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「悪」というのは、必ずしも意図的ではない。
人は皆、
「意味」のために人を殺し、
「善」の為に人を傷つける。
第一章 リドラ国【トル・ラグナレク 】
僕は指先に集中して、左の掌にある飛石を小さなハンマーで叩いた。カツーンという冷たい音が洞窟の中にこだました。僕はその音に全神経を集中させて耳を傾けた。
「・・・・・泣いている・・」
僕には生まれつき石の声を聴ける不思議な力があった。その飛石の声も僕の耳の中に届く。『彼』は旧世界のそのまたずっと前からこの地球の動きを見てきている。それでも、今回のように自分たちが動物の生命を奪うために加工されてゆくのを心から嘆いていた。今までは見つからなかった、けれど、30年前の大地震で、この洞窟の存在が人間にばれて、私たちも他の仲間のように人殺しの道具にされてゆくのだ、と彼は言った。僕は『彼』をみつめて、涙をこぼした。
「ごめんね・・・ごめんね・・・」
何度も何度も謝る僕に、『彼』は言う。
仕方の無いことだ。生物が現れて、進化して、栄えて、滅びて・・・そしてまた現れて・・・。私たちの目の前で何度繰り返されたことだろう。そしていま何度目かの人間が、今また同じ道を歩もうとしている・・・。しかし、少年、それは仕方のないことなのだよ。進化と言うのはあらゆる犠牲を出さずにはいられないのだから。
「・・・・あらゆる犠牲・・・」
少年、もうお行き。ここもじきに人の手が入る。火薬のにおいに満ち溢れて、われわれは武器に生まれ変わる。
「・・・・・」
僕は『彼』をそっと仲間のもとへもどしてやり、頭についているゴーグルに手を伸ばした。
「君たちは、何も悪くない・・・」
僕はそう言い残して、ゴーグルをつけて、洞窟から出た。
「ドナル、おいで」
長年連れ添ってきたウマドリのドナルを呼ぶ。ドナルは僕を洞窟の出口で待っていてくれた。ウマドリはここゴビ砂漠ではもっともよく乗られている動物だ。ウマドリの足には三本の鋭い爪がついていて、胴体に行くにつれて茶色い羽根が生え体中を覆っている。くちばしは肌色の大きな硬い皮膚でできており、そこだけ羽は生えていない。足が速く、身軽で、10メートル程度の高さなら優にジャンプして飛ぶこともできる。
「行こうドナル。ここもじきにだめになってしまう。」
ドナルは、クウと一声泣いて、僕の掌にくちばしを摺り寄せた。僕はドナルの背中に乗り、武器商人たちがひしめく自分の王国へ帰っていった。
*
世界は対立していた。この100年間の内に二度の大きな宗教紛争があった。ちょうど100年前に、1度目の大紛争があった。それは、黒人至上主義の乙教と、白人至上主義の甲教との戦いであり、甲教が勝利した。その後、甲教による世界規模での支配が行われ、乙教徒は「異教徒」として奴隷となった。しかし、甲教による支配も安定せず、50年前には二度目の宗教戦争が生じた。甲教の内部で、エリートを中心とする甲北教と貧困者を中心とする甲南教との対立が生じた。甲北教は、北にティシカニ国をつくり、チル総統が統治をした。一方、甲南教は、南へ大移動をし、ガルム総統を中心とする亜パス軍事政権をたてた。僕らの住むリドラ国は、結果的に北のティシカニ国と南の亜パス国に挟まれることになってしまった。
リドラ国には、ティシカニ国とアパス国の中立的立場としての役割が課された。幸い、僕らの国には豊富な鉱物資源があったために、両国から重宝された。しかし、その資源の豊富さゆえに、45年前、両国から侵攻されたこともあった。僕の祖父は、30年前に両国を説得し、我々は両国に平等に武器を売り続けることで主権国家としてその存在を認められ、独立することができたのだ。それ以来、我々リドラ国は「武器商人」のあだ名で呼ばれ、豊富な鉱石を用いて命を奪う道具を作り続けてきたのであった。
僕は、リドラ国の3代目の国王になる男だ。今は、現国王である父のもとで王子として国民と関わっている。
「おや、トル様。」
砂漠を超えて、都市部に入るところで、憲兵の老人が声をかけてきた。
「やあ、お疲れ様。ペレじい。」と僕は声をかける。
「日も暮れてきましたし、もうすぐ門を閉めますよ。早いとこお入り下され。」憲兵は言う。
「トル様、もしやまた砂漠の向こうまで行っておったんじゃないですか?」
ペレじいは、かつては祖父に従事した兵士だった。国の独立戦争の際に生き残り、片目の視力を失ってからずっとここの憲兵を任されている。そんな彼も、もはや腰も曲がり始め、顔の周りには白いひげが現れ、しわだらけだ。しかし、僕はこの憲兵のことが大好きだった。
「うん。よく聞かせてくれただろう?戦地での話を。僕の冒険癖はあなたのせいでもあるよ。」
幼いころ、城を抜け出して町から出ようとする僕はしょっちゅう彼にこの検問で止められ、使いが迎えに来るまで祖父の時代の独立戦争についての話を聞いたものだった。
「ふぉっふぉ。なつかしいですのう。あのころはトル様もこんなに足元ぐらいしか背が無くて・・・」
そういいながら、ペレじいは自分の膝の高さに片手を出した。
「ああ、なつかしいね。」
「しかしですなあ、今や国境の近くには多くの軍人がおるそうです。ティシカニ国のチル総統は新たな武器実験を砂漠で行っているそうで・・・・」
「武器実験?」
僕は、ドナルから降りて、ペレじいの隣に着地した。あたりに人がいないことを確認すると彼に近づき、問う。
「どういうことだ?」
「近頃、ここを通る運び屋たちの間で噂になっとるみたいです。北の国境で大きな爆発音を聞いたものがたくさんいるのです。」
「爆発音がしたのか?それは・・・・もしチル総統がそんなことをしているのならば、公約違反だろう。」
「チル総統は、国内の異教徒は全て殺しているそうですし・・・・危険な人物です。わしも30年ほど前、一度戦地で見かけたことがあります。あの眼は、強い野心を持ている目でしたぞ。今は一時休戦と言うことにはなっていますが、何をしでかすかわかりません。」
チル総統・・・僕はまだ実際に見たことは無いが、噂によるとかなりの独裁者らしい。ティシカニ国自体はチル総統のことは支持しているらしいが、その権力基盤は全てエリートたちだ。彼らは総統と癒着しているのだろう。
「そうか、ありがとう。」
僕は、彼に笑いかけて、ドナルにのった。
「いまの話は、くれぐれも国民の耳に届かないようにしなければならない。不安をあおるだけだ。」
「へい。」
ペレじいに礼を言い、僕は国の中へ入った。
都市部では、武器商人たちが眉間にしわを寄せて、剣を研いだり、削ったりしていた。
「あ、トレ様」
「トレ様だ!」
国民たちは、額の汗を手でふき、腰を持ち上げて僕にあいさつをしてくれた。
「やあ、精が出るね。お疲れ様」
国民たちの作業場を通る。みんな額に汗を流し、懸命に作業をしている。男たちは皆砂漠を超えて洞窟の鉱石を集め、女たちは皆部品の加工をする。子供たちも5つのころには武器をつくる手伝いをし、老人たちは畑仕事をする。分業社会だ。皆、一人では生きて行けない。協力し合って、一つの家族が、一つの国が生きているのだ。
宮殿につくと、トリウマ小屋へ向かった。小屋の中にドナルを入れてやると、彼はクチバシの鎖を小屋の柱に結び付けるまで、良い子にじっとしていた。
「良い子だな、ドナル」
彼のクチバシをなでてやると、うれしそうに自分からすり寄ってきた。
「はは。お前は本当に可愛いやつだね。」
僕の顔と同じくらい大きなドナルの澄んだ目を見つめると、その濡れたように真っ黒な瞳の中に写った僕の姿を見つけた。ドナルは、この大きな瞳で、砂漠の中なにを見つめているのだろう。何を考えているのだろう。
「ドナル、君の仲間も、戦争の時にずいぶん死んでしまったね・・・。」
トリウマの寿命は人間と同じほどだ。ドナルはまだ15年ほどしか生きていないので、きっと戦争のことは分からないだろう。けれども、普段ここで人間たちの話をよく聞いているからだろうか。なにかわかったように僕をじっと見つめた。
「ドナル、戦争は嫌いか?」
僕は語りかける。ドナルはまっすぐに僕の顔を見つめている。動物は不思議だ。言葉は無くともその字草や表情で意思を伝え合うことができる。それなのに、なぜ言葉を持つ人間は、こうも相容れないのだろう。
「僕は、戦争は大嫌いだ・・・。業が業を生み、悲しみは悲しみを呼ぶ。誰も皆、自分だけは正しいことをしていると考え、相手が間違っていると決めつける。自分だけは過ちを犯さないと信じているのだ。」
なぜだろう。あの、洞窟にいた鉱石でさえも、互いの気持ちをわかりあえるというのに。なぜ、人間だけがこんなにも醜く争うのか。
「トル」
ふと、後ろから名前を呼ばれて振り返る。そこには、国王である父が立っていた。
「父上、具合は良いのですか?」
父上は僕の隣に来て、ドナルの体を優しい手つきでなでた。ドナルはうれしそうにクウと鳴いた。
「ああ。今日は天気も良いからね。満月もはっきりと見える。」
父上は背が高く、僕は父上の横顔を見上げた。父上は、国王らしい格好は好まず、国民たちと同じような格好をしている。
「それは、よかったです・・・」
僕には6人の姉がいた。しかし、母上はもともと体に毒を抱えている人だったので、姉たちはその毒を引き受けて皆数か月で死んでしまったそうだ。母上はその死を嘆き、父上も愛している母上の悲しむ姿をいたわった。僕は7人目の子供で唯一の男だった。母上の体の毒を引き受けたのかどうかは定かではないが、僕を産むときに母上は無くなったそうだ。「神様、どうか。この子に毒をあげないでください。私は、私の毒を持って、この命尽きても構いません。せめて、この子だけは、あの人への贈り物として無事に生んであげたいのです。」母上の最後の言葉だったそうだ。父上は母上の死を悲しみ、その命を受け継いだ僕を大切に育ててくれた。
「トル、今日はどこに行っておった?」
父上は、言う。
「西の洞窟です。」
僕は正直に答えた。父上は穏やかに目を細めて僕を見つめると、左手で豊かなひげを治った。
「ほう・・・それは感心できぬな。砂漠を超えたのかね。」
父上は笑った。
「しかし父上。石たちが泣いていました。」
「また石の声を聴いたのか。」
「彼らは、自分たちが生き物を殺す道具になってしまうのを嘆いておりました。」
僕は続ける。
「北のティシカニ国からまた武器の注文が大量に入りました。チル総統は新たな武器実験を辺境で行っているといううわさもあります。アパス国のガルム総統もそれに対抗するように武器の申請をしてきました。両国に挟まれた我々リドラ国は、武器をつくり、売り続けるだけで良いのでしょうか。このままでは、休戦は説かれ、きっとまた何人もの命が犠牲になるでしょう。」
父上の顔をちらりと見ると、僕の方をみようともせずドナルの体をなでていた。
「ふむ。」
父上は穏やかな人だ。独立宣言をした祖父が若くして亡くなった後、父上は25年間お王位の座につき、統治をしている。争い事は嫌いで、国民の命を守るために、両国からの武器の申請にはすべて応じるようにと言っている。
「祖父の誓いは、いつまで効力を持ち続ける物なのでしょう・・・。僕たちは一体いつまで武器を作り続けなければならないのですか」
僕はうつむいて、自分の足を見降ろした。
「トル、言いたいことはわかる。」
父上の優しく、穏やかな声が僕の胸をくるしくする。
「我々は弱く、小さい国だ。この豊かな鉱石のために、一〇〇年前までは世界の植民地であった。独立した今もなお、この鉱石たちを求めて、世界中から侵略の猛威は襲ってきている。しかし、大きな力を持つティシカニ国とアパス国が壁となり、その猛威から我々を守ってくれているのも確かだ。そのおかげで、この三五年間、主権を保ち続けられている。その恩返しとして、両国の武器申請には完璧に答えなければならない。」
それは、単に両国の植民地下に入っただけではないかと僕は思う。主権国家とはなんなのか。外部独立性ではないのか。しかし、僕らは軍隊をつくることは禁じられている。そのせいで、両国にはむかうことは出来ない。
「それは、わかっております・・・。」
父上は平和主義なので、きっと下手に秘密裏に軍隊をつくり、死者を出させたくはないのだろう。
「僕たちリドラ国民が、陰で何と言われているか、知っていますか。」
「・・・・知らぬ。」
「『死の商人』です。」僕ははっきりとした大きな声で言った。
「・・・。」
「我々は自分たちの命を守るために、武器を作り続けます。しかし、一方で我々の手で造った武器たちは多くの人間の命を奪うのです。」
父上は黙ったままだった。月明かりに照らされる中で、父上の顔だけが暗く、表情が見えなかった。
「人間は不思議です。なぜ生き物を殺さずにはいられないのでしょう。今日であった石たちもそういっていました。自分たちが火で加工され、くっつけられ、鋭い形を帯び、生物の心臓を突き刺すのを恐れていました。彼等も、自分たちの体が血に染まることが耐えられないと言っていました。」
明日にでも、あの石達は人間に連れて行かれてしまうかもしれない。父上の命令によって、国民の手によってこの場所へ運ばれ、火であぶられるだろう。自分自身が「生き物を殺すための物」になりゆくのは、もしかしたら生き物を殺すこと自体よりもはるかに切ないことなのかもしれない。
「・・・・今晩は、良く冷える。お前もすぐに寝なさい。」
「父上!」
父上はそういいのこして、スタスタと宮殿の中に入って行ってしまう。僕はその背中を見つめた。ドナルのクウという一声が、冷たい暗闇の中に響いた。
「・・・・僕も、もういくね・・おやすみドナル」
彼のクチバシをなでて、僕は自分の部屋がある建物へと向かった。中に入り、長い廊下を歩いていると、ある部屋の扉の隙間から光が漏れていた。
なんだろう、こんな時間に。
扉の前で立ち止まると、中からは聞きなれた声が聞こえた。僕はその扉のドアをキィと鈍い音を立てて開けた。
「おや、トル様。」
中には、三人の工管たちが居て、僕の方を振り返った。
「こんな時間まで剣づくりかい。」
三人の男は、宮廷につかえる専属の工管だった。年はもう70近く、口元には豊かなひげを蓄えていた。皆の手には深いしわが刻みこまれていて、親指の腹にはまるで寄生虫がいるのかと思うほどおおきなタコがある。工管としての腕が良く、彼らの作る剣はとくに軽くて切れ味が良いと評判で、他の国民の品よりも高値で取引される。彼らの手には、真新しい剣が握られていて削っている途中だった。
「アパス国からの注文が追い付かんのですよ。」
とそのうちの一人が言う。
「ふぉふぉふぉ。それでこうして3人で残業中わけですわい。」
と、その隣の工管が言う。
僕は円になるように床に腰かけている3人のそばに行き、円に加わる形で床へ腰を下ろした。
「ご苦労をかけるね。」
僕は3人の目を順に見ながら言う。
「いえいえ、ほら、30年前の独立の時に軍が解体されてから、わしらには手に職もなく苦労したんですよ。でも、チュール様は、わしらを見捨てずにこうして鍛冶屋としての仕事を与えてくださいましたんでねぇ。こうして生きてこれたんですよ。」
三人のうち一人がそういうと、残りの2人もうんうんとうなづいて口元のひげを震わせた。
チュールというのは僕の祖父の名前だった。祖父はリドラ国の建国の父であり、軍の解体を宣言した張本人だ。武器を捨てることと引き換えに、ティシカニ国とアパス国から独立を認められた。この工管たちは、独立以前は軍人として国につかえていたが、軍の解体とともに職を失ったのだろう。しかし、祖父は彼らを見捨てず、工管としての技術を学ばせたのだ。そのためか、彼らのような70か80近い人たちは、祖父にこれ以上ないほどの忠誠心を抱いている。
「おじい様は、立派な人だったと、父から良く聞いているよ。」
と僕はうつむいて言う。
「そうですぞ。亡くなられたときは、本当に皆悲しみましたわい。」
「ああ…。」
祖父は一五年前、建国パレード中に死んだ。78歳だった。まだ元気だったのだが、馬に乗っているときに急に倒れこんで、そのまま目を覚まさなかったそうだ。
「トル様はあんとき、まだほんの幼子でしたなぁ。」
と3人が笑う。
「はは、祖父のことはまったく覚えてないんだ…。どんな顔だったかも、どんなひとだったか…。でも、勇敢で、皆をひっぱってゆく不思議な力があったそうだね。それに比べて、父上は…」
「トル様。確かにチュール様は統率力があり素晴らしいお方でした。しかし、バルドル国王様かて素晴らしいお方です。」
「父上は・・・」
僕は口を紡ぐ。父上は、確かに素晴らしい人だとは分かっている。けれど、いささか勇敢さが足りないようにも感じてしまうのだ。もちろん、そんなことは口がさえても言えないのだが。
「父上は、すこし、やさしすぎるかもしれない。」
と僕は言葉を選びながら、慎重に言う。父上のことは、彼らの方が昔から知っているし、僕は僕が生まれてから18年間の父上しか知らないからだ。
「バルドル様はお優しゅうお優しゅう。」
と言い、三人はまた声を上げて笑う。
「ああ・・・・」
と僕は苦笑いをする。
「トル様。お父上様には、確かに強い統率力は無いと思われがちです。」
「・・・」
「しかし、わしらは皆、お父上様のことをとてもお慕いしていますよ。それはもう、心の底から。」
三人は目を見合わせて、うんうんと深くうなづく。そして心の底からにじみ出てくるような笑顔になった。
「誰よりも争いを嫌い、民の安全を願ってくださっている・・・。わしらは、争いの時代を生きてきた身ですから、戦争の恐ろしさは身に染みてます。戦争は人を気付つけるだけで人るも良いことなんぞないんです。お父上様はそれをよくわかってらっしゃる。だから、わしらはこうしてひっそりと武器をつくり、他国にそれを届けていく役割だけでいいんですよ。」
「まったくですよ。国王様のことは皆心の底からお慕いしています。」
「そうじゃそうじゃ」
三人はわははと大きな笑い声をあげた。僕はうれしそうに笑う三人を見て、なにか心の中にもやもやとしたものが生まれるのを感じた。
「そうか。変なことを言って悪かったね。」
僕は笑って、それ以上何も言わずに部屋を出た。がんばってね、と一言だけ彼らに言い残して。
バタンと扉を閉めると、僕は静かな廊下を歩いた。そして、また深く、自分の心の中に複雑な感情がひっかかっているのを感じた。「死の商人」。その名は我々リドラ国民への憎悪を含んでいる。我々が作る剣は、正確に相手の心臓を貫く。それは我が国にあるすぐれた鉱石たちの持つ不思議な技と、工管たちの丁寧な職人技の両方が組み合わさって実現させる魔術だ。国民は、何も自分たちが作っている剣が世界のどこかで誰かの命を奪っていることを具体的には考えていない。そんなことなど考えず、本当に真剣に意思を磨き、剣を作っているのだ。それは別に悪いことでも何でもない。彼らは与えられた仕事に精一杯応えようとしているだけなのだから。それ故に、胸は苦しくなる。
だからこそ僕は何度も自分自身に問いかけるのだ。本当にこのままでいいのか、と。
長く暗い廊下を歩き、自分の部屋に戻る。扉を閉めると、僕は一人で部屋の東の壁にある本棚の前に立った。本棚には、祖父の代から引き継がれているあらゆる分野の本が所狭しと並べられている。僕はその中から、上から三番目の棚の一番左奥にある際立って分厚い本に手を伸ばす。背表紙には、何も書いていない。本棚から本を引き抜くと、それはチリのような埃をたてて僕の手にずしりと体重をかける。こういう時、紙も木からできているんだという事思い出させられる。ほこりを払って、重く分厚い表紙を開くと何の文字もないページが三枚ほど続く。僕はその髪をぺらぺらめくった。四枚目か五枚目にやっと文字が出てくる。
神よ
変える事の出来るものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ
神よ
変える事の出来ないものについて、それを受け入れるだけの冷静さを我らに与えたまえ
そして
変える事の出来るものと、変える事の出来ないものを識別する知恵を我らに与えたまえ
と、そこには書いてあった。僕はこの詩を見るたびに、なぜか心が落ち着くのだった。祖父が残した書物の中で、最も好きで最も嫌いだからだ。その本には、それ以降は何も書いてないまま白紙のページが最後まで続いている。とても不思議な本だ。
なぜ、人は神にすがるのだろう。
なぜ自分でそれらを身に付けようとは思わないのだろう。
この詩を見るたびに僕はそんなことを思う。僕はその本を棚に戻して、ベッドに寝転がる。そして、あの変わり者の祖父のことを考えるのだ。この国を作り、民のことを考え、そして誰よりも僕のお母さんを大切にしていた。しかし、今は彼はもうこの世にはいない。祖父は僕が幼い頃、建国10周年のパレード中に意識を失ってそのまま帰らぬ人となった。僕は生まれたばかりだったので祖父の顔も、パレードのこともほとんど覚えてないのだが、当時は大混乱だったそうだ。祖父の体に外傷はなく、どうやら祖父の中の何かがそうさせたのかもしれないというあいまいな解釈だった。そのようにして祖父は謎の死を遂げた。
僕は寝返りを打って、深い闇の中に手を伸ばした。そうして代わりに深く深く意識を手放していった。
*
「魔物が現れたんだ!」
翌日、朝から大騒ぎだった。アパス国に武器を届けてきたという使者が一人だけで血相を変えて帰ってきたのだ。彼は門番に「魔物だ。魔物が現れた。」と泣きつき、「残りのやつらは、皆魔物に食われた。」と言ったそうだ。僕は宮殿の者たちに聞いて、大慌てで急いでドナルに乗って宮殿を飛び出した。風を切って国の東にある唯一の門へ向かった。
門につくとすでに人だかりができていて、僕はその間を通り抜けた。
「トル様だ!」
とペレじいの声がした。
「皆、トル様がいらっしゃったぞ!道を開けんか」
ざわざわと人だかりが僕をよけていき、皆が悲しそうな顔をして僕の名前を呼んだ。僕はその間を通り抜けていった。
「ああ、トル様…。」
人だかりの中心地には、ペレじいが立っていて、彼はウマドリの手綱を持っている。そのウマドリはペレじいの横にしゃがみ込んでいるこの使者のものだろう。使者は神戸をもたげて、頭を両手で抱えている。ぶるぶると震えて、その足元は涙か何かで砂がぬれていた。僕は彼の傍に近づいて、ドナルから降りて、すぐそばにしゃがみ込んだ。そして、その使者の背中に左の手を置いてゆっくりと落ち着かせるようにと撫でた。
「どうしたんだい。」
そういうと、びくっとその使者の体が跳ねて、顔を上げた。まだ若い、僕と同じ年頃の少年だった。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、目はうつろだった。
「ハブーブ…」
と少年は目線をうろうろさせたまま答えた。
「え?」
ハブーブ?たしかに、今そう言っただろうか。
「ハブーブ・・・ハブーブ…」
「トル様さっきからこやつはその言葉をずっと言っておるのです。」
と隣でペレじいが言う。顔を上げてペレじいを見ると、彼も意味が分からないというような顔をしていた。
「ハブーブ…ハブーブ…みんな喰われた…ハブーブに…みんな吸い込まれていった…うわあああ…」
少年は頭を両手でガシガシと掻いて髪の毛を引き抜き始めた。
「よしなさい!」
とその手を捕らえて、動きを止める。
「だめですぜ、きっともう精神がやられちまってます。」
「・・・。彼に親はいないのか?」
すると、人ごみの中から少女の声がした。
「いないわ。」
と、はっきりとした声だった。僕はその声がした方向に振り返ると、すす汚れた服を着た10歳にも満たないほどの少女がそこに立っていた。彼の妹だろうか。
「親なんていないわ。お母さんはとうの昔に病気で死んじゃったの。」
「・・・そうなの?お父さんは?」
「お父さんは洞窟で死んじゃったわ。鉱石を取りに行ってたの。」
「鉱石?」
「そうよ。だって…」
少女が言葉をつづけようとしたとき、ひとりの男性が少女の口元を抑えた。
「すみませんトル様!うちのソフィアが出過ぎた真似を…」
とその男は苦笑いをした。少女はじっとして抵抗せず、その男のことをじろりとにrンでいた。
「かまわない。」
僕はその少女の近くによって、その男に手を放すように言った。その男はしぶしぶ手を放したが、その瞬間に人だかりの中に異様な空気が流れた。言葉には表せないけれど、とにかく『異様な』空気だった。僕は不思議に思いながらも、少女に問いかけた。
「ソフィアといったね。この人は君のお兄さんかな?」
「ええ。そうよ。」
「こら、お前トル様にそんな口の利き方を…」
「かまいません。大丈夫ですよ。」
なおも口をはさんでくる男ににこやかに笑いかけて制した。両親がいないという事はこの男は父親ではないのだろう。見たところ、悪い人ではなさそうだが。
「そんでいま、バニルおじさんのところにお世話になってるの。ね。おじさん。」
とソフィと呼ばれる少女は言う。
「そうか。わかった。ソフィア、お兄さんの言ってる言葉がわかるかい?」
「わかるわ。『ハブーブ』のことでしょ。」
「ああ。ハブーブとは何のことかな?教えておくれ。」
「…あなた王子様なのね。」
「そうだよ。」
「…じゃあ、あなたには教えたくないわ。」
少女は急に冷たい顔をして、ふいとそっぽを向いてしまう。僕はあっけに取られた。初めてそんな態度劣られたからだった。
「ソフィア!お前いい加減にしないか!」
彼女の隣で体の大きな叔父さんである男が大声を出す。
「だってバニルおじさん。この人のせいでお父さんは死んだようなものなのよ。」
「うるさいお前は静かにしていなさい。」
その場にいる誰もがはっと息をのんで、僕の顔色を窺ったのがわかった。僕は胸が苦しくなり、とたんに逃げ出したいほどの恥ずかしさに襲われた。怒りよりも、まず悲しみが僕を襲った。
僕のせいで人が死んだ?
そんなことがあるのだろうか。しかし、少女の様子や、人々の雰囲気からしてどうやらあながち嘘ではないような気がした。
「ソフィア、よく教えておくれ。」
「ハブーブのことなら教えないわ。」
「ハブーブじゃないさ。君のお父さんのことを教えてはくれないか。」
そういうと、ソフィアは言うかしげな顔をしてから僕をじっと見つめた。
「なんてことないわ。お父さんはね、抗内夫だったの。」
抗内夫、というのは鉱石を採掘する男たちのことだった。鉱石を加工するものもいれば、鉱石を洞窟に取りに行く者もいるのだ。手先の器用なものは主に剣を作る技術者稲荷、手先の不器用なものは抗内夫として体を真っ黒にしてせまい洞窟の中で汗水を流すのだ。しかし、抗内夫だって立派な技術者だ。
「そうか。このあたりは東の洞窟が近いからね。君のお父さんは抗内夫だったんだね。でも、それのなにが僕のせいだというんだい?抗内夫は、加工者よりも何よりも最も大切で最も素晴らしい仕事じゃないか。」
「あなた、何も知らないのね。」
と少女は怒った顔をした。
「いいわ。バニル叔父さんも、みんなも言わないからあたしが言ってあげる。」
周りの大人たちが戸惑ったように下を向く。いったい、どういうことなのだろうか。僕は生唾を飲み込んだ。
「採掘夫っていうのはね、鍛冶師にばかにされてるのよ。体中泥だらけにして、熱い洞窟の中でつるはしを持ってずっとずっと掘り続けるのよ。鍛冶師は、運ばれてきた功績を汚れのないきれいな手でつかんで、椅子に座ってずっと剣をつくってるだけ。それで、自分たちの方が炭鉱夫よりも優れていると思ってるの。お父さんみたいな採掘夫はね、体にたくさんの毒を吸い込んで、死ぬの。もしくは採掘中に岩が崩れてきてそのまま下敷きになって死んでしまうの。」
あなたそんなことも知らないの、とでもいう顔で少女は僕の目を見つめた。僕は、ペレじいの顔を見た。ペレじいは目線をそらして、苦虫をかみつぶしたかのような表情を見せる。僕は知らなかったのだ、そんなこと、全く知らなかったのだ。少女は泣きもせず当たり前のことをただ言っているだけ、というような顔をした。そんなことも知らないの、とまるで子供に教えるように。
「これは、」
と僕は口を開ける。少女のおじさんも、ペレじいも、ほかの大人たちも子供たちもみんな顔を上げた。僕のほうを見る。僕だけが取り残されたみたいに、その中心で状況を把握できていない。
「・・・本当のことなんだね?」
僕は言う。みんなは、何も答えなかった。しかし、その沈黙が、答えだった。
「・・・とにかく、今は彼のことを一番に考えよう。」
僕は悲しみを振り払うように目線を彼に戻した。少女の兄は、うずくまったまま相変わらず「ハブーブ」と繰り返しつぶやいて身を震わせている。
「お兄さんの名前はなんだい?」
少女に向かって僕は話しかける。少女はそばに近寄ってきて彼の兄を悲しそうな目で見つめた。
「・・シャティエル。でもみんなエルって呼ぶわ。」
少女は小さな声でつぶやく。僕は「シャティエル」と繰り返すように言って、少女に感謝の言葉を述べた。少女はにこりともせず、僕を見つめている。
シャティエルとソフィア。兄弟。
「ペレじい。トリウマの綱を貸しておくれ。」
「へい。」
ペレじいが綱を僕に渡す。トリウマはおとなしく僕のほうに寄ってきて、エルの頭をくちばしでつついている。
「エル、おいで。」
エルは動かずにじっとしていた。ひたすら震えたままあの名前をつぶやいている。「エル兄さん」とソフィアがつぶやく。しかし、エルは立ち上がることができない。仕方がないので、その場にいた人々に力を借りて、なんとかエルをトリウマの背中に乗せることができた。
「君の主人を宮殿まで運んでくれ。」
トリウマのそういうと、トリウマはわかったと返事をするように、クゥと一声泣いた。
「よし、いい子だね。ドナルおいで。」
僕はドナルにまたがると、僕を黙って見つめている大衆に声をかけた。
「みんな、僕に秘密にしていることがあるんだね。」
誰も声を上げない。
「僕はエルを宮殿に連れてゆく。そこで彼を治療するんだ。ソフィア、君もおいで。」
すると、ソフィアは黙ったまま近づいてきた。
「トル様、ソフィアがお役に立つとは思いません。その子はまだ八つなのです!」
と彼女の叔父さんが声を上げる。
「彼女は僕にとって大切な人物です。連れてゆきます。必ずあなたのもとにお返ししますから。」
と僕は言った。
「・・・」
ソフィアは僕と一緒にドナルに乗った。
「行こう、ドナル。宮殿へ急いでくれ。」
*
宮殿につくと、僕はエルをあいている部屋に連れていき、彼をベッドに寝かせた。エルは相変わらず何も言わず、ハブーブとしかつぶやかない。ソフィアは僕の横で、エルのことを見つめていた。部屋には僕ら以外誰もいなかった。
「ソフィア、お願いだ。ハブーブのことを教えてほしい。君のお兄さんのためにも、だ。」
ソフィアは身動き一つしない。
「…ハブーブはね、砂漠に現れる悪魔のことなの。」
と大人の女性のように、低く、落ち着いた声で言った。
「悪魔?」
僕は聞き返す。
「そうよ。あなたは知らないだろうけど、使者たちの間では有名なのよ。」
「いや…、僕も砂漠へはよく行くんだ。西の洞窟だって行く。でも、ハブーブなんてものは聞いたことがない。」
「西のほうには現れないの。ガリラヤ湖のほうへ向かう途中に現れるのよ。」
ガリラヤ湖?と、僕は思った。ガリラヤ湖とは、南のほとりにある砂漠に現れる湖のことだ。
「なぜガリラヤ湖のほうへ行くんだい?ティシカニ国へもアパス国へも、そこは通らないはずだ。」
少女は言いにくそうに黙ったまま、ずっとエルの左手を撫でていた。「ソフィア」と僕はもう一度言う。
「…私とエル兄さんをずっとここにおいてくれる?」
ソフィアはつぶやく。
「なぜだい。君には帰る家があるだろう。」
「本当の家じゃないの。お父さんもお母さんも死んだといったでしょ。そのあと、お父さんのお兄さん、つまりバニル叔父さんの家に引き取られた。もし、これ以上あなたの質問に答えるなら、私もエル兄さんもきっと殺されてしまうわ。」
僕は絶句した。ソフィアの言っている言葉に驚いたからではない。『彼女』の話しぶりが、まるで大人の女性のようだったからだ。ソフィアは本当に8歳なのだろうか?僕よりもうんと年上のような気もする。しかしそのあどけない容姿はたしかに幼い子供だった。僕は不思議な感覚に襲われた。夢を見ているようだった。
「・・・・君もお兄さんも、ずっとここにいていいよ。だから、続きを話してくれないか。」
気が付いたら僕はそのように言っていた。
ソフィアは振り返って、僕の目を見た。
「ありがとう。そうしてくれると助かるわ。」
とほほ笑んだ。僕は、もう何が何だかわからなかった。これが本当に八歳の子供なわけがない。でも、見た目は完全に八歳なのだ。なにかがおかしい。大人びているとか、そういうことでもなかった。なにかがおかしいだけなのだ。
「もうずっと前から、国令外での取引は行われているの。」
ソフィアが話し始める。僕は彼女の大きな瞳に吸い込まれそうになった。
「さっきも言ったけど、採掘夫と鍛冶師っていうのははっきりと序列がある。鍛冶師が上で採掘夫が下。採掘夫は鍛冶師よりと違って、暗く深い洞窟へ行って石をひたすら掘り続けている。しかもお金だって鍛冶師よりもうんと少ない。けれど、採掘夫の親からは採掘夫の子供しか出せない。鍛冶師になるための技術がないからよ。こういうのを世襲制っていうのかしらね。採掘夫は何十年も下に見られていて、貧しかったわ。それで、考えたの。あるときから、採掘夫は国王の命令だけではなくて勝手にアパス国との取引を始めたの。国を通さないからその分多くのお金がもらえたからね。ガルム総統がかかわっているのか、それともアパス国の兵士たちが独自に取引を持ち掛けてきたのかはわからない。でもそうした裏の取引が行われるようになった。採掘夫はアパス国から求められた石を直接加工していない状態で届けるの。それがどうやらかなり高く売れる。その石は、私たちの国にはない技術でもって「あるもの」に加工される。それが何なのかはわからない。でも、その「あるもの」をつくるにはどうしても私たちの国の石が必要なんだわ。なんの石かわかる?飛石よ。飛石は、私たちの国でしか取れない貴重な石。それを剣に加工するよりも、「あるもの」に加工したほうがうんと力を発揮するそうよ。それで、アパス国はどこからか「その技術」を奪ったのね。採掘夫は正式な使者を介さずに飛石を自らアパス国へ運ぶの。だから兄さんも使者となって飛石を届けていたの。あそこにいた人たちはみんなそうよ。みんな飛石の採掘夫であり、使者でもあるの。だから正規の使者たちが通る道は通れない。ガリラヤ湖のほうを回ってアパス国へ行くの。
その途中の砂漠の中で、前からハブーブは目撃されてた。砂漠の中で突然現れるの、なんていうか…こう、『襲ってくる』ように。生き物じゃない。でも物体でもない。砂漠の砂たちがまるで『生きている』ように使者たちを飲み込もうと追いかけてくるの。今までは『見た』だけで誰も死んだことはなかった。そこまで大きなものじゃなかったのかもしれない。注意していればよかったの。でも、今回エル兄さんが見たのは今までのとは違ったみたい。何人かハブーブに『飲み込まれて』しまった。そしてエル兄さんしか返ってこなかった。これがハブーブについてよ。これでこの話はおしまい。でも、この話をあの場でしようとしたなら、私はきっと採掘夫やその家族たちに殺されていた。まあ、もう話してしまったんだけどね。」
ソフィアはおおきくため息をつくと、肩を下げた。そして、僕の目をじっと見つめていた。僕は不思議な気持ちになった。ソフィアが本当に大人の女性になってしまっていたからだろうか。いや、それもそうだが・・・。このハブーブを取り巻く話がショッキングだったからかもしれない。とにかく、今は目の前の不思議な少女のことよりも、その内容について思考を働かせなければならない。
「僕が思っているより、この国は大変なことになっている。」
震える唇でそういった。
「ええ、そうね。あなたが思っているより、ずっと。」
「『あるもの』とは、何だろう。」
「『あるもの』は『あるもの』よ。私にわかるのはそれだけ。」
ソフィアは、ごめんなさいねとでも言いたげな顔で僕を見つめた。僕はそれ以上何も言えなかった。ふと、気が付くとエルはもうハブーブとつぶやいていなかった。ソフィアの手を握り締めて、すやすやと眠っていた。いつの間に寝てしまったんだろう?なぜあんなにさっきまで彼のつぶやきが耳についていたのに、止まったことに気が付かなかったんだろう?
「約束どおりあたしとエル兄さんをここにかくまってね。」
とソフィアは笑った。その顔はまた八歳の少女の顔にもどっていた。声のトーンまでもが幼くなっている気がする。さっきまでの低めの声の感じとはずいぶん違っていた。
「とにかくそのことだけお願いね。」
「ああ、もちろん。」
と、僕は答えた。
*
その夜、僕は夢を見た。また「あの夢」だった。「あの夢」は定期的に僕に訪れる。
夢の中で僕は自分のベッドの上で目を覚ます。しかし僕はこれが夢だということが分かっている。あたりは真っ暗だ。そうっと部屋からぬけだし、誰にも見つからないように廊下をぺたりぺたりとはだしで歩いてゆく。靴の音がすると、誰かに気づかれてしまうと思っているからだ。夢の中なのに、なぜそんな意識が働くのか不思議だ。でも本当に、誰かに気づかれてはならないという意識が働いてしまうのだから仕方ない。
僕は一五分ほどあるき、廊下の一番奥にたどりつくと、父の書物が所狭しと置いてある狭い倉庫の中に入った。そんな部屋は現実にはないのだが、夢の中でだけその部屋があるのだ。床に散らばっているたくさんの本をかき分けて、ほこりまみれの中部屋の隅にある本棚の前にたどり着く。力を入れて、ずりずりとその本棚を押すと、後ろに本当に小さな扉がある。かがんでその中に入ると、中は割と広くなっていて立ち上がることが出来る。すぐ目の前には扉があった。そこにある重い鉄でできた扉を両手で押した。ギィィという鈍い音がして、扉を開けるとその奥にはさらに重い扉があった。鎖をぐるぐるに巻かれた錠前に手を伸ばし、慣れた手つきでそれをほどいてゆく。ジャラジャラと音がして鎖が外れた。左のポケットに手を入れると、なぜかそこには必ず入さび付いた鍵のひんやりとした感触がする。いつ入れたのだろう。誰かに入れられたのだろうか。でも、いつも鍵はそこにはいっているのだ。必ず、右ではなく左のポケットに。その鍵を錠前の穴に差し込む。カチャンと音がして錠前がその口を開ける。そっと重い扉を押すと、まるで石が床を這うような耳障りの悪い音がした。目の前に現れた暗闇に続く下り階段に足を踏み入れ、僕は壁に片手をつけながら慎重に降りて行った。ペタリペタリと足の裏が地面を這う音がする。そのまま永遠にも感じられるほど長い階段を下りてゆくと、今までで一番重い扉が現れる。鍵はついていなかった。きっと前の晩に閉めなかったのだろう。ここは鍵が開いていることが多いのだ。3回に一度くらい、ここには鍵がないという事を僕は体験している。なにはともあれ、僕は、全身の力をかけてその重たい扉を押すと、すこしずつ扉が開いていった。僕の心臓がドクドクと音を立てる。扉の奥、暗闇の中に人影が見える。背中で扉が閉まるズシンという音がした。
「おや、お客さんかね。」
暗闇の中、目を凝らすと、冷たい石の壁に囲まれた部屋の中央に、似つかわしくないほどの高貴なベッドが置かれていて、そこには真っ白な口ひげを蓄え、純白の髪の毛を足元まで長く伸ばしている老人がいた。老人はきちんと清潔な真っ白の布を体に巻いていて、ベッドの上に座っている。両頬はげっそりと痩せこけていて、布からかすかに見える足首も貧しい女性の腕のように細い。しかし、目は決して暗闇を含んでおらず、爛々と強い輝きを放っている。
老人は不適に笑うと、ふんと鼻をならした。
「お前、名を何と申す?」
と老人は言う。
「トル・ラグナレクといいます。」
僕はそう答えて、老人の目の前の床にぺたりと腰を下ろした。彼より目線が上のままで話して、以前怒られたことがあるからだ。
「ラグナレクだと?」
彼は毎回、そういっていぶかしげに眉を顰めるのだ。
「ええ。トル・ラグナレクといいます。」
奥はもう一度、ゆっくりとそのように言う。老人はまじまじと僕の可をを見て、自分の真っ白な口ひげを右手で触る。これもいつものことだ。
「ふむ・・・どこかで聞いたことのある名だな…。」
と老人ははっきりとした声で言う。
「そうですか。」
と僕は言う。老人はしばらく考えこんだ後、「まあ、よい。」と頷いた。これも、いつものことだ。何度も来ているから、聞いたことがある気がするのだ。しかし、老人は昨日までのことは何も覚えていない。
「坊主よく聞け、わしはな、未来、あるいは過去から来たのだぞ。」
と老人は口のはしを奇妙に引き上げながら言った。
「未来、あるいは過去ですか?」
まるで初めて聞いたかのように、驚いた顔をして見せる。
「そうじゃ、わしはな、フェニックスという鳥に連れられてこの世界に降ろされたのだ。」
「では、あなたが住んでいた場所とはどのような場所だったのですか?」
この質問をすると、彼はいつも少年のようにうれしそうな顔をする。僕はいつも彼にこの質問をするのが大好きだった。この質問をすると、彼は僕を連れて今の時代から飛び立ち、空のずっと向こうに連れて行ってくれる気がするからだ。僕は目を閉じる。そして本当に懐かしそうに語る彼の声に耳を傾けるのだ。
「いいか。坊主、もう一度言う。わしはな、過去でもあり未来でもある場所からやってきたのだ。そこでは人々は子汚い服を着て、汗を流して働く事はしないのだよ。皆、黒い仕立ての良い服を着て、獣たちの皮膚でつくられた光り輝く靴を足に身に付けている。手には武器ではなく、これまた獣の皮膚で作られた豪華な袋をぶらさげていてな、その中にはあらゆることができるモノが入っているのだ。奴らは「それ」を使って遠く離れた場所の人間とも会話をすることができ、あるいは顔を見ることが出来る。「それ」はほかにもあらゆるものに役経つ。もちろん「それ」で生きていくこともできる。とにかく「それ」は奴らの生活に非常に大切なのさ。街には草木はなく、代わりに真っ黒の堅い石が敷き詰められている。だが、その上を人々は自分の足では歩かないのだよ。どうやって移動すると思う?そうさ、黒い煙を吐き出す不思議なものに乗って体を運ばせるのさ。誰も馬になんて乗っておらん。馬なんてただ疲れるし遅いだけだからな。つまりなそこでは生き物は生き物でしかないのだよ。体を動かす事も、動かさせることもない。代わりに機械たちが体を動かすのさ。機械は地球だけにとどまらぬ。機械たちは地球から飛び立ち、ほかの惑星にも人間を移動させることも出来る。
それほどまでに高度な文明なのだ。しかし、そこまで高度な文明でも、人は争うことをやめられなかった。戦争は常に存在していたんだよ。そしてその戦争さえも高度化していたんじゃ。お前たちは人を殺すときには自らの手を汚さねばならんだろう。そこでは違うのだ。皆、自らの手を汚すことなく大量に人を殺すことが出来るのじゃよ。機械のおかげでな。その場にいなくても、まるでゲームのように人を打ち落とすことだってできる。空の上からその土地を火の海にすることだってできる。なんだってできる。
だがな、わしはここにやってきたのだ。そんなにも便利な世界を置いてわしがここへやってきたかわかるかい坊主。
・・・世界が滅んだからさ。
あれほどまでに文明が進んできたのに、世界は滅んだのだ。それをわしらは止められなかったんじゃ。世界の終りの日はやってくる。人間はあらゆる知識でもってそれを阻止しようと試みた。しかし、誰も止められなかった。世界の終りの日が来て、わしはあらゆる命ある者たちと共に世界から消滅したのだ。坊主。いいか。間違えちゃあ、いけないよ。世界の終りの日が来ても、世界は決して消滅しない。消滅したのはわしらの方じゃ。
長い長い浄化の時が来てわしは目を覚ました。すると、こんなところにいたのだ。わしは「あの世界」のことと、わしの名前しか覚えてなかった。それ以外の記憶はすっぽりと失ってしまったんじゃ。そのせいで、わしは不審者扱いじゃよ。こちらの世界では、わしの話に耳を傾かせるものはおらん。わしはいくら本当のことを言っても、頭のおかしな老人扱いなのじゃ。だからといって、こんな牢屋のようなところに入れるのもどうかとおもうがな。ふぉふぉふぉ。おそろしいもんじゃのお。」
老人は話し終わると、僕の目を見つめた。
「あなたは、なぜ世界の終りがやってきたと思いますか。」
と僕は問う。老人は、悲しげに微笑んでいつもとおなじように
「お前はどう思うかね。」
老人は言いかえして来る。
ここだ。
と僕は思う。いつも個々の答えだけを知りたくて、僕は何回もここへきてしまうのだ。この答えが何なのかわからないから、何度も聞いてしまうのだ。僕はしばらく考えた後に、慎重に口を開く。
「進化の仕方を間違えたからでしょうか。」
すると、老人は、何も言わず首を横に振る。
「違う。そうではない。」
・・・ああ、またちがった。
「では、なぜですか?」
次に帰ってくる言葉がわかっていてもそう聞く事にしている。
「坊主、自分で考えなさい。」と老人はいい、ベッドに体を横たわらせた。
「・・・・」
「話は終わりじゃ。また来なさい。その時、答えを教えてあげよう。」
一言だけつぶやいて老人は目を閉じた。こうなると、もう彼は口を開かないのがわかっている。僕は黙って牢屋のような苦しみに満ちたその部屋を出た。
また来なさい。と頭の中で老人の声がした。
階段を上がって地上に出ると、来たときのように鎖を錠前に巻き付けて、鍵を閉める。僕はきちんと、鍵を右のポケットに入れておく。左ではなくて右だ。たしかに右に入れた。そうっと倉庫に戻ると、元のように棚で扉を隠して、床に散らばる本の間を縫って倉庫から出た。廊下にゆっくりと出ると、あたりはしんとしていてまだ夜明けの途中だった。廊下には誰もいない。僕はそうっと廊下に出て、また部屋へと戻る道を歩いていく。ひたひたと自分の皮膚が地面を這う足音を聞きながら、僕は部屋へと続く道をひっそりと歩く。
そして、彼のことを思い出す。彼は、もうずっとあの牢屋のような部屋の中に閉じ込められている。彼が誰なのか僕は知らない。彼は彼であり、そして同時に僕でもあるような気がする。なぜ父さんの部屋の奥に彼がいるのかはわからない。しかし、彼が何か重要な人物であることは確かだ。彼の部屋には高貴なベッドが置いてあり、彼は食べ物に飢えている様子もない。彼は自分自身で外に出られるのかもしれない。あるいはそうではないのかもしれない。しかし、それはわからない。彼はいったい誰なんだろうか。僕は部屋へ戻ってベッドに入る。そして目をつぶった。そこで夢は終わり、僕は現実の世界で目覚める。窓の外では、もう日が昇っていて僕の顔を熱く照らしている。そっと右手をポケットの中に入れようとする。そこで僕は「あぁ」といつも気が付くのだ。
そういえば、僕の寝間着にはポケットがなかったんだ、と。
第二章 アパス国【ガルム・アパス】
五〇年前、すべての貧しき者たちを助けたいと思ったあの気持ちは、今なお私の心の中にある。
コンコンコンと扉をノックする音が聞こえた。
「はいれ。」
声をかけると、扉がガチャリと開いて、側近のアランが入ってきた。
「失礼いたします。」
アランは顔立ちがよく、美しい少年だった。私の側近の中でも最も私に近く、頭が良い。
「なんだね」
「ガルム総統、甲南教祖様がお呼びです。」
「わかった。」
返事をしてから、私は椅子から立ち上がり、部屋を出た。アランを置いて、一人で長い廊下を歩く。外からは軍事演習の威勢のいい声が聞こえる。あとで見に行くとしよう。廊下を進んでいくと突き当りにある部屋へ入った。
教祖は、地下室に閉じこもっている。私が知る限り、もう五〇年は日の光を浴びていない。しかし、教祖はもっとはるかに昔から生きているともいわれている。教祖はそのことについては何も言わないが、きっとそうなのだろう。
部屋の中へ入ると、古びた本棚が部屋を囲むように並んでいるのが目に付く。すべて甲南教の教えを書き綴った書物だ。私が五〇年も前に熱心に読んでいたものだ。もうすべて古く黄ばんでいて、ほこりをかぶっている。本棚が置かれていない壁が一か所だけあり、そこには扉が付いている。特に隠されているわけでもなく、自然とそこに扉はある。鍵はついておらず、私はその扉を開ける。ぎぃと古びた音がして地下室へ向かう下りの階段が現れる。私は慣れた足取りで階段を下りてゆく。トントントン、と階段を下りる自分の足音だけが耳の中で響く。
教祖は、たしかに素晴らしい人物だった。しかし、今ではもうわしの考えとは意見を反している。時代の変化に追いつけない老いぼれと化してしまったのだ。あんなに素晴らしい考えの持ち主だったのに、むしろそれが彼の思考を凝り固まらせてしまっている。私は重い足取りで、地下室へと降りて行った。地下室の扉が現れ、私はその扉を開けた。
「来ましたね。」
いつものように教祖は一人でいた。部屋の中はすべて石でできていて、ひんやりとしている。外の音は全く聞こえないし、日の光も全く入ってこない。暗闇なのに、教祖の姿が見えるのは、ここへ来る途中の長い階段の間に目が慣れたからだろう。教祖は石の床に座禅をして座っている。目は開けず、裸にぼろぼろの布を巻いているだけだ。教祖は洋服というものを着ない。頭は髪の毛はなく、嫌なにおいもしない。私は教祖の前の地面に胡坐をかいて座った。
「お呼びですか。」
私は言う。
「ガルム、まだ続けているのですか。」
教祖は口をほとんど動かさず、そういった。
「拳銃のことを言っているのですな。」
「そうですよ。」
ふん、と私は鼻を鳴らした。
「教祖様、拳銃はとても良いものです。遠く離れていても敵を攻撃できるのです。」
「なりません。攻撃とは常に自らも痛みを伴うものでなければいけないのです。」
「それでは、アパス国民も死んでしまいます。私は、国民をできれば一人も死なせたくないのです。だからこそ拳銃が必要なのですぞ。」
「ガルム、争うということは多少の被害なしには為せませんよ。その覚悟をもっていなければ争ってはいけません。」
「しかし、ティシカニ国は貧しい者を見捨てるのです!私は、貧しき者も富む者も、共に生きて行ける社会をつくっていきたいのです。だからこうして、争わねばならんのです!!」
「それは傲慢です。」
教祖は言う。
「傲慢ではありません。」
「いいえ、傲慢です。確かに、甲北教は貧しき者をないがしろにし、豊かな者だけで生き延びようという思想です。だから私はこうして貧しき者も共に生きていく甲南教を作ったのです。しかし、教義を理由に甲北教の信者を殺してしまってはなりません。彼らは彼らであり、私たちは私たちなのです。私たちは常に正しく、そして同時に彼らも常に正しい。」
「それでは、アパス国民は皆殺されてしまいます。甲北教だって、私たちアパス国を改心させようと攻撃を企んでいるのですよ。武器を持たねば、私たちは殺されてしまいます。だからこそ、拳銃が必要なのです。なぜわからないのですか?あなたともいうお方が、なぜ争いを避けては通れないことがわからないのですか?」
「ガルム、争いは避けて通ることはできますよ。皆が傲慢を捨て、相手を受け入れる気持ちを持てばおのずと争いは避けられるのです。」
教祖は相変わらずピクリともうごかないままそういった。私はもう、教祖のことをあきれてしまっているのかもしれな。なぜ変わっていくことができないのだろう。なぜ、時代の流れを受け入れることができないのだろう。いつまでも同じことを言い続けているだけでは人類は進化できない。後退すらしない。待っているのは永遠の連続だけだ。
「私は、甲北教徒を殺したいわけではない。」
私は、ぽつりと話し始める。
「もちろん、国民に人殺しをさせたいわけでもありません。ただ安全で自由なアパス国を作っていきたいだけなのです。そのために拳銃が必要なのです。拳銃はしばしば悪党呼ばわりされます。しかし、それが社会で果たす役割は悪ではありません。国家というものは、自由を放棄することによって安全を確保することはできません。この真実は我がアパス国の成立よりも、ましてや甲南教の成立よりも古い歴史を持っています。小さな一時的な自由を手に入れるために、基本的な自由を放棄する人々は自由も安全も手にしない。武器を持つということは、個人の権利であり自由の保障のようなものだ。よって、武器は我々だけだはなく子供たち、そして今後永遠に続く世代のために大切なのです。拳銃がある限り、悪が我々アパス国を征服することはできない。いかなる形の外部の正当性を偽ったものも、アパス国の土地に足を下すことはできないのです!」
私は夢中になって教祖に訴え続けた。息を切らして、はぁはぁと鼓動がする。私ももう年だということだろうか。知らない間に老いたものだ。
教祖は目を閉じてじっとしたまま私の言葉を聞いていた。表情を変えることはなく、眉一つ動かさない。
「ガルム。」
そして、口を開かずに話し始めた。
「お前が国民のことを大切に思っていることは、この私が誰よりも知っているよ。何もお前を悪だと言って非難しているわけではない。しかし、悪が常に人の命を奪うのではない。善こそが人の命を奪うのだ。」
善が人の命を奪うなど、そんなことあるものかと私は思う。
「教祖様。拳銃はあなたのためでもあるのですよ。すべての人々を平等に働かせ、平等に豊かにする。これこそがあなたの各のお言葉でしょう。私たちはこの言葉を胸に、甲南教を学んでまいりました。世界を一つにまとめるには、異教徒たちを統率し、あなた様の思想こそが正しいと教えてあげねばなりません。そのために、拳銃が時として必要になるのです。世界中の者が、皆甲南教を信仰するようになれば世界は平和に包まれます。」
教祖は姿勢を正したまま、じっと変わらず私の話を聞いていた。
「そのやり方で、失敗した者を私は知っています。幾度となく。」
「私は失敗などしません。」
「人は皆、自分だけは失敗しないと思うものなのですよ。」
私ははらわたが煮えくり返りそうだった。もはや自分には教祖への信仰心が薄れていることをはっきりと感じたのだ。教祖は、悟ったようなふりをして、結局は何も変えずに、自らの信仰を保持していたいのだろう。正しいことを説くのは簡単だ。言えばいい。しかし、正しいことをするのは難しい。自分が率先して動き、行動しなくてはならぬからだ。教祖は、なんだかんだと言っても結局はここにこうして座っているだけなのだ。そんな奴に何も変えられぬではないか。
「あなたはそこで座って、ただひたすらに正しいことを説けばよいではありませんか。私は、わが国民のためにこの命を失うことさえ怖くない。私は建国者として、アパス国民を守る義務がありますから。」
それだけ言うと、私は教祖の言葉を待たずに地下室から出た。ズドンと重い鉄の扉を閉めて、階段を駆け上がってゆく。身体は重かった。わたしももう若くは無いのだ。しかし、教祖は私が死んでも生き続けるだろう。教祖は何百年も生きていると聞く。奴はあの老いた姿のまま、地下室に閉じこもり生き続けている。それはもはや生きている意味などない。生きるということは、ただ息をしていればいいということではない。誰かのために物事を考え、それを行動に移し、時代を変えてゆこうとする態度こそが生きると言うことだ。私は、何と言われようとわが国民を守る義務がある。そのためにはどんなことだってしてやるさ。
息を荒げながら階段を駆け上がりもとの倉庫にたどり着く。本棚の間を通り抜けて、廊下を出ると、兵隊たちの威勢の良い声が耳の中に入ってきた。
ああ、やっと現実にもどってこれたのだ。
と私は思う。先ほどの暗い地下室にいると、我を失ってしまうのだ。教祖の力なのだろうか、自分のしてきたことを間違いであるかのような気分にさせられるのだ。しかし、地上に戻ってくると、私は私が間違っていないことを感じてほっとする。廊下にある吹き抜けから、外を見ると軍事演習の姿が見える。兵隊たちは一糸乱れぬ姿で皆訓練をしている。兵士はかわいいものだ。私へ忠誠を誓い、国民のために命を懸けている。すばらしい人物たちである。
「五〇年か…、長いようで何も変わらないものだ・・・。」
兵士とは違い、民衆はどうしてあんなに阿呆ばかりなのだろう。私は建国以来、民を平等に働かせ、きちんと公平にお金を与え、平等の暮らしを約束していた。能力ある者も、能力のないものも、皆が等しく幸せになれることを願っていた。それは今でも変わらない。しかし、実際には、同一賃金であるがゆえに働くものと怠ける物が生まれてしまい、平等な幸福の実現など到底不可能だった。政治だってそうだ。私は国民が平等に政治に参加できるように仕向けたが、皆知恵が足りなすぎて到底判断などできなかった。政党などをいくつかつくっていたこともあったが、選挙をしてもどの政党が自らの意見を表してくれているのかと言う判断さえできなかった。私が思っていた以上に国民は阿呆だったのだ。
それ以来、私は国民に求めるのを辞めて、代わりに兵士たちを重宝するようになった。政党などと言う無駄なものは排除し、私一人が総統としてこの国を正しい方向へ引っ張ってゆくことにしたのだ。国民に民主的な判断ができぬのなら、私が軍隊を使って民主的判断を植え付けなければならないと気づいたのだ。だから私は、アパス国民を正しい道へ進ませるためにも「力」を有していなければならない。私の正しさを皆に理解させるためには、今は勢力を拡大するしかないのだ。仕方のないことだろう。
だから拳銃は必要なのだ。アパス国民のためにも、そして愚かな考えを捨てきれぬティシカニ国民のためにも。彼らを目覚めさせ、助けてあげなくてはならんのだ。
すべては、皆の幸福のためなのだ。全てがきちんと完了されれば、皆私に感謝するだろう。だから私は、決して間違ったりなどしない。決して。
廊下から外へと降りられる階段を下り、軍事演習中の兵士たちのもとへ向かう。頬をかすかに風が横切る。空は青く澄んでいて、雲はひとつもない。
「やあ、調子はどうかね?」
近づいていき、演習を見て指示を出している部隊長に声をかけた。背は小さいがガタイのよい男で、年は私より二〇ほど若い。彼は五〇年前のティシカニ国との戦争を勝ち抜いた男だった。彼の戦友はほとんど死んでしまっている。彼は私に忠誠をつくし、いまは隊の中でも最も年功者であり、こうして若い軍隊の指導をしている。
「はっ!」
彼は瞬時に敬礼をした。
「きわめて順調であります!」
威勢の良い声を出す。
「それは良かった。・・・そういえば、先日辺境の実験でけがをした兵士がいたと聞いたがどこの隊だね?名を何ともうす?」
「辺境の実験ですか。ええと、C 班のレトニフであります。確か足を負傷したため今は治療中です。」
「わかった。ありがとう。C班のレトニフだね。」
「はい。」
「どれ、様子でも見てくるよ。あとね、君。皆を良くほめておやりなさい。上から見ていたが、非常にすばらしい演習であったぞ。」
「はっ!了解いたしました!」
「うむ。」
部隊長の肩をポンとたたくと、私は演習中の若い軍隊の声を背に聞きながら、建物の中に戻っていった。治療室のある軍事棟にむかう。
「失礼するよ。」
看護婦の女性に声をかけて中に入ると、むっとした鉄のようなにおいがした。あらゆる血の香りが混じっているのだ。包帯を体に巻き付けた兵士たちが、所狭しとベッドに横たわっている。その中には、腕が無いもの、足がないもの、頭をやられたもの、あらゆるけが人がいた。レトニフは、手前から三つ目のベッドに横たわっていた。左足に包帯を巻いている。
「レトニフ」
私が声をかけると、彼は閉じていた瞼を開けた。ゆっくりと瞬きをして、天井をまっすぐ見つめていたその眼球は、私の方にくるりと向きを変えた。彼の茶色の瞳が私を見つめた。
「ガルム総統…!」
彼は私がいることに気が付くと、カッと目を見開き驚いたように体を起き上がらせようとする。だが、低いうめき声とともにその体は力が抜けたようにベッドに沈んだ。
「起き上がらなくてよい。そのままでいなさい。」
諭すようにそういうと、レトニフは眉をひそめて「申し訳ありません」と一言つぶやいた。
「こんな姿で・・・」
レトニフの左足には、太ももの付け根の方から足首まで包帯が巻かれていた。彼は二度と自力で立ち上がることは出来ない。
「実験中に、けがなどしてしまうなんて…すみません。」
「謝るな。あれは事故だったそうじゃないか。」
「しかし、兵士なる者は総統に導かれ、命を落とすのならば国のためというおきてを破ってしまいました。こんな姿になるのならば、せめて戦争でなりたかったです。」
彼はますます申し訳なさそうな顔をした。私は胸が痛かった。わが兵士に、こんなことをわせてしまうなんて、とても悲しかったのだ。
「総統、私はもう使い物になりません。こんな姿になって、国に迷惑をかけているなんて恥です。」
彼は目に涙をためながらそういった。
「そんなことを言うんじゃない。生きているだけで良かったではないか。」
「いいえ、ガルム総統。私を殺してください。こうして二度と一人で歩けずにベッドの上で生きて行くぐらいなら死んでしまった方が良いです…」
レトニフの声は、しんとした部屋の中に小さく響いた。そして、「殺してください」と何度も私に懇願した。
「私のようなものに、国民のお金を使って治療する必要はありません。わかるんです。私は、こうしてこのままここに横たわって死んでいくしかないのです。ガルム総統のお役には立てないでしょう。私はもう、くやしくて悔しくてたまらないのです。国のお力にもなれず、かえって動けなくなってまでこうして医学の力によって生き延びさせてもらっている・・・。こんな情けないことはありません。」
「役に立つどうこうの話ではない。プライドで命を捨ててはならん。ただ私は、私の兵士を見捨てはしない。」
そうだ。私は、決して私の国民を見捨てたりはしない。特に兵士は、だ。私はレトニフを見つめ返した。しかし、次の瞬間、
「見捨ててくださいよ!」
とレトニフは絶叫した。涙をぽろぽろとこぼしながら、叫んだ。彼の声が治療室に響き渡った。再び、しんとした無音に包まれる。痛いほどの無音だ。私は黙ったまま、うなだれるレトニフのうなじを見つめた。ベッドの上で、握りしめられた彼のこぶしが、震えていた。
「・・・ガルム総統。あなたはこの世界のトップに立つべきお方です。」
「そうだ。私もそう思っている。だから・・」
「だから!俺を見捨ててくださいよ!!」
「・・・・」
「役に立たないものは捨てるべきです。」
彼は、左手を頭においてがしがしと髪の毛をかきむしった。私の心の中に、レトニフの言葉が強く落ちた。しかし、私の気持ちは変わらない。
「レトニフよ。お前たちは、私に仕え国のため、国民のためを思い、身を犠牲にしてまでも民主主義を根付かせようとしているではないか。貧しいものが平等に扱われる社会を求めて、命を捧げているではないか。そんなことができる人間がどれだけいることか。・・・私はな、この50年間国民に期待し続けてきた。すべての国民に対してだ。しかし、国民はいつしか考えることをやめた。命を張ることをやめたのだ。人というのは、ある程度の安全性が確保されると感覚が鈍るのだよ。いま、国民は兵士と区別され、戦うことを求められていない。安全なのだ。だからこそ、自ら選択することを避け、すべてを国に任せるようになった。私や、君たち兵士に、だ。君たちはそんな国民とは違うだろう?君たちは、私の下で国を変えようと、自ら意志をもって選択してきたじゃないか。」
そうだ。彼らは、自ら志願して私のもとにやってきたのだ。彼らは、私のために命を捧げてくれている。私はそんな彼らを私の一部だと思っているし、私自身だとも思っている。しかし、レトニフはその忠誠心の強さゆえに、私の目をじっと見つめてなおも強い意志を感じさせる目線を向けてくる。
「・・・なんでですか。」
と、レトニフは言った。
「なんで、見捨ててくれないんですか…。」
彼の握りこぶしが、もう二度と動かぬ彼の足をシーツの上から何度も振り下ろされる。ゴン、ゴン、ゴン、と何度も何度も、レトニフは強く自分の足にこぶしを振り下ろした。
「・・・ひとつ言っておく。」
私は口を開いた。
「私は、お前のためにお前を見捨てないのではない。私のためにお前を見捨てないのだ。」
それだけ言うと、私は治療室を後にした。
部屋に戻ると、私は一人で窓際に座って物思いにふけっていた。レトニフの言葉や、部隊長の姿を思い浮かべる。そして、美しく鍛えられた兵士のことを思い浮かべた。大丈夫だ。私が迷ってどうする。私は私を信じればよいのだ。私は兵士を見捨てぬ。国を守るために武装させ、きちんと訓練させなければならない。今度、また軍事パレードでも開いて我々の強さを近隣諸国に見せつけるべきだろう。一見意味のなさそうな一糸乱れぬパレードは、抑止力として大きな効力を発揮するのだ。
「・・・・・・」
【人は皆、自分だけは失敗しないと思うものなのですよ。】教祖の言葉を思い出す。ならん。あの人はもはや時代遅れの人物なのだ。私は失敗などしない。過去の過ち知り、あらゆる国の書物を読み、失敗する方法を回避することができる。私には、できる。
そんな風にしてぼんやりと考えていると、コンコンとドアがノックされた。「なんだ。」と声をかけると、「失礼いたします。」という声がしてアランが入ってきた。
「ガルム総統、リドラ国から使者が参っております。」
アランはそういった。
「リドラ国から?」
と、わたしは問う。アランは椅子に座る私のそばへやってきて、耳元で言った。
「お急ぎの用事だそうです。」
「わかった。通してやりなさい。」
そういうと、アランはドアの奥にいる人物に「はいりなさい。」と声をかけた。すると、ドアの奥から古びた麻布の衣服を身に着けた人物が入ってきた。背には何も背負っていない。武器商人ではないようだ。奴は麻布の帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。しかし、なにかがおかしい気がする。そいつはうつむいたまま、そろっと部屋の中に足を踏み入れてきた。
「・・・・」
使者にしては、いささかそのうつむき方が高貴すぎるようね気さえするのだ。アランは、いつものように「では。」とだけ述べて部屋から出ていき、ドアがしめられた。部屋の中には、私とその奇妙な使者の二人きりになり、静寂が訪れ、次の瞬間になると窓の外から、うっすらと軍隊の声が聞こえた。
「失礼いたします。」
と、その使者は小さな声を出した。しかし、はっきりしている。声の出し方が、はっきりしているのだ。妙だ。なにか、妙な気がする。なんだろうこの違和感は。
「お前、いつもの使者ではないな?」
私は言う。そいつはそこから動かず、私のほうに歩み寄ろうともしない。私は椅子に腰かけ、ふんぞり返ってそいつを見つめた。しかし、奴はびくともせずうつむいている。
「・・・・私の前では、顔を見せなさい。」
すごんだ声でそういうと、使者は「それは、失礼いたしました。」と頭を下げて頭にかぶせていた古めかしい麻の布を払った。すると、中から金色に輝く髪の毛をもつ青年が現れた。その瞳はしかと私を見つめ、茶色い瞳がこっちをとらえた。私は、不思議な感覚に襲われた。使者にしては、と思う。いささか気品がありすぎる。
「わが王子より伝言でございます。飛石のことですが、もはやお渡しできませんとのこと。」
「なんだと?」
飛石をわたさない?そんなこと、リドラ国にできるわけがない。奴らは建国時に、わたしと前のリドラ国王との約束があるのだ。
「申し訳ありません。実は、裏での取引を王子がかぎつけたようです。」
使者は微動だにせず、私に言った。
「王子とはバルドルの息子か。」
とわたしは問う。
「はい。トル様です。」
私は、飛石を秘密裏にリドラ国の使者たちと取引していた。もともと
国を通じて行っていたのだが、向こうの採掘夫たちが取引を持ち掛けてきたのだ。飛石とは、リドラ国内でのみとれる鉱石だ。それは剣になれば素晴らしくとがり、縦になればいかなる剣も防げる不思議な意思だった。リドラ国民は飛石の能力を知らず、それで素晴らしい武器を作って売ってくれていた。しかし、近年は飛石の採掘量が減ったらしく制限されていたのだ。そこに採掘夫はやってきた。「我々ならいくらでも飛石をあなた方にお渡しできます」と述べたのだ。採掘夫の技術は確かなものだったし、直接取引することで奴らはより多くの利益を得られる。そして、私たちは剣ではないもっと素晴らしいものの作り方を開発した。飛石は、まさに「それ」に大切な材料だったのだ。
「では、もう売ってくれぬというのか。それは、お前らリドラ国にとってこその痛手であろう。ふん。王子が何と言おうとかまわぬ。私はな、リドラ国建国自にチュールと約束しているのだ。チュール亡き今も、その約束が消滅することはない。バルドルは何と言っておる?まあ、所詮あの青二才はそんな判断ができると思えんがな。あいつは腰抜けだ。」
吐き捨てるようにそういうと、その使者は心なしか目に力を入れたように見えた。
「あなた方は、いったい何を作っているのですか。」
使者にしては、ずいぶんと深い質問をぶつけてくる。もしかして、こやつ。
「ふん、知りたいか?」
「ええ。」
「・・・・」
私はその青年の目を見つめた。奴の目を見ると、わかった。この者は、使者ではない。私は椅子から立ち上がると、窓の近くに歩いていき、外を眺めた。青い空に、黒い鳥がとんでいるのがみえた。
「お前、拳銃を知っているか。」
青年が、後ろで唾をのむ音がかすかに聞こえた。しばしの沈黙の後、
「知りません」と青年は答えた。
「そうか。ならば教えてやろう。」
私はそういって、窓際から離れて机の上においる1つの書物を取り出した。青年に近づき、その書物を手渡すと、青年は私の手からそれを受け取った。ほこりをかぶったその書物をわたしは青年の手中に収めた。すると、青年はその本の古びた表紙を開く。黄ばんだページを何枚かめくると、茶色くなってしまった拳銃の絵が現れる。少年が息をのむ音がした。はっきりと、したのだ。
「それは北のほうに古くから伝わるものでな。過去にはその武器で一人の兵士が何万人という人々の命を奪うことができそうだ。まあ、それは一種の伝説だがな。」
「・・・・これは、」
と、少年はつぶやいた。声がかすかにふるえているのがわかる。小僧、驚いているのだな。無理もない。私も初めてその絵をみたときは心が震えたのだから。
青年はぺらぺらとページをめくった。拳銃についての伝説が細かく書かれている。
「・・・・剣よりもはるかに、いとも簡単に人の命を奪ってしまうもの・・・」
青年はページの一番上に書いてある文字を読んだ。
「ああ、そうだ。これを持てば世界の頂点に立つことができるのだよ。しかし、これにはまだわからないことが多すぎる。我々は何十年も研究し、やっと形にできたのだ。飛石はな、この拳銃をつくるのに素晴らしい効力を発揮する。ほれ、そこの絵にあるだろう。これを拳銃の弾丸という。」
そういって私は絵の中にある小さな玉のようなものを指さした。
「小さな爆炎のようなものですか?」
と青年は問う。
「いや、違う。持っているだけではなにもない。ただの石と同じだよ。これが拳銃のなかに詰められ、勢いよく飛び出す。すると不思議なことに、この石は剣よりも鋭くあらゆるものを突き破るのさ。」
「人間の皮膚もですか。」
「そうだ。頭さえも一気に貫くことができる。」
「・・・・。」
青年はその絵を見下ろしたまま黙っている。
「こんな恐ろしいもの・・・何に使うのですか。」
「わはは。これがただの抑止力に見えるか?お飾りに見えるか?そんなわけないだろう。敵を殺すのだよ。当たり前だろう。」
私は鼻で笑った。すると、そいつは顔を上げてあたかも私が悪者であるかのような表情を見せた。
「敵というのは、ティシカニ国のことですか。」
やつは私を睨みつけながら言う。
「争いに決着をつける。50年間続いた停戦状態に、終止符を打つ。わしのこの手で。」
私が始めた戦争だ。私が私の手によって終わらせなければならない。このあいまいな状態をこれ以上続けるわけにはいかないのだ。未来の子供たちに、受け継がせてはいけないのだ。
「・・・・石たちは、泣いています。」
奴は、ぱたんと本を閉じて私に差し出した。まるで、もう見たくないというかのような手つきだった。こやつの、この声の感じや、目つきをわたしは知っている。
「石だと?」
わざと何も気づかないそぶりで、青年から本を受け取った。
「石たちは、自分たちが武器になることを恐れています。」
「はっ。何を言っているんだ。石に言葉があるとでもいうのかね。」
「石に言葉はあります!」
と青年は叫ぶ。
「あなたには聞こえないのですか。」
「聞こえるわけなかろう。」
何を言っておるのだ。この青年は。妙に不気味な感じが背中を走った。青年は、私の腰についている剣を指さした。
「その剣にも言葉あります。」
まったく。なんだこの青年は。わたしの思い過ごしだったようだ。偉大な血を引くものかと思ったがどうやらただ頭がおかしいだけなのかもしれん。
「いいかげんにしたまえ。」
「ガルム総統!あなたは気付いているはずです。毎晩、この部屋の中にある武器たちが悲しみの声を上げていることに。」
「だまりなさい!」
私の怒鳴り声が部屋の中に響いた。呼吸が荒くなるのが自分でもわかった。
なんだ。この少年は。私に説教でもするつもりなのだろうか。ただの使者でしかないくせに!
「あなたは決して悪い人ではない。けれど、己の正しさゆえに争いを説き、多くの罪のない人々を殺そうとしているのです。」
「なんだね君は!口を慎みなさい!」
胸の中に、眠っていた感情がよみがえる。《貧しい人々を助けたい》。そうおもった、50年前のあの純粋な気持ちが頭の中にふつふつと湧き上がってくる。まるで熱湯が注がれるようにじわざわと体が熱くなった。私は、気づかぬうちに書物を床に落としていた。両手で頭を押さえてうつむき、そして絶叫した。
「リドラ国へ帰れ!そしてバルドルに伝えろ!いいか!お前たちには武器を作るという選択肢しかないのだと!」
私の唾が口から飛び出して、目の前の青年顔にふりそそいだ。それでも、青年は私をじっと見つめたまま微動だにしない。そのことにさらに腹が立った私は、「うあああああああ」とうなり声を上げていた。
「《正しさ》というのは時に人を傷つけます。あなたは正しいことをしているつもりで、本当は正しいことなんてできていない。」
腸が煮えくり返りそうだった。もはや髪の毛をかき乱して、私は何も考えられなかった。目の前にいる青年の言葉が、まるで弾丸のようにわたしの心を突き抜けてゆくような気さえした。とにかく、立っていられないほどの気持ち悪さに包まれた。まるで屋根が吹き飛んだような感覚に襲われる。ふと、気が付くと、目の前にいるのはさっきまでの青年ではなかった。あの男の姿になっていた。
「・・・・・チュール・・・・」
そうつぶやくと、ぶわっと風が吹いて私の全身を突き抜けていった。指先がひんやりと冷たくなり、ほほを水のような寒さがかすめる。目の前が光に包まれた気がした。そのひかりのなかに、
あの、何十年も前の戦友が、影になって浮かび上がってくる。
「・・・・・チュール・・・」
《なあガルム。》
「・・そこにいるのか・・?」
まぶしさなのか、なつかしさなのか、私のほほに涙が伝う。
《正しいことって、いったいなんだろうな。》
俺と同じ背丈の影がどんどんと縮んでいく。おかしい。このチュールは・・・幼いころの姿か・・・?俺の記憶の中のチュールなのだろうか。
《正しいことなんてこの世にないんじゃないだろうか。》
チュール!
自分の叫び声がして、はっと気が付くと、私は一人で部屋の床に倒れていた。
「・・・・」
な、なんだったのだろう・・・・。起き上がると、さっきの青年の姿はどこにもなかった。消えてしまったように、本当にどこにも姿はなかった。本当に、消えてしまったのだろうか?ここではないどこかの世界に。いや、ちがう。
ほほを左手でさする。涙は流れていなかった。
【第三章 ティシカニ国 チル・ティシカニ】
ワシは目を開けた。窓から木漏れ日が差し込んでいてワシの広くしわの刻み込まれた額を明るく照らした。
「あなた。お目覚めですこと?」
すぐ隣には若い妻が椅子に座ってベッドで眠りにつくワシを見下ろしている。
「・・・・随分、長い間眠っていたような気がする。」
体を起こすと、自分の腰がきしむ音が耳の中でこだまする。
「もう正午に近いものね。今、使いの者をよびますわ。」
「正午?」
まさか、と窓の外を見る。太陽は高く上がっているのかどこにも見えなかった。
「まってらしてね。」
そういって、40歳近くも年の離れた妻が、パタパタとドレスを引きずりながら部屋から出て行った。ぼーっとする頭で、ベッドに座ったまま窓の外をもう一度眺めた。ガラスはところどころ曇っていた。ああ、拭かなければ、と思う。
「お目覚めですか。」
気が付くと、すぐ隣から声がした。妻がこぎれいな格好をした若い男を連れてきたようだ。なぜ、人が近づいてきたことに気づかなかったのだろうか?
「すこし、診ましょう。」
そういって、若い男はワシの体のあちこちを触り、目の中をじっくりのぞき込んだりしてきた。
「はい、大丈夫です。」
というその男の声がして、妻は「ありがとうございます。先生。」と言った。そして、その男の隣にぴったりと寄り添い、いかにもワシを心配していそうな顔で見下ろした。
「よかったわ、あなた。特に異常はないみたいよ。」
妻は、ワシのほほにほっそりとした手を置いて、顔を近づけ、ワシの額に唇を落とした。乾いている、と思った。次の瞬間、ドカン!という大きな音が窓の向こうで聞こえた。「なんだ、今の音は。」
ワシを見下ろす二人に問いかけると、お互いが顔を見合わせてふふふと笑う。不気味だった。
「ええ、チル元首。あなたのおっしゃるとおりに核実験を地下でやっているのですよ。」
と、その男は答える。
「核実験?」
記憶の糸をたどる。・・・眠りにつく前の・・、記憶の糸を・・・手探りで意識の中から引っ張り上げてくる。
《準備をしろ!ワシの言うとおりに!》自分の怒鳴り声が耳の奥で聞こえた。
「・・・・ああ、思い出したよ・・・。」
「ふふふ。あなたってば、最近物忘れが多いんじゃないですか?」
若くつるりとした美しい妻が鈴のような声を上げる。
「では、私はこれで失礼いたします。」
男が、ワシに頭を下げて言う。
「あら、もういってしまわれますの?」
「ええ、元首がお目覚めのようですし。」
男は笑顔を顔に張り付けて、部屋から出て行った。ワシはその男によってしめられた扉をいとおしそうに眺める妻の顔をみつめた。
「お前、水を一杯くれないか?」
と、妻に言った。
「ええ、もちろんよ。」と彼女は微笑み、嬉しそうに部屋を出て行った。
妻が扉を閉める音を聞いてから、わしはベッドから降りて、ひんやりとした床の上に足を下した。立ち上がると、腰のあたりがすこし痛むような気がする。いつ痛めたのだろうか?眠りにつく前は確か気にしたことはなかったはずだ。なのに、なぜ急に痛むのだろうか?部屋の中を歩き、窓際によると、外には青空が広がっている。眼下には我が国の国民たちが生活する様子が見えて、少しホッとする。50年。ガルムがわしのもとから去って、もう半世紀もたつのか。わしも年を取るはずだ。体にガタが来ている。ガルムは、昔から体はたくましいほうだったから、いまだに元気なのだろうな。わしとは真逆で、あいつは昔から活発な奴だった。
ズドン、とまた大きな音がする。その数秒後に、男たちの大きな歓声が聞こえた。私は目をつぶり、足元で燃えているであろう核爆弾の死にゆくような匂いを感じた。
「ガルム、時は近い。」
父や、祖父、そのまた前の祖父からうけついだこの国は、もともと大きな国だった。しかし、50年前に弟のガルムが、貧困の差を嘆いていくらかの国民を連れてリドラ国を越えてゆき、アパス国を建国してしまった。あいつは昔から手を焼かれていた。英才教育を批判し、貧しい村の者たちと戯れ、宮殿の外へ出たがった。わしは活発なほうではなく、書物を読み宮殿の中で過ごしてこの国を引き継いだ。
「間違っていたのはお前の方だと、やっと気づいてくれるだろうか・・・。」
窓の外を眺めながらわしは一人でつぶやいた。そうだ。ガルム。お前のしたことは間違っているんだよ。人間はある程度の競争の中に置かれなければならない。その結果として貧富の差が生まれるのは仕方のないことだ。貧しいものは、努力をしてこなかったから貧しい。ガルムがしていることは、努力ができぬものを甘やかしているに過ぎない。
『兄さん。』と、幼い頃のガルムの姿が脳裏に浮かんだ。宮殿の外で遊んだガルムは、帰ってくるといつも父に叱られていた。体中傷だらけで帰ってきたからだ。ガルムは父に怒られた後、いつもわしの部屋にやってきた。
『また怒られたのか。ガルム。』
と私は聞いた。
『また貧しい者たちと遊んでいたんだろう?やめておきなよ。』
『なぜ?』
『なぜって。あの人たちと僕たちは身分が違うんだよ。貧乏なのは、自分自身のせいなんだからね。情けなんてかけるもんじゃないよ。』
『兄さん。兄さんは何もわかってない。』
あいつはそのあといつも黙ってしまうのだ。そして、行ってしまった。わしに敵意を見出して。戦争は止まったままだ。しかし、わしらももう年だ。そろそろ、終わりにしなければならない。きっと、あいつもそう思っているのだろう。兄弟だがらか、なにか感じるものがある。あいつは、きっともうすぐ終わらせに来るはずだ。
ただ、わしは時々はすさまじい虚無に襲われもする。これでよかったのだろうか、とふと自分に問いたくなるのだ。国民は皆、高い水準の生活環境にある。とりあえず家もあって、とりあえず食べ物にも困らない、とりあえず仕事もあるし、とりあえず平和だ。適切に家族を持ち、適切に教育を受け、適切にお金を収めて生きている。これ以上何を求めるのだろうか。わしがすべきことは、あるのだろうか。わしは、何をすればよういのだろう。父よ、祖父よ、私が求めていたのはこれだったのでしょうか。この年になって、やっとそんなことを考えるようになったのです。
「あなた、お水よ。」
ふと、気が付くと、隣に妻が立っていた。両手にはコップに入った水を持っている。「どうぞ。」と言い、そのコップをワシに手渡したお礼を言ってうけとり、水を見つめる。この水の中に、何かを入れたのだとしたら?そう思って、妻の顔を見つめた。妻は、不思議そうな顔をしてわたしを見つめ返した。
「なに?どうなさったの?」
と妻は言う。
「・・・・・」
もし、入っていたとしたらここで死ぬのだろう。しかし、それもまた人生というものか。
「いや、なんでもない。」
そういって、わしは水を口に運んだ。冷たい水がわしの喉を潤す。喉を水が通りきると、わしはそのまま2,3秒黙った。
「・・・・・・」
何も起こらなかった。
「ねぇあなた。今日は公務があるでしょう。何時からになさる?私もそれに合わせて準備しなくてはならないし。」
妻は、長い髪の毛を触りながら言った。
「公務?」
とわしは言った。
「そうよ。長く眠っていたからお忘れになっているのね。きっと。」
そうだろうか?
「そうかもしれない。」とわしは言う。
「月に一度、国民の前に現れるのよ。そして、あなたの威厳を見せつけるの。ね?思い出した?」
「ああ、そうだったな。」
そういわれればそんなような気がする。しかし、言われたからそんなことがあったようにも思う。
「国民の前に出るのだものね。お化粧や新しいお洋服を用意しなければならないわ。もちろん、あなたもよ。」
「その準備か・・・。」
妻は確かに美しい女だ。しかし、いささか浪費が過ぎることを思い出した。
「あら、大切なことよ。私たちが高貴にふるまわなければ国民も高貴でいられないじゃない。あなたがいつもおっしゃっていることじゃない。」
妻は嬉しそうに笑う。わしはそんな妻の顔を見つめて、ほほ笑んだ。微笑むのが正解だと思ったからだ。
「いまは何時だね?」
「木曜日の10時よ。」
木曜日?とわしは思った。
「・・・・では、5時はどうだろう?国民の仕事の都合もあるだろうし。」
国民は毎朝8時から4時まで仕事をしなければならないと法律で定められている。彼らの仕事中に公務をやるといえば、あれやこれやと批判されるしな。
「いいわ。5時ね。」
「ここにジェスターを呼んでくれ。」
「わかったわ。」
と、妻はにこりと笑って部屋から出て行った。妻が出ていくと、またすぐにドアが開き、代わりにジェスターがやってきた。
「参りましたよ。この、スタンチク・ジェスター。」
背はわしの腰あたりまでしかなく、全身ぴたっとした赤い滑稽な服を着た男。顔は醜く、ニタニタと笑っている。手足は短く、詰めの形までもが醜い。年はわしより50近く若いはずだが、いったい何年生きているのかは定かではない。しかし、おそろしく頭の切れる宮廷道化である。
「こっちへ来なさい。」
ドアの近くにいるジェスターにそういうと、奴は恐ろしく不気味な笑顔を顔に張り付けて窓の近くにいるわしのそばへやってきた。こいつは決して悪いやつではないのだが、何しろ見た目が醜いもので世間には出られない。
「公務を5時に行う。」
「ああ、奥様にお聞きしましたよ。わかりましたと言っただけなのに、ほほをぶたれましたがねぇ。今頃いつものように城中のクローゼットをひっくり返してドレスをさがしていることでしょう。いひひひ。」
「そんなことはいちいち言わなくて良い。」
「へいへい、失礼いたしました。」
「話す内容を考えておくれ。」
わしの足元にやってきたジェスターにそういうと、奴は「わかりました」と頭を下げた。そして、待ってましたと言わんばかりに机の上にどこから取り出したのか紙と鉛筆をすばやく置いた。そして机の上によいしょとのぼり、正座をして紙に文字を書いていった。
「まず、核実験の成功についてお知らせするべきでしょう。」
「なるほど。」
「そして、アパス国が拳銃を手にしたことを伝えて、闘争心を仰いではどうでしょう?」
「なに?」
なんだって?拳銃を?
「拳銃を持ったというのか?あれは、ガルムの空想の産物のはずだろう?」
幼いころから、ガルムは軍事関係の伝説書を好み、いつも持ち歩いて読んでいた。
ある日、ガルムの本を覗き込むと、そこには不思議な絵が描かれていた。『なんだこれは?』わしは言った。『拳銃だよ。』とあいつは答えた。それは奇妙な石の塊のようなものだった。『これ一つで、何万人もの人間の命が奪われるらしいんだ。』目を輝かせていたあいつに、わしは恐怖を感じたのを覚えている。
「とうとう作ってしまったのか…。」
「大丈夫。負けはしませんよ。こっちには核がありますからねぇ。」
とジェスターは言った。
「核は使わない。」
「ええ!?なぜです?あんなにお金をつぎ込んで作っておいて使わないとおっしゃるのですか?」
奴は顔を上げて、おどけた顔をした。
「あれは抑止力にすぎん。使ったらアパス国民は皆一瞬にして消えてしまう。それだけではない、我が国にもなんらかの被害があるだろう。」
「ふぅん。つまらないですねぇ。」
核を使ってはならない。あれは、「強さ」の象徴であるだけで、実用するにはあまりにも大きすぎる。きっと、その炎にリドラ国も我がティシカニ国も飲み込まれてしまうだろう。
「とにかく、実験の成功については報告しましょう。国民に戦争が始まることを伝えるのです。」
戦争、か。
「50年ぶりか…」
そろそろ終わりにしなければならないことはわかっている。でも、このままあいまいな平和が続けばよいとも思ってしまう。
「アパス国を、チル元首の元へ戻しましょう。」
「戻す、べきなのだろうか。」
「戻すべきでしょう。正しい状態に戻すべきなのです。」
≪正しい≫状態?戦争は正しさのために行われるのだろうか。それならば、わしは最も正しい戦争よりも最も不正な平和がほしい。これはおかしなことだろうか。
「悲しいことだ。兄でありながら、あいつが一体何をしたいのかわからぬ。あいつは、貧しい者を助けたいとしか言わなかった。しかし、いまやろうとしていることはすべての貧しき者も富む者も、苦しみの中へ突き落すだけであろう。…チュールがいたら、いまのわしらを見てなんというだろうか。」
「へっへっへ。こわやこわや。」とジェスターはにやにやと笑った。そして、背中を丸めて公務でいうべきわしのセリフをすらすらと紙に書いていく。
「お前、なぜ人が争うのか考えたことがあるか。」
奴は書いている手を止めて、顔を上げた。そして、わしの目を見て「ふふふ。」と鼻で笑った。
「いいこと教えてあげましょう元首。」
「なんだ。」
「悪というのは、必ずしも意図的ではないのです。」
意図的ではない、とわしは頭の中で繰り返す。ジェスターは左手でポリポリと頭をかいている。そのしぐささえわしを不快にさせる。ある意味で天才だ。
「皆、自分なりの善に基づいて戦います。だからこそたちが悪いのですよ。わかりますか?」
「・・・・。」
わしは黙った。
「チル元首だって、あなたなりの善に基づいてあらゆる判断をなさっているでしょう。」
「当たり前だ。私はただ、わがティシカニ国民たちが幸せに暮らせることだけを願っている。それは、今も昔も変わらぬ。なのに、周りの国々はわしの言うことに背くのだ。わしのいう通りにすれば、すべて平和に包まれるのに。ガルムには共に世界の平和のために尽力していきたかった。しかし、奴は「善」をはき違え、わしのもとを去りアパス国をつくった。あれはあいつの虚栄心そのものだ。軍事力にモノを言わせて、世界を破滅に持ち込もうとしている!皆わしに従わないから…。」
私は、窓の向こうに広がる青空を見つめた。動物のような形の雲が流れていく。風が吹いて、木々を揺らした。そういえばあんなところに、大きな木があったなんて知らなかった。揺れなければ気が付かない。
「なぜみんな悪い心に取りつかれてしまうのだろう?」
そういうと、
「ひひひひひ。」
突然、ジェスターの笑い声が部屋中に響いた。
「なにがおかしい。」
わしは憤慨する。奴は笑いが止まらないらしく、口元を抑えてうれしそうに笑い続ける。
「そう思っているうちは、争いはさらなる争いを生むだけでしょうね。」
「え?」
ジェスターは一瞬だけ無表情になり、光の宿っていない目でわしを見つめた。
「え?」と問いかけると、奴再び顔を下ろし、紙に文字を落としていく。
「いいえ、いいのです。それが人間ですから。道化は、ただ道化がしばらく安全にいきていければ良いのですからねぇ。さぁ、文章ができましたよ。うまく話してくださいね元首様。」
*
5時になり、夕日が立ち込めるころ私は国民を宮殿の庭に集めた。数千人が扉の奥からわしが出てくるのを待っていて、騒がしく声が満ちている。
「5時です。」
道化が声を発し、使いの者が2人がかりで門を開けた。ギィィという大きな音がして宮殿の大きな門が開き、わしと妻は皆の前に姿を現した。一瞬のうちに静かになり、国民はわしの姿を見ようと背伸びする。
「皆、久しぶりであろう。」
一言、声を上げると、わぁっという歓声がわしを包んだ。わしの隣ではこれ以上にないほど着飾った妻がにこやかに国民に向かって手をふっていた。足元では、ジェスターが立っているがあまりに背が小さいからか皆の視線は奴には注がれなかった。いないものとして見られているようだ。妻はシェスパーをまるで汚い虫でも見るかのような目で見降ろし、眉間にしわを寄せた。
「あいたっ」
という声がする。どうやら、妻がジェスパーの背中をかかとの高い美しい靴で蹴とばしたようだ。奴は背中をさすってにやにやしている。
「いててて、奥様、ひでぇです。」
「おだまりなさい。お前が息をしているというだけでも腹立たしいわ。まったく。」
妻はにこやかに笑って国民に手を振りながら言った。
「こわやこわや。」
「2人とも静かにしておくれ。」
わしは深く息を吸う。腹の中に澄み渡った空気がたまっていくのを感じた。そして、力いっぱい大きな声を張り上げた。
「今、我々に危機が迫っている!」
一瞬で張り詰めた空気になった。これが、わがティシカニの王族の持つ威厳なのだろう。わしは首の後ろが冷たくなるのを感じた。
「建国から50年がたち、我々は常に世界の大国としての地位を保っている!しかし、われらの兄弟であるアパス国は我らの豊かさをねたみ、われらへの攻撃を企んでいる!!奴らはついに武器を持ったのだ!」
私は
再び、大きく深く息を吸い込んだ。頭の中が冷たい空気に包まれているような気がした。
「今こそ、我らは一つになるときだ!アパス国民の我々への憎悪を取り除き、ン窯として受け入れよう!彼らを目覚めさせるのだ!核の準備もできた!我らの善意に基づいて、兄弟たちを助けようではないか!!!」
爆発的な歓声が起こった。その声で、のけぞってしまうほどだ。髪を振り乱して拍手をする者、泣きながら叫ぶ者、女も子供も男も老人も若者も、みんなわしに熱狂した。これが国王だ!これがティシカニ一族の血だ!
「ティシカニの名を誇ろう!我々の正義を貫こう!我々は常に気高く、そして正しい!正義の名に懸けて兄弟たちを悪から救いあげるのだ!」
大声で叫ぶと、なおも国民は絶叫した。わしは、握りしめたこぶしを天につきあげた。国民は狂気的に叫んだ。これが、本当にあの温厚な国民たちだろうか?わしはいささか恐怖心を抱いた。50年間の平和のうちに、国民の闘争心は失われているかと案じたのは、浅はかだった。むしろ、彼らは半世紀にわたる渇望の日々から救われたような顔をしている。50年もの間抑え込まれた闘争心は国民の心の中ですこしずつ大きくなっていたのだろう。蓄積された鬱憤が爆発するかのように、彼らは絶叫した。まるで大地震が起きたかのように、地面が熱気で震えた。私は胸がいっぱいになっていくのを感じた。
「ああ…。」
なんてすばらしい民族なのだろう!みんな、こんなにも正義を貫こうとしている!兄弟を助けるために、この身さえささげる覚悟を持っている!なんと、なんと素晴らしいわが子供たちよ!!
「チル元首!我らの正義!チル元首!われらの正義!チル元首!」
我が子供たちが、みんな左手を天高く突き上げてわしの名前を呼び続ける。わしの正義についてきてくれるというのか…子供たちよ・・・!
「チル元首!我らの正義!チル元首!われらの正義!チル元首!」
わしは彼らの期待に全力で答えよう。不正な平和など、もはやいらない。ひつようなのは我々の正義だけである。ガルムの目を覚まさせて、我々のような豊かな暮らしをさせてやるのだ。努力する喜びを感じさせてやるのだ。奴に気づかせてやる時が来た。言おう。声を張り上げて。お前たちのやっていることは間違っているのだ、と!
「チル元首!我らの正義!チル元首!われらの正義!チル元首!」
絶叫はやまない。
「チル元首!我らの正義!チル元首!われらの正義!チル元首!」
「うひひひっ・・・・戦争だ!戦争が始まるぞ!」
ジェスターの笑い声は、歓声の中に消えていった。




