「本当につまんない奴ね」
そこで大きく、今度こそため息をついた舞。月にかかっていた雲が晴れたのか、彼女の口元は少しだけ弧を描いていた。
「それでも、アンタは絶対に……見捨てない。期待に応えようって必死になってくれる。話もちゃんと聞いてくれる。相手の心を守ろうとしてくれる。これが女の子にとっては一番大事」
それをみた千聖はまぶたを伏せて、口元だけで笑う。
「だから、あんたのお嫁さんは世界で一番幸せなお嫁さんになれるよ」
ゆっくりとまぶたを開き、階段を降りるための一歩を踏み出した。
そんな風に思ってくれていたのかと純粋に嬉しくなる。
ただそれ以上に、覚悟以上の何かを貰った気がした。
「あたし、アンタに山ほど迷惑掛けてきたわ。助けてもらってばっかだったし、結構傷付けたと思うし」
千聖は階段を降りながら、耳に届くその言葉を頭で消化していく。
「ちゃんと言えてなかったけど、今までありがとうね、千聖」
舞の今まで見たことがないくらいに素直な笑顔に、最後の一段を降りる足が止まりかける。それでも、千聖も努めて自然な笑顔を舞に向けた。
「こっちこそ、今までありがとう」
ついに踏みしめる床が、同じ高さの位置に来る。
普段から態度がでかい分気にしてなかったが、久々にちゃんと向き合って改めて、舞の小ささを実感した。小さいといっても女子の平均くらいの身長はありそうだけど。
目の前の舞を見て、ルナの姿と重なった。
何故だろうと一瞬疑問に思った千聖だったが、すぐに、あぁと納得する。
「一人で頑張りすぎるなよ」
「それはお互い様でしょー」
ぐっと、舞から拳が突き出される。
その顔は、少年みたいな笑顔だった。
一歩踏み出し、その拳に己の拳をぶつけた千聖は、そのまますれ違うようにして踊り場から、残りの階段を降りて行く。
“夜の学校なんて怖くて一人で居たくない” と言っていたのを思い出したが、振り返る事はしないでそのまま一人、無心で玄関へと向かった。
流れる時と歴史の中
何を物語とするかで、どこが始まりかは変わってくる。
例えば、とある一人の悲恋を物語とするならば、始まりは──
下駄箱の戸が閉まる音が、カタン、と夜の構内に響いた時。
千聖は巻き込んで履いてしまった外履の踵を、突っ込んだ人差し指で無理矢理立たせる。
立ち上がり、何度か地面を蹴飛ばして履き替えた靴を足に慣らしたところで、スマホを入れているポケットの違和感に気が付いた。
なんだろ、着信? と思って取り出せば、やはり電話が掛かってきていた。
「あれ」
知らない番号からだ。
間違い電話だろうか。
しばらく、出るかどうか思案する。
結構長い事なってるし、出ておくか。そう決めて通話ボタンを押した瞬間。
『ぁっ! 繋がった……』
聞こえてきたのは切羽詰まった女の子の声。
千聖はその声に、心当たりがない。
「……すみません、どなたでしょうか」
『ぇ!? ……あのっ』
急に歯切れが悪くなる女の子。
掛け間違えた事に気付いたのかもしれない。
『ぇっと、ナンパ、前に……』
とっても言いにくそうな声で、そう聞こえてきた。
「……ナンパ?」
余計に心当たりがない。
「誰かとお間違えでは……」
受話器の向こうから、深く息を吸う音が聞こえてきた。
大声でなにか文句を言われるのだろうかと、千聖はスマホを離し気味にして構える。
しかし、聞こえてきたのは控えめで小さな声。
そして彼女は言ったのだ。
『ぁ、アスガルドの姫です……』
一気に、千聖の記憶がクリアになる。
と同時に、身体中から嫌な汗が噴き出す。咄嗟にスマホを両手で持ち変えて、なぜか本人が目の前にいるわけでもないのに姿勢まで正す。
「も、申し訳ございません、大変失礼いたしました! あの時はどうも、いきなり、えっと……すみませんでした」
今になって何故? とか、色々と疑問はあったがとんでもない失礼をした事は確かだ。どうしようと頭がパニックになりつつある千聖の耳に、姫の言葉が届く。『助けて下さい』と。
「どういう状況ですか?」
『今は、よくわからない……倉庫みたいなところに、連れてこられていて……室内には誰もいません』
「相手はどんな人でした?」
『見てない……でも、姫を殺す、とか……。確かなのは、帝国軍でも革命軍の方でもない、事ですっ……』
「わかりました。すぐに行くから、電話は繋いだままに出来る?」
『あっ……場所、私よくわかってなくて……』
「電話が繋がっていれば、貴女の魔力を辿れるから大丈夫」
『はぃっ……』
途切れ途切れに聞こえる彼女の声。
決して電波が悪いわけではない。
必死に伝わるように言葉を選んで発言している。普通の状況なら、そんなこと造作なくできるだろうが、必死にならないと出来ないくらいに、精神的に追い詰められていると思われる。
これはイタズラなんかじゃなく、本当に不味い状況なのだろう。
声だって震えていた。
「おれの名前は、千聖です。絶対に助けるから、待ってて」
**************
耳に挿したイヤホンから聞こえてくる音に注意しながら、千聖はひたすら彼女の魔力を辿って走っていた。
幸い、死神である自分にとっては行けないほど遠い距離ではなさそう。
彼女からの話を聞けば、姫を殺すつもりだがそれを帝国や革命軍など、此方の所為にしようとしている様だ。
千聖と恐夜は、ルナが使者として帝国に来たことに疑問を感じていた。
ルナが王国への帰路へとついたあの日にした、王室のバルコニーでの会話を思い出す。
『光の王、神は騎士団を信用していない』
『あぁ、戦争はまだ終わってない。気を付けろ』
嫌な予感は、的中していたらしい。
やっぱり、王国の騎士団は──
『きゃぁぁっ……!!』
唐突に鼓膜を揺らす悲鳴。
思わず足を止めてイヤホンを押さえる。
『ちょっとッ……離して』
先程、スマホは繋げたまま陰に隠す様に指示をしていた。音から判断するに誰かが入ってきた様子だ。まだ、電話には気付いてない。
『こいつだよな? さっきのやつらが好きにしていいって言った女』
『あぁ、最終的に浮かんでこられねーようにして海ン中ぶん投げれば好きにしていいってさー』
男の声だ。
千聖は慌てて、また駈け出す。
もしかしなくても、最悪の展開かも。
さっきまでやけに静かだと思えば、その間テキトーな、ヤバそうな人間に声を掛けてたのかもしれない。
女を好きにしていいから、最終的に殺せと。確かに、それなら死体が上がったところで単純に世間ではよくある、人間が起こした強姦致死事件や死体遺棄事件で片付くし、運悪くその被害者が姫だっただけ、で話は終わる。
たとえ声を掛けた奴らがこちらの存在を感知できるタイプの人間だったとしても、そそのかしたのが天使だと供述したところで、魔界じゃあ加害者側の妄言だと片付けられて、実際に天界での犯人捜しなど行われないだろう。
下界の所為にするのは諦めて、魔界の事件として処理するつもりだ。
なるほどそうきたか。
『おいこら! 暴れんじゃねぇよ』
『助けて! 助けてっ千聖くん!』
呼ばれた名前に、胸が苦しくなる。
彼女と関わり合った事なんてない。だけど、呼んでるのは、さっき教えた自分の名前だ。
『誰? 彼氏の名前?』
「魔法使え! 何でもいいから!」
聞こえるかなんてわからない、でも、走りながら叫んでいた。
間に合え。
『ってぇな! 何だこの女!』
『きゃっ……』
カランカランと、何かが地面に落ちる音と、人が殴られる鈍い音。
間に合えっ。
『さっさと始めちまおうぜ』
あと少し……もう少し近付けば……
『っておい……! 電話かこれ?』
マズい、バレた。
『繋がってんじゃん』
『は? へぇ~、この女……』
『せっかくだし、このまま繋げといてさぁ』
『お前さすがにそれは趣味悪ぃって』
『いいから、切っとけよ』
切れる前に──
ップ……ツ──。ツ──。
イヤホンから届くのは、無情なまでに無機質な音。
しかし、その音を聞きながら千聖は、
薄暗い倉庫の中で男の胸ぐらを掴んでいた。
「は?」
「ぇっ……」
「千聖……くん?」
電波を利用して繋がる電話というものは、魔法を使うにおいて便利なものだ。魔力が届く範囲にいれば、電話で繋がっている相手先に、電波を利用してテレポートする事が出来る。
もちろん、知識や技術が必要だし、体力と魔力の消耗は尋常ではない。
それに……
「うっ……」
千聖の場合は、酔う。
ぎりぎり、通話が途切れる瞬間に、彼女の魔力を掴んだ。自分の魔力が彼女に届いた。
とりあえず、吐きそうになりながらも呆然としている男の頬を思い切り殴りつけて吹き飛ばしてやった。
彼女の上に乗りかかって、乱暴に髪を掴む男に目がいく。
彼女とは、一度すれ違っただけだ。
だけど、彼女を愛すると、守ると、父に誓った。
おれだってまだ触れた事がないんだ。
その髪に、その手に、その頬に、
その心にすら。
「知らないと思うけど、帝国将軍ってのは嫉妬深くてさ」
何だか無性に、ものすごく腹が立つ。
「許せないんだよ、自分のものを他人がべたべた触るっていうの」
許さない、絶対。
おれが先だろ、全部。
「人の嫁に気安く触ってんじゃねぇよ」




