31話 自業自得なテスト返却
千聖は一人、窓際の席で頬杖をつきながら、教壇に立つ教師が黒板に描いていく魔法式を眺めていた。
節電のためか、電気が付いていない薄暗い教室。響くのは、小気味よく黒板をたたくチョークの音と、薄く開けられた窓から聞こえる、外の世界の音。教室のドアはスライド式で、今は前も後ろも全開にされている。
そのせいで、他の教室で行われている授業の音も微かに入ってくる。定期的にドッと笑い声が聞こえてくるのは、きっとどこかの授業で盛り上がっているのだろう。
千聖はそろそろ板書でも取っておくかと机の上に長らく放置していたシャープペンシルを手に取ってはみたが、親指の上でペンを一回転させ、そこで動きが止まってしまう。
メンドクサイ。
今黒板に描かれているものは、すでに知っている種類の防御魔法だ。
単純な魔法であれば、魔法式や魔法陣を覚えてしまえば実際に魔法式や陣を描かなくたって、手をかざす等の動作だけで発動は可能である。より鮮明に、正確に脳内でイメージできればその分発動までのスピードは速くなるから、繰り返しノートに描いて覚えるのも大切だと思うが、しかし面倒くさいという感情が先に立ってしまっていた。
そういえば、ルナさんの防御魔法の発動、速かったなー。なんてことを思い出しながら、ぼんやりと黒板に書かれた白い魔法式を眺め──ふとある疑問が頭に浮かぶ。
そもそも、こんな防御魔法なんてこっちの世界で何に役立つのか。自分たちは命を懸けた闘いをするから知識としては必要だ。だが、人間として過ごす者の日常生活のどこで、防御魔法が必要になるだろう、と。
そう──ここは、先日まで千聖たちがいた死神や天使が戦いを繰り広げているような、物騒な世界ではない。人間が住まう比較的平和な世界──魔界。
昼と夜が交互に訪れる空に、発展した科学や医療の技術。大半の子供は学校に通い、大半の大人は働いている。そして法律や憲法という規則で個々の安全が保障されている、そんな世界だ。
死神がいる下界と天使が住まう天界は、互いを差別するために別々の世界として区別しているものの、その実、地続きになっているため1つの世界と言える。が、この魔界はそうではない。
千聖たちの世界とは完全に隔離されたもう一つの世界。
この世界に来るには特殊な転送魔法を使うのだが、不思議なことにその転送魔法を行使できるのは人間以外の種族のみである。
つまり、人間以外は自由に、この魔界と天界下界を行き来することができる。
逆に言えば人間は天界や下界に行くことはできない──どころか一般的には千聖たちの世界や、人間以外の種族が存在することすらも認知していない。
知っていたとしても、一部の人間を除いては架空の存在だと思い込んでいる。
千聖の両親と姉は死神でありながらもこの魔界に、生活の基盤を置いていた。
母は人間として生活し、父と姉はこちらの世界で死神としての仕事をしているらしいが、千聖はその内容を詳しくは知らない。
千聖も帝国将軍として下界に常駐する必要がない時は、こちらの世界で人間の学生として生活していた。
しばらく前にあったヘーリオス作戦は魔界で言うところのゴールデンウィークという連休の後半にあたる時期で……とはいえ予定外の共同作戦となったため、連休期間を見事に超過、学校再開に合わせ魔界に帰ることは叶わず、彼にとっての連休明けは散々なものだった。
親の家業手伝いという理由をつけてしょっちゅう休んではいるものの、今回については数日にわたる無断欠席ということで、従者である眠共々教師からは呼び出され説教されるわ、放課後と土日でみっちり補習を受けさせられるわ──思い出したくもない日々。
ちなみにこの魔界で暮らす人間達が何を学んでいるのかと言えば、よくいう国語や数学などの科目と、それから魔法である。
小学、中学の9年間は義務教育で5教科を含む普通科目をメインとし、少しだけ魔法の基礎も学ぶ。
義務教育の次は5~7年制の高等専門学校だ。
高専に通うかどうかは任意。
高専には様々な科目の学校があり、すぐに列挙できる一般的な科目でいえば、普通科、化学科、医療科と、魔法に特化した魔法科高専なんかがある。
通いたい学校と科目を選んだうえ、受験を経て入学するといったシステムだ。
千聖は魔法科高専の4年。
5年制であるこの学校では、4年の今の時期になると就職活動の準備で同級生たちは忙しくなる。あと少しすれば夏休みになるが、おそらくみんな就活でそれどころではないはずだ。
千聖と眠はすでに就職しているようなものなので、帝国の軍人であることを忘れてしまえば夏休みを満喫することができる。実際そんなことは許されないだろうが、眠のことだからそろそろ「今年はどこいく? 何する?」なんて話題を切り出してくるだろう。
確か少し前から今年の夏は遊園地に行きたいなんて言っていた気がする。
千聖はちらりと、肩越しに少し離れた後方の席に視線を向けた。
自分の席から二列横、その列の一番後ろの席は、4時限目に突入した今でもまだ誰も座っていない。
来ていないのは遊園地に行きたいと言っていたアイツだ。
朝からいないことには気が付いていた。しかし千聖も、他のクラスメイトもとくに騒いだりしないのは、それがいつものことだから。
千聖は前に向き直り小さくため息をつく。まともに来たためしがないとはいえ、さすがに4時限目まで来ないのは遅すぎる。
何か連絡は入ってないだろうかと、机の中に忍ばせた携帯電話に手を伸ばした丁度その時、静かだった教室の後方から、ガタガタとガサツな音が聞こえた。
続いて小声で挨拶を交わすような声も聞こえてくる。
今度は体の向きごと変えて振り返れば、きっちりセットされた琥珀色の髪に、緩められたネクタイ、両耳に幾つもつけられたピアス、気崩された制服……。
先ほどまで空いていた席に、いかにも気怠そうなカンジで着席する眠の姿があった。
教材を取り出そうとしていたが、目が合った瞬間にニカっと笑って小さく手を振ってくる。口パクで「おはよ」と言ってきたのは分かった。
千聖もなにか口パクで言ってやろうと画策するも、教団の上から聞こえてきた意味深な咳払いにより断念。ス……と静かに前へと向き直る。
黒板に文字を書いていた教師も彼の登校に気が付いたようだった。
「おい炎、昼休みになったら職員室に来い」
「えーー」
炎、というのは眠の姓だ。
怒っているというよりは呆れ腐った声で放たれる、ある意味学生にとっての死刑宣告。
どう捉えても眠の対応次第では昼休みいっぱい説教に費やされそうな雰囲気が漂っているものの、とはいえ先程までただなんとなく授業終了までの退屈な時間を消化するだけだったこのクラス全体の空気が、彼の登場だけで変わったのは明確だ。
わかりやすく言えば、白黒だった世界がカラーになったみたいに。それくらい、このクラスにとって彼の存在は大きかった。
そんな人気者である眠の正体は、狼の耳と尻尾を持つ獣人。
しかし、ここ魔界での彼の姿は人間のそれと同じである。
それは、死神である千聖も同じだ。
人間との違いが分かりやすい獣人と比べると死神の見た目上、人間との差はほとんどない。千聖の場合、死神特有の紅い瞳が、人間になると蒼色になるのが唯一の違いだ。
とはいえ、ただ人間の見た目をしているだけで、死神や獣人としての能力を失ったわけではない。もちろんこのクラスメートの中に、二人が普通の人間ではない、という事を知る者はいなかった。
「とりあえず、炎はあとでな。じゃあようやく全員そろった事だし──先週やった全学年共通テストを返す。名前呼ばれたら取りに来い。ちなみに、30点以下は夏休み後半補習を受けてもらうからなー」
30点以下は夏休みの後半に補習。その言葉にクラス全体からわざとらしく「えーー」なんて不服そうな声が上がる。
就活もしなくちゃならないこの時期に補習なんて本当に可哀想だ。なんて思いながら千聖は少しだけ姿勢を崩した。まさかこの時間にテストの返却が行われるとは思っていなかったが、目の前の教師はこのクラスの担任だから仕方がない。
とりあえずテストに手応えはあったし、なんせ自分の成績はいい方だと自覚しているから補習の懸念を抱く必要はない。それに呼ばれるのもどーせ出席番号順だし、自分の出番は最後だ。そう思っての余裕だった。
「はーぁ、じゃあまず校内3位、学年トップがこのクラスにいるから……そいつから先に返すか」
担任教師としては誇らしいはずの功績を、何故か呆れたように発表する。
千聖にはなんとなーくその理由が予測できるが、そんな教師の様子なんてまるで気にもかけず、生徒たちはおぉー! と声を上げた。
驚いて見せてはいるが生徒たちも大方予測はついているだろう。
「お前だ、炎」
なぜならこの流れも、いつものことだから。
呼ばれた眠は道中、イエーイなんて言ってクラスメイトとハイタッチしながら答案用紙を受け取りに来る。
そうして当然のごとく、席に戻る帰り道、わざわざ通り道でもない千聖の席の前まで来て立ち止まった。
「へっへ、当然だよなーオレ頑張ったし?」
「おめでと! 良かったな」
「千聖さ、まさか補習とかねーよな?」
遅刻してくるくせになぜこんなにも成績がいいのかと聞かれれば、それは単純に彼が努力家だからだ。陰で人より何倍も努力していることをよく知っている。
だからこそ親友の功績を素直に喜んでいた千聖だったが、そんな純粋な気持ちを知ってか知らずか、ちょっとだけ意地の悪い笑みを浮かべてからかってくる眠に少しだけムッとした。
「さすがに30点以下はないって。てゆーかお前今日香水キツいよ。臭い」
「え! 悪ぃすぐ帰って風呂入ってくるわ!」
「いや帰んなよ……来たばっかだろ」
「いーから席戻れー」
怒られるわけでもなく諭されるわけでもなく、淡々と席に戻ることを担任から促され、眠は素直に自席へと戻っていく。
その後なんの滞りもなくテストは返却されて行き、クラス中から補習を免れたことに対する安堵の声や、お互いの点数を気にするような会話が聞こえ始めた。
みんなのリアクションから、今のところ補習者はいないらしい。
そろそろ自分が呼ばれる番だと悟った千聖も、姿勢を正して席を立つ準備をする。が──
「返却は以上だ。平均は全生徒で60点、4年だけだと68点。詳しい解説つきの解答はここに置いておくから欲しいやつは持っていけ」
呼ばれなかった。
聞き逃したなんてことはないはずだ。眠以外は間違いなく出席番号順で呼ばれていた。テスト自体受けてない、なんてことも絶対にない。考えられるとしたら、採点された答案を職員室に忘れて来られたとか……。
「一名、答案用紙に名前を書かなかった馬鹿野郎がいる。今呼ばれなかった奴だ。誰だろうなーぁ」
「えっ……」
「76点だろうが名を残さなかった奴は0点だ。というわけで後でナナシの誰かさんも炎と一緒に職員室!」
さらっと放たれた衝撃の事実と、クラス中に暴露された自慢できるほど高いわけでもないテストの点数。言い終わると同時、まるでタイミングでもはかったかのように4次時限目終了のチャイムがなった。
名前を書き忘れるという前代未聞のミス。そのうえ反論の余地すら与えずに颯爽と去って行く担任。徐々に起こる笑い。取り残される本人の理解。
そしてワンテンポ遅れて、クラスで一人だけ補習になってしまったのだと知る。
「ちょ……ぇ! おれっ……」
挨拶もなしにすでに消えた担任を追うため、ガタガタと音を立てながら千聖は立ち上がる。流石に名前の記入漏れで夏休み後半の返上はない。断じて夏休みが惜しいんじゃない、帝国の王になんて報告すればいいのか、そこが問題だ。大問題だ。
すでに他の生徒たちは思い思いに昼を過ごそうと席を立ち始めている。誰かが遠くからドンマイなんて声をかけてくれたが、正直応える心の余裕なんてなかった。
とにかく担任を引き止めて直談判するしかない。
交渉に向かうため一歩踏み出したが、目の前を塞ぐように現れた大きな影によって二歩目は出せず。千聖が顔を上げて人物を特定する前に、頭上から親友の声が聞こえた。
「よっし千聖、購買行こーぜ。つか今日弁当?」
「あーおれ弁当。じゃなくて職員室! 呼ばれてただろ?」
「え、マジで行くの?」
「おれはね!? お前も呼ばれてたでしょーが」
「あれ? 千聖も呼ばれてたっけ……ってそうか、テスト返却お前そういえば呼ばれてなか──え、ってことは夏休み返上!?」
なんの悪気もなく担任の呼び出しをなかったことにしようとしていた眠だったが、ようやく千聖の身に起こった自業自得とも言える災難を理解し、その表情を変える。
「ちょっとそれは黙ってらんねぇ。オレから話つけてくる」
「ちゃんと謝って、おれから交渉するよ……」
「つーか名前書かなかったの千聖だけだろ? そしたら消去法で名無し其れすなわちお前って判断付かない担任が馬鹿なんだよ。千聖は悪くねぇ」
「いやどう考えても悪いだろ!!」
いつしか本人よりも温度感高めに、フンと鼻を鳴らして職員室に向かう親友の背を、千聖は慌てて追う。
遅刻はするし、自分に対する呼び出しに応じる気はないし、しかしこれでいて成績がいいのだからさぞかし扱いに困っていることだろう、と少しだけ担任に同情する千聖だった。




