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26話 血の儀式?

「痛──ッ……」


 ナイフを咥えた口から洩れる、苦痛の声。

 鋭利な刃はいとも簡単に肌を切り裂き、溢れ出た赤はパタパタと地面を打ち付けた。

 その顔は、ナイフを咥えたまま痛みに歪んでいる。


「お前っ……」

() () () () () () () () () () () () () ()


 何とか聞き取れた言葉と共に差し出された右腕は、手首と肘の丁度中間あたりがぱっくりと裂けていた。出血量から結構深くいったらしいが、確かに言われる通り流れ落ちる血液がもったいない。

 差し出された腕をそっと掴んで、(みん)は血が伝って赤く染まる指先から手首、傷口までにかけて舌を這わせ血を(すく)っていく。久々に身体に染みる主人の血の味に、喉がなった。


「ダメだろ、自分でキズつけちゃ」


 息継ぎのあいだにぼそりと(ささや)きながら、血が溢れ続ける傷口を(むさぼ)るようにしてをそれを啜る。

 ちらりと千聖(ちあき)の表情を盗み見れば、やっぱりとても痛そうにしていた。

 ナイフを咥えたままなのは、痛みに漏らしそうになる声を我慢するためなのかもしれない。

 傷口を舌で抉られ吸われる痛みなんて、当事者である眠には到底想像も出来ない。

 すぐ近くから感じる呼吸の荒さ。申し訳ないとも、可哀そうとも頭の中では思っているが、しかし従者の尻尾は得体の知れない喜びに揺れていた。


 そのまましばらく吸血し、このあと何かあったとしてもどうにかなるくらいの充電ができたあたりで、眠は腕から顔を離した。最初程の勢いはないが放置しておけば血が垂れるくらいには、まだ血が滲んでいる。やっと終わったのかと言いたげなその瞳には、涙が滲んでいた。


「なかなかすげえプレイを求めてくるな、お前は」


 へっと吐き捨てるように笑って、眠は最後に、千聖が咥えるナイフの刃に舌を添わせ、わずかに付着していた血液までも器用に舐めとった。

 そのまま眠もナイフの持ち手を咥え、驚いて呼吸すら止まっている千聖の口から獲物を奪い取り──先ほど千聖がしたのとまったく同じく、自分も右手をあてがってそのまま皮膚を裂いた。

 目の前で繰り広げられた理解できないその行為に、千聖は完全にフリーズする。

 滴り落ちた血液が先程千聖が地面に作った染みの上に重なり、新しい赤へと塗り替えていく。


 カラーンと響いた、地面とナイフがぶつかる軽い音で千聖は我に返った。


「なに、してんだ」

「これでおあいこだ。千聖だけケガするなんてハナシはねーよ」

「いや、一緒になって自傷するハナシもねーよ……」

「それいっちゃあお前、こんなことするよりオレに手首噛ませて普通に吸わせた方が良かっただろうが」

「あの……牙が深く刺さって、こう、吸われてググーッて痛い側の気持ちわかる?」

「そんな説明じゃちっともわかってやれねぇって」


 少しだけ呆れたような、それでいて優しい声音でそう言いながら、眠は千聖の髪をわしゃわしゃと掻きまわす。千聖は動じることなく、しかし視線だけは急いでフォールハウトとルークスが目覚めてないかを確認していた。こんな様子を見られたりしたら最悪だ。

 とりあえず二人の意識がこちらには向いていないことを確認してから、じっとりとした目で眠を見上げる。人の頭を撫でるという行為、眠はきっとこれを良かれと思ってやっている。みんは撫でられるのが好きだから、主人ちあきも撫でられると嬉しくなるのだと思い込んでいるのかもしれない。実際たいして嬉しくはない、むしろ馬鹿にされている気分だ。しかし仲間の好意はそれこそ好意的に受け取ってやりたい。


 ──が、そんな受け入れる姿勢よりも、もっと今の千聖にとって重要な事実が一つ。髪に触れるその手は、何度もわしゃわしゃと掻きまわすその右手は、血濡れた方の手である。


「けどまあ、痛い思いさせて悪ぃな。いつもありが」

「どさくさに紛れておれの髪で手ぇ拭いてんだろ」

「……え」


 会話に、何とも言えない間が開いた。

 ぴたりととまった手の動き。引きつる笑顔と目尻。


「わかるからな」

「いや、ワザとじゃねえんだ!」

「知るか!」


 おかげさまで血塗れになった頭から眠の右手を払いのけ、そのまま行き場を失っている右腕を、千聖はつかみ取った。握るのは、傷口。

 思い切り力を込めればジワリと血液が溢れ出てくる。


「いっでえぇえぇ!! お前何すん」

「くらえ!」


 叫びながら千聖は完全にひるんでいる眠の左頬を、血がべっとりと付いた右の手のひらで力いっぱい叩きつけた。パシン、という乾いた音がこの中庭に反響する。


「ッだあああぁぁ!!」


 俗にいう平手打ちというやつだ。

 熱く痺れる頬を左手で押さえ、眠は触れた左手が濡れたことに気が付く。

 これは、血だ。


「おまっ! 顔はナシだろ……」

「女の子みたいなこと言うなよ」

「言ってろ、すげーの食わらせてやるからなオラァ! オレの血ぃ!」


 今度は眠が、右腕を勢いよく横に振り払い千聖の顔を殴りつけた。丁度腕の切り傷辺りが左頬にぶちあたり、血が飛び散る。その血は千聖の顔面と着ているシャツを汚した。


「あぁああ!? 痛え! そんなんアリか!?」

「オレもいってえぇえええ! 」

「この野郎、覚悟しろよ……」

「はっ……ぜってぇー負けねぇし」


 相手をより血塗れにしてやろうと、二人は腰を落として身構える。

 千聖は冷静に状況を分析し始めていた。今となっては出血量は相手の方が上だから、止血しつつあるこちらの勝ち目は薄い。勝つためには新たな傷を作ること。とはいえ先ほど使ったナイフは地面に落ちている状態だ。取りに動けば確実に悟られる。

 上手いこと気をそらしつつ、足でナイフを跳ね上げてキャッチ出来れば──


「うあぁああぁっ! お二人とも一体何をされているのですか!!」


 突如響き渡った悲鳴に、二人は動きはおろか呼吸がすら止まる。 

 男二人の脳内に浮かぶのは“ヤバイ”の三文字。

 ルナだ、ルナが来た。


「お二人……その右手は……!?」


 暖かく穏やかな風が二人の血に濡れた頬を撫でた。

 ずっと遠くの方から、食堂に残った者たちの声が聞こえてくる。

 この場とは違う世界のお話だ。

 この状況をなんて説明しよう、そう焦る千聖と同じく焦りの色を瞳に浮かべる眠は、お互いに見つめ合ってアイコンタクトで一時休戦を誓う。

 傍から見れば血だらけの男が二人、今にも飛び掛かかろうと構えていたこの状況。

 何をしていたかと言えば、相手より血塗れになった方が負けみたいな、本当によくわからないとしか言えない勝負をしていた。冷静に考えれば本当に何してたんだと疑問に思う。そして、そんな説明をするわけにはいかない。怒られるのは嫌だからだ。


「聞くんじゃねえ!」


 ベストな回答が思いつかず黙っていた千聖だったが、突然上がった眠の怒鳴るような声に、びくりと肩を揺らす。駆けつけてきたルナもびっくりした様子だ。

 彼が女の子相手に声を荒げるなんて珍しい。


「天使には教えられねえ……儀式さ」

「ぎ、儀式!! 申し訳ありません! そうとは知らず、邪魔をしてしまいました……」

「いや、大丈夫だよルナさん。こんなところでやるおれらが間違ってた」

「まあ見られちまったからには中止だな。で? なんかあったのか?」

「あ!はい……」


 どう考えたっておかしな話だが上手いことルナの意識を他に向けることが出来たらしい、今回は助かったが、逆にこんなんでいいのかと千聖は苦笑いする。

 素直に納得してしまったらしいルナは、ここに来た理由を思い出したのか、驚いたような表情からどんどん暗い顔になっていく。


「ステラを……みていませんか?」


 ステラ。

 千聖にとっては初めて聞く言葉だったが、すぐに人物の名前だと察した。

 いきなり“ステラ”と聞いてきたということは、眠は知っている人物なのだろう。


「あぁ……いや、見てねぇ。まだ見つからねぇのか」

「ステラさんって?」

「ボクと同じく医療部隊の天使です。赤髪の女の子で……作戦開始以降見かけてなくて」


 案の定知っているように言葉を返す眠の顔を覗き込んで尋ねれば、代わりにルナが答えた。一通りの情報を聞いて、千聖は視線を足元に落とす。

(行方不明の天使、か)


「用事あって先に王都に戻ったとかはねーの?」

「だといいのですが……もし革命軍の敗残兵にさらわれていたらと思うと……」

「けどステラってずっと最初の補給基地で怪我人見てただろ? その可能性は薄いんじゃねぇかなー」

「そう……ですよね」


 不安そうに両手を胸の前で組み項垂(うなだ)れるルナと、出来るだけ前向きな話をしようとする眠の会話を聞きながら、千聖は地面に落ちているままだった折り畳みナイフを回収する。

 危うく忘れかけていたが、たまたま足元を見た際に視界の隅に入ったから思い出せた。

 ついでに、喧嘩を始めようとした際に眠が植込みの縁においていた水入りのコップを持って、そのまま室内への入口に向かう。


「おれ、部屋戻ってるね。ステラさんのことも意識して探してみるよ」

「あ、オレも戻る! なんかわかったら共有すっから!」

「すみませんが、お願いします!」


 後ろから聴こえてくるルナの声に、水を持った片手をあげて返事をする。

 部屋に戻ってもう一度寝よう。そう決めれば、途端に眠くなってきた。

 しかしふと、自分が今体中血塗れであることを思い出し、千聖は深く息をはく。


(あーあ、無駄にくだらないことしたな)


「なあ千聖? 風呂ってどこにあるんだろうな?」

「知らない。お前犬だし、その辺の水たまりで洗ってくれば」

「え、お前もしかして怒ってんの?」


 隣に並んできた従者を冷たくあしらいながら、部屋に戻っていったのだった。




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