幕間前編『遠くにいくと寂しくなる』
桜香対アルメダ。
時代を代表する魔導師の激闘というイベントは終わったが、日常というイベントは変わらずに続いていく。
健輔の日常も同様であり、日々を全力で駆け抜けていた。
しかし、健輔は魔導が関わっていたら強いがそれ以外ではまさしく凡夫である。
約束していた3本勝負。
期末試験を境とした決戦はあっさりと彼の敗北で幕を閉じていた。
「ぐ、ぬぬぬぬぬっ」
「じゃあ、そういうことで、最下位さん何かコメントはある?」
「ば、バカな……」
「何が、バカなっ、よ。順当な結末でしょう?」
健輔が膝から崩れ落ちる。
7月の頭に約束した3本勝負の決着。
1本目は実技試験、ここでは優香以外には勝利という順当な結末を示す。
2本目は定期試験、座学という健輔にとっての最強の敵を前にして成す術なく粉砕されてしまう。
期末試験の結果は4人の中で最下位。
ポイント制の戦いは、単純に4人の中で順位を競うものだ。
優香が7ポイント、圭吾が4ポイント、美咲が5ポイント、健輔が4ポイントで最後の決着はフィーネからの課題に託された。
3本目――実技、知識と見たのならば最後は魔導に関係ない部分で決着を、ということでフィーネからはごく普通の試験が提出される。
嫌な予感が的中した瞬間であり、この時点で健輔の敗北は必定であった。
「ひ、卑怯だろう……。日本の歴史とか、知らんがな」
「あのね。どうして外国人のフィーネさんの方が、日本の歴史に詳しいのよ。というか、酷いわね。この点数」
美咲の手元にはごく普通の紙の答案用紙がある。
歴史問題という魔導とは関係なく純粋に知識を問う課題は健輔と相性が最悪だった。
勘頼りを発動されないように全てが記述式というのもフィーネが健輔をしっかりと理解している証だろう。
「健輔は中学のテストとかも毎度ギリギリだったからね。まあ、それでもなんとかやり過ごせてのは土壇場の勝負強さがあったからだろうけど」
「流石に魔導に全振りしている今は無理、っていうことなの? 本当に極端ね」
フィーネがチョイスしたのは本当に有名どころの問題ばかりだった。
高校生の入学試験レベルであり、特別に難しい内容ではない。
魔導を用いて勉強をする天祥学園の生徒ならば、簡単に解ける問題ばかりなのだが、現状『魔導』という分野に全てを賭けている男にはハードルが果てしなく高かった。
「せ、せめて優香がいなければ……」
「僕には勝てた、だろう? いや、九条さんだけハブにするとか、酷いことを考えるね」
「え、えーと、その、ごめんなさい」
「健輔、正座」
美咲が絶対零度の視線で健輔に命令する。
自然と身体は動き、見事な姿勢で正座を決めていた。
「う、うーす……つい、出来心で……」
「言い訳しない。男らしくないよわ。さて、結果は最下位だった訳だけど、コメントは何かないの?」
「うぐぅ……。はい、すんませんでした。勉強を見ていただいて、この体たらくは反省しております」
体格は小柄で、目付きは鋭いが美咲はどちらかと言うと可愛い系の女性である。
冷たい視線は優香の方が遥かに似合っているだろう。
それでも健輔に対する彼女の態度には威厳と言うべきものが宿っていた。
1年間、この男に振り回された経験はしっかりと彼女に根付いている。
自由にさせるとどこまで行きかねないからこそ、しっかりと縄を付けておかないといけないのだ。
――美咲は優香のように同じ光景を見ることは、恐らく出来ないのだから。
内心を欠片も出さずに腰に手を当て、指を突き付ける。
罪状を読み上げるかのように、美咲は厳かに宣誓した。
「別に、何もするなとは言わないわ。あなたの人生はあなたのものだもの。……でも、ううん、なんでもないわ」
「美咲?」
誰よりも健輔の背中を見つめてきた女性。
駆け抜けていく背中に寂しさを感じたからこそ、彼女しか知らない健輔がそこにはいる。
いろいろと回りくどいことをしているが、無駄に見えることこそ必要だと彼女は思っていたのだ。
周り道をしないで、駆けあがっていく健輔は確かに凄い。
凄いが、変わりにあるべき多様性が少しずつ欠けているように見えた。
強すぎる信念は、結果として柔軟性を失わせる。
1年の前の健輔は、未熟で弱く、我武者羅だったが同時に柔らかかった。
あらゆるものを吸収する柔軟さがあったのだ。
今の健輔は強く、円熟しているが、変わりに柔らかさは失っている。
他の者よりも、優香よりも桜香よりも弱かった頃の健輔に勇気を貰ったからこそ美咲だけには変化がよく見えていた。
無駄とは余裕と表裏一体であり、不可分な存在であろう。
健輔は無駄を省いて先鋭化していることで強くなっているが、この方向性では恐らく桜香にも皇帝にも届かない。
美咲の勘に過ぎないが、不安がある。
「……なんでもないわよ。健輔があまりにも予想通りだったから、ちょっと現実を疑っただけよ」
「え……そこまでの大事っすか?」
健輔の間の抜けた顔に、美咲の中の懸念は少しだけ小さくなる。
不安はあり、いつか問題になるのは間違いない。
美咲は、そのいつかが健輔にとっての致命傷とならないかを警戒していた。
心配のし過ぎかもしれないが、足元がお留守な健輔である。
誰かが見ていないと危なっかしいことこの上ないだろう。
「はぁぁ……もう、あなたは本当にダメダメね」
「いや、そんな感慨深く言わなくても……」
「私の采配に全てを任す、って言ったのは嘘なのかしら? これからの魔導は脳が筋肉で来ているだけじゃダメという提言は受けてくれないの?」
「し、信じてるけどさぁ……」
こうして情けない表情をしている時は、本当にただの男子高校生である。
不屈の意思を携えているようには見えない。
そんな当たり前の事実に少しだけ安心しながら、この他愛のない雑談を続ける。
戦いよりもこうした時間の方が、美咲の好みなのだ。
競い、高めるのを嫌がるようなことはないが、健輔のように四六時中戦いに浸るような感性は美咲にはない。
「もうっ、信じてくれるなら、勉強もしてくれればいいのに」
「すいません、それはちょっと専門外なんですよ……」
今はまだ、こんな風に誤魔化すのでいい。
美咲も喫緊のことではないと判断していたし、間違いではないだろう。
しかし、いつかは必ず健輔はもう1度自分と向き合うことになる。
美咲には確信があった。
魔導師たちにとっての1つの到達点。
リミットスキルよりも更に高い高みにあるその人だけの力。
本来ならば、健輔は覚醒してしかるべきその力が目覚めていない。
美咲はずっとそれが不思議だった。
彼女が知っている情報から考えても、健輔は条件が揃っているはずなのだ。
なのに、一切兆候が見えない。
リミットスキルにしても同様だが、どう考えてもおかしいだろう。
「……あーあ、どうして、私は」
「美咲? その、今日はどうかしましたか?」
胸に過る疑問が彼女に問いを投げて、会話の最中に思考の海に沈んでしまう。
傍から見るといきなり明後日の方向を向いているようなものだ。
どこか調子の悪く見える美咲に、優香が心配そうに声を掛ける。
「え……? あ、ううん、ごめんなさい。ちょっと体調が悪くて。健輔の罰ゲームは2人で案を出しておいてもらっていいかな?」
「そうだね。じゃあ、九条さんは健輔に何をして貰いたい?」
「え、えーと、その……な、なんでしょう?」
「俺に聞くなよ……。せめて、優しくしてください」
騒がしい様子に頬を緩ませて、美咲は部室を後にする。
常時100を超える分割思考で、彼女は常に健輔の可能性に考察を行っていた。
その中のいくつかが普段の彼女を侵している。
美咲の錬度から考えればあり得ないのだが、彼女も人間なのだ。
精神的に動揺してしまえば、ミスの1つや2つは侵す。
「……難しいなぁ」
より強くなって欲しいし、誰にも負けないで欲しいが、結果として強くなった健輔からは自分が不必要になるかもしれない。
それが少し怖くて、表にまで浸食してしまった。
他にも理由がある。
数多の思考を繰り返していているが、思い至った健輔が覚醒する条件に自信がないのだ。
そんなバカなことはあり得ないだろう。
本能は正しいと叫ぶが、理性が拒否する答えを美咲は今日も持て余す。
大きく溜息を吐き、扉を閉める。
少し頭を冷やそうと、思い視線を上げようとすると、
「あら、美咲さん」
――そこには銀の髪を持つ女神が立っていた。
「フィーネさん……」
「健輔さんが負けてそうでしたから見に来たのですけど、どうかしましたか? 何やら重い表情をしていますけど」
労わり、優しく声を掛けてくれる女神。
包容力に溢れており、依存したくなる。
ヴァルキュリアの面々から自立心が抜けてしまうのも理解出来た。
桜香とは異なる意味でこの女神は魔性である。
凡人だからこそ、美咲は強く感じた。
なんでもない風を装い、笑顔で返答する。
強がりだが、別に構わないだろう。
フィーネも既にこのチームの一員である。
寄りかからないようにしていれば、頼りになるコーチなのは疑う余地もない事実だった。
「……よく言いますよ。健輔が負けるライン、計算してたんでしょう?」
「あら、美咲さんは私がそんな性悪だって言うんですか?」
クスクスと笑う女神は本当に絵になる。
性悪、とは思っていないが無駄なことはしない人だとも知っていた。
健輔に知識を叩き込む行動は、間違いなく美咲と同じ結論が見えているからだろう。
チームの内外を問わずに、同じ結論に至れるのは自分か、この人だけだと美咲は思っていた。
優香は隣にいるからこそ気付かない。
圭吾は気付いても健輔に言うことがないだろう。
桜香は健輔にある種の幻想を抱いているため、健輔の弱さを本当の意味で理解していない。
逆に言うと桜香の想いにはまだ変化があるということなのだが、ここではあまり関係ないため、無視しても問題ないだろう。
クラウディアもほぼ桜香と同系統、となると残るのは2人しかいない。
「ええ、あなたは性格が悪いです。包容力があって、その上で負けず嫌いだなんて、凄く厄介ですよ」
「まぁ、そんなことを言われたのは先代以来ですね。性質が悪い、とは奪い取った時の言葉だったかしら」
「必要になれば、誰とでも向き合う。割り切りが、健輔以上にスッキリとしている」
客観的に見て必要ならば、味方でも陥れる。
美咲から見たフィーネはそういう人物だった。
超常の域にいるのに、感性が常人から離れていない。
つまり超常の才能を、人界で振るっているのだ。
波乱の1つや2つは起こって当たり前だった。
むしろ彼女からの無茶ぶりをあっさりとこなしている健輔の方が意味がわからない。
「フィーネさんは、このチームでやるべきことがありますよね?」
「ええ、私もまだ上を目指すつもりですから。――ここは居心地がいいですけど、安住する場所じゃないと思いますよ。本当に、惜しいですけどね」
嘘ではないのだろう。
籠った感情は本当のものであり、だからこそいつか来る別れを暗示していた。
フィーネは今まで3強の中での中間、という扱いだったが、実際のところはハイブリットと言うべきものである。
少し離れたところでチームを見ている美咲だからこそ気付いたことだった。
皇帝と桜香の良い部分を吸収しようとしている。
そのために、彼女はチームの中に今は埋没しているのだ。
いつか、自分で玉座を奪うその日のために。
「私は、あなたが怖いです。桜香さんに近い才能を持つ健輔が、あなただから」
「いつか私が健輔さんの全てを奪った上で、頂点に昇るかもしれない。あなたが怖がっているのは、そんなところでしょうか」
「ヴァルキュリアは良いチームでしたけど、結局はあなたの器に収まっていたチームだった。意図的に、そうしたのでしょう?」
「……ええ、そうですね。ただ、あまりにもマイナスで捉えられれると微妙な気分になります」
困ったようなフィーネの表情に美咲も言い過ぎたとは思う。
同時に、払拭できない懸念でもあった。
未だに彼女がこのチームに来た理由がわからないのだ。
もしもを考えて、脇の甘すぎる健輔を守るのは美咲の使命だった。
年下の少女の決意を感じたからか、フィーネは笑みを消して真剣な表情を見せる。
「まあ、頃合いと言えば、頃合いですし。少しだけ話しませんか?」
「えっ……」
「そろそろ朔夜ちゃんたちも来ますし、こんなところで話すことでもないでしょう?」
部室の外、つまりは廊下するべきではない。
「は、はい……。ご、ごめんなさい」
「いいですよ。美咲らしくない失敗ですしね。貸し、としておきましょう」
優しく微笑み、フィーネは踵を返す。
美咲も慌ててその背中を追い掛ける。
普段は冷静な少女の年相応な部分に笑って、フィーネは決心した。
彼女にも手伝って貰おう。
美咲にとっても、大きな転換点となることがこの出会いから派生する。
中心にいるのは1人の男だが、本人不在で事態は進んでいく。
自分が原因でそんなことになっているとは露とも知らずに、健輔はどんな罰ゲームになるのかと戦々恐々としているのだった。