46話 悪夢よりも強い誓い
床に、壁に、天井に、ぶちまけられた大量の血液。
そこら中に零れ落ち、散らばり混ざる内臓。
強烈な鉄の匂い。その中で微かに感じる、両親の匂い。
探し出さなければ、と。救い出さねば、と。
歩を進めるたびに感じる、足の裏で臓物を踏み潰す感覚。生暖かいモノが土踏まずからぬるりと抜けていった。そうして更に、この室内で香り立つ血の匂いは強いものになっていく。
強い嘔吐感に何度襲われたところで、胃に入った空気を一生懸命吐きだそうとするだけで、吐けるものなど胃には残っていなかった。
本能が前進を拒み、家族への思いが身体を無理矢理進ませる。
薄暗い部屋の一番奥、蝋人形のように血の気のない身体に囲まれて、見おぼえのある二人の影を見つけた。先ほどよりも強く両親の匂いを感じ、無意識にもう一歩、足が前に出て──今まで踏み潰してきたモノよりも弾力のある何かを踏んだ。
反射的に足元に向けた視線が捉えたのは球体。
月明かりに照らされたソレが何か、すぐにわかった。
あうことのない焦点が、視線が、ねっとりとこちらに向けられている。そんな錯覚に陥った直後、脳がぐらりと揺れ──
「眠ーっ、みーんー!」
突然真上から聞こえてきた少女の声に、一体何だとゆっくりと瞼を開ければ、すぐ目の前にはこちらを覗き込む少女の顔と、その奥に浮かぶ綺麗な満月を見つけた。
先ほどまで見ていた悪夢のような世界は、文字通り夢であったのだと気が付きホッとする。
思い出したくもない、嫌な記憶を振り払うかのように、眠は身体を起こして伸びをした。
「またこんなところでサボって。にーちゃんに怒られるよ」
腰に手をあて叱ってくる目の前の少女に対し、別にこんなことでアイツは怒りゃしねーよ。と小さく零してから大きなあくびをした。
そんなことより、ここは一体何処なんだろう。ずっと草原が続いているだけで他に何もない。見覚えのある場所かのように記憶の何かに引っかかりはするが、はっきりと何処かはわからない。
見上げれば、空には月以外にもたくさんの星が浮かんでいる。まるで宇宙を覗いているような、この澄んだ夜空は、帝国の空だ。
「ねえ、眠」
いつの間にか隣に座った少女は、無理矢理押し出したようなかすれた声で呼びかけてくる。
らしくない声に驚き隣をみれば、少女もまた夜空を見上げていた。
「眠は、天離のこと、なんて思ってるの?」
意を決したように、呟く彼女。決してこっちを見ようとはしない。
へっと笑うように息を吐きだして、その質問に返答しようと口を開く。
彼女から向けられた好意には、結構前から気が付いていた。
そして自分の中で用意していた答えも、その時から変わっていない。
お前は、妹みたいなもんだよ。と、あらかじめ用意していた言葉を、音にするため息を吸い込もうとして──
はっと息を吸い込んだ瞬間、完全に目が覚めた。
目を開けた瞬間視界に入ったのは、血にまみれた天井でも、宇宙を覗くような星空でもない。
何の変哲もない、ただの天井である。少し上から聞こえてくる時計の秒針が刻む音のおかげで、これが下界の帝国ではなく、魔界にある自宅の、居間の天井であると眠は理解した。
少し離れたところからは、扇風機によって人工的に生み出された風の音が聞こえてくる。音にむらがあるのは首振り機能がONになっているからだろう。
扇風機が置いてあるのは、本来スライド式のドアで仕切られている隣の部屋だが、今はドアが全開に開け放たれているので、居間と繋がり一つの部屋のようになっている。ベッドもその部屋に置いているのだが、今は友人に使わせているため、眠は居間のソファで寝ていた。
「……全部、夢か」
時刻を確認するため秒針の音が聞こえる方向へと視線を向けるが、室内が薄暗く、時計の針が何処をさしているのかわからない。壁掛け時計から時刻を確認するのは諦め、今度はスマートフォンを探そうと、ソファから零れ落ちていた右手であたりをまさぐった。
暫く鮮明に思い出していなかった、見たくもない記憶を見せられたせいで喉がひどく乾いている。夢には色も匂いもないはずなのに、まるであの日の中にいるように全ての感覚がそこにはあった。
鼻から大きく息を吸って、深呼吸をするかのように口から一気に息を吐きだす。その間、まさぐっていた右手は絨毯の上に落ちていたスマートフォンを捕まえた。
時刻を確認するため顔の高さまで持ってきたが、
画面に映っていたのは、ロック画面に映る文字ではなく、派手に装飾された「LOSE」の文字。
「うわ……最悪、寝落ちか」
確かに、ソファに寝転がって、最近ハマッているアプリのオンライン対戦を始めたところまでの記憶はある。そこから先の記憶がないので、マッチングした直後に寝落ちしたのだろう。
アプリを終わらせ、ホーム画面に表示されている『4:20』の数字を確認してから、テーブルの上へ投げるようにして置いた。
乾いた喉を潤すために、のそのそと起き上がりキッチンに向かおうとする眠だが、途中でふと考えが変わり、扇風機が回る隣の部屋へと方向転換する。
律儀にずっと首を振り続けている扇風機の土台についている『止』のボタンを、足の親指で押し込んでから、今度こそキッチンへと向かった。
「なんだってんだ……天離まで……」
就寝前に洗ってシンクの上に置いていたグラスを掴み、水道水を勢いよく注いでいく。
グラスに入らなかった一部の水がシンクを叩く音を聞きながら、グラスの三分の二程まで注ぎ、中身を一気に喉へと流し込んだ。
冷たいものが食道を降りていく感覚に身震いをし、グラスを二、三回すすいでから元の位置に戻す。先ほどまで胸のあたりにあったモヤモヤも水と一緒に下へと降りていったのか、気分も幾分かマシになったようだ。
シンクに両手を置いて一呼吸した後、次は換気扇の下に置いていたタバコの箱に手を伸ばし、取り出した一本を唇に挟む。火をつけようとライターをタバコの先端に近づけた時、自らの手が微かに震えていることに気が付いた。
情けねえ。と内心で自らを貶しながら、紫煙をくゆらせる。
自らの口から出た白い煙がキッチンの空気を濁らせていくその様子を見届けて、灰皿を手に取り、その場にしゃがみこんだ。
タバコを加えて深く息を吸い込めば、目覚めた時から得体のしれない不安でふわふわしていた心は、まるで重力が付加されたかのようにストンと胸のあたりに落る。なんとも言えない心地いい感覚に、ふぅーと白い息を空間に塗り重ねていく。
さっきまで見ていた夢は、どちらもこの頭の中にある思い出。
天離については、先日ルナに話したことが影響している可能性はある。ただ、その前に見たおぞましい景色は何を意味している?
夢である以上、自分の脳が見せたものだろうが、何故今更、あのようなリアルな感覚と共に引っ張り出してきたのか。大した意味などないはずなのに、こんな夢を見た時ばかり何か意味があるんじゃないかと深く考えてしまう。潜在意識がこれから起こる現実に警鐘を鳴らしている、そんな気がしてならない。
一度、昔に失った大切なものを夢で思い出し、目覚めた後も震え続ける程に恐れているモノとは一体なんだ。これから大きく変わろうとしている日常に対して、だろうか。
「吸うときは換気扇回せって、言ってるのに」
暗がりの中から聞こえてきた苦言の主は、ベッドで寝ていたはずの友人だ。
まさか起きているとは思わず返す言葉がすぐには出てこない。とりあえず、と冷静にタバコをひと吸いして、彼の姿から目をそらさずに灰を灰皿へと落とす。
そんな姿に呆れたのか、もう。と言いながら友人は上へと手を伸ばした。直後、カチという音に続いて換気扇の回る音が真上から聞こえてくる。
「え……千聖、起きてたの?」
「いま起きたー」
寝ぐせで跳ねた髪をいじりながら、千聖は眠の右隣に腰を下ろし膝を抱えて座った。
狭いキッチンの隅に二人で座るこの状況、よくわからない。だが、誰かの存在を実感できたことで心に在った不安の残滓が削られていく。心が軽くなった気がして、眠の口角は自然と上がった。一人ではない証拠に触れたくて、千聖の腕に触れている己の右腕に意識を集中させる。
触れた千聖の体温がいつもより少し冷たい。
扇風機をつけっぱなしにして寝ていたせいで身体が冷えたのだろう。
「風邪ひくぞ」
「ひかないよ」
「……千聖バカだっけ?」
「いや賢い。……完全に風邪ひいたわ」
笑いながら千聖は、身体を傾け体重を預けてくる。
何気ない行動だろう。それでも、眠が感じたのは体重だけではなく、命を丸ごと預けらるような、そんな重い感覚だった。
命はいつも簡単に奪われることを知っている、それを夢に思い出させられたから。どれだけ大切に思っていようが、どれだけ失いたくないと願っていようが関係ない、奪われるときはどのような慈悲もそこにはなく、ほんの一瞬なのだ。
もう取り返せない存在を思い出した今、となりで感じる、まだ失っていない大切な存在の重さを実感していた。そしてこれから失うのではないかという恐怖で、指先が小刻みに震えている。きっとこの震えは隣に伝わっているだろう。
「オレ、なんつーか……すげぇ嫌な予感してて」
「何に対して?」
「わかんねー。親死ぬとこ夢で見たからかも」
呆れたような笑いを混ぜて夢の内容を告白し、タバコの火を灰皿の底に押し付ける。もちろんこの呆れは自分に対してのものだ。
「その後、天離も出てきて……これ、『お前はまた失うぞ』って暗示なんじゃね? とか、下らねぇけどそんな風に思ってさ……」
「そーゆー事か。まあ、夢だし大丈夫じゃない?」
「いや……そりゃそうだろうけどよ、けどもしかしたら夢が──」
「夢が、おれの決意より強いなんて思えないし」
思い切って暴露した思いをあまりに簡単に流され、さすがに食い下がろうとしたが意味深な千聖の言葉で遮られる。何を言いたいのかわからず、思わず「は?」と聞き返せば、返ってきたのは今まで聞いたことのない決意だった。
──お前の幸せは、もう誰にも壊させない。
一本でやめようと思ってたタバコだったが、その言葉のせいで、二本目に火をつける羽目になった。なんだよその決意。と心の中ではツッコミを入れられるが、何故か言葉にすることができない。しゃべらせようとするのは脳だけで、喉や舌は動く気配すらない。
「お前の家族を奪って、幸せを壊した原因は、おれにある」
だが、続いた言葉は眠にとって、黙っていられるものではなかった。
「何回も言ってるけど、それは違──」
「何回言ったって、どうせ平行線だろ。とにかく、いつも守ってもらってばっかりってのも癪だから、親友の幸せくらいおれに守らせてよ」
照れもせずにそんなことを言う千聖の声は、どこか楽しそうだ。
「素直に“じゃあお願いします”なんて、オレは言えねーけどな……」
何度言っても平行線、これについては全くの同意見だったため、早々に否定を被せることはあきらめて、その代わりとばかりにすこし捻くれた感想をぽつりと零した。
二人でいるときに、こんな風に真面目な話をすることは少ない。
素直な言葉なんて返せないが、たまにはこんな日があってもいいのかもしれない、なんて思えてくる。またあんな、思い出したくない記憶を夢で再生されるのはごめんだが。
「だけど……天離が出てきたのは何か意味があるかもね。おれたち、あの日から一度もヘルミュンデに行ってないからさ」
「確かにそうだな。行くか?」
「うん……婚姻の挨拶しにアスガルドへは行くし、そのついでに寄れるなら寄ってほしい。ヘルミュンデには色んなものを残してきた気がするし……」
感慨深げに語る千聖の表情は、眠の位置からは確認できない。
だが、表情は確認できずともその心の内は何となくわかる。
厄落としといえば聞こえは悪いが、終戦を目前に清算しておきたい感情、伝えておきたい言葉が、胸の中にあるのだ。
死者に言葉が届くかはわからない。
それでも伝えようとしないよりは意味があるだろう。
「なあ千聖……これ吸い終わったらさ、ちょっと外出て散歩しねーか?」
なんとなく、このまま寝てしまうのはもったいないと感じてそう提案した。
お互いの胸の内についてこんなに真面目に話し合うのは久しぶりだから、もう少し二人で話していたい。
今の二人でいろんな話をしてみたいと、そう思ったのだ。
「千聖……?」
しかし、そんな純粋な願いも虚しく──
親友は、身体を預けたまま眠りに落ちていた。
「ちょっ、なに寝て……!」
一体この流れのどこに寝る隙があったというのか。
あまりにもスマートな就寝。
最悪、最初から寝ぼけていたという可能性も否定できない。
「風邪ひいてもオレのせいにすんじゃねーぞ」
深いため息の後、世話の焼ける親友をベッドに運ぶため、まだ半分以上残っているタバコの火を消す。
その手の震えは、もう収まっていた。




