悲恋の先
「こんにちは」
少年は、初めて少女に声をかけた。その声に、少女はひどく驚いた様子で振り返る。何故か見覚えのあるその動作に、少年は癖になってしまっている苦笑をした。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
再度の挨拶。戸惑いながらも、今度は少女が挨拶を返した。その様子が可愛い小動物を思わせて、やはり少年は苦笑してしまう。
少年の苦笑は、何を笑っているのかと普通だったら怒られても仕方がないのだろう。だが、少女は全く怒る様子を見せない。それどころか、何か懐かしむように少年のことを見つめている。
少年も少女も、お互い初対面である。彼らが今いる透き通った美しい湖の畔で、何度かすれ違ったことはあるものの、声をかけたことは一度もない。
正真正銘、彼らは今初めて、声を交わしたのだ。
初対面のはずなのに、お互いに見たことがある。お互いに知っているような気がする。デジャブと呼ぶには、あまりにも見覚えがありすぎた。
「王女リリィの悲恋を知っていますか?」
不意に少女が口を開く。
少女を見ると、その顔には寂しさが浮かんでいた。何かを探しているような、誰かを求めているような、そんな表情だ。
その表情には見覚えがありすぎる。少しだけ予感のようなものを感じながら、少年は頷いた。
王女リリィと聖騎士アレスの悲恋の物語。知っている。少年は、その物語を知りすぎるほどに知っている。
王女リリィの悲恋の話は、少年にとっては他人事のように思えなかった。その話を聞く度に、まるで我が事のように少年は自らの心を切り裂いた。
聖騎士アレスの人生を、少年は他人事とは思えなかった。
「ええ、知っています」
その人生を思い出して、少年は顔を歪ませて答える。
王女に恋をしたこと。王女と一緒に過ごした日々。そして、王女を失った悲しみ。
少年は全て知っている。アレスの喜びも悲しみも、恋の尊さも、リリィを失った喪失感も、アレスが感じたことを全て知っている。「そうですか。では、話の中で語られていないものも知っていますか?」
「え?」
思わず尋ね返した少年を余所に、少女が王女リリィの悲恋を語り始める。それを聞きながら、少年はアレスの気持ちを思い出していた。
◆
その昔、この国にはリリィという名の大変美しい王女がおりました。
美しい星空のようだと称えられた王女です。その柔らかい微笑みは人々を魅了し、その明晰な頭脳は人々の暮らしを楽にしました。
理想的な王女であったリリィですが、そんな彼女も年頃の女の子。当たり前のように恋だってします。
彼女が想う一人の男性。それは、彼女の近衛を務める一人の騎士でありました。
聖騎士アレス。神の祝福を受け、妖精が鍛えたとされる聖剣を受け継いた聖騎士です。
アレスもまた、リリィのことを憎からず思っておりました。リリィの柔らかい微笑みと、野に咲く花のような優しさに惹かれていたのです。
民もまた、二人のことを祝福していました。いずれ二人はこの国を導く立場となり、民の生活を見守るのだろうと、そう思っていました。
しかし、それが面白く無い人物が居ました。王女リリィの兄である、王子リラクスです。
リラクスはリリィの人気に嫉妬していました。小さな頃は可愛かった妹も、大きくなってしまえば王位後継者を争う憎き敵でしかありません。
リリィの人気を下げようと、リラクスは様々な嫌がらせをしました。リリィの誹謗中傷を行い、王位を諦めるように詰め寄ります。 ですが、リリィは王位を諦めません。それどころか数々の誹謗中傷を流す犯人がリラクスであると知っているのに、敢えて知らないふりをするのです。リリィとしては、それで兄の気が済むのなら我慢しようと、そう思っていたのです。
それがリラクスには面白くありません。お前など取るに足らないと、そう言われているように思えたのです。
そんな日々が続くものですから、日に日にリラクスの心を黒い闇が覆っていきます。そして、それが最大限に達した頃、リラクスはついに決意してしまいました。
リリィを殺そうと。
それからのリラクスの行動は早いものでした。リリィにはアレスから、アレスにはリリィからと、捏造した手紙を二人に送り、二人が互いに別の同じ場所へ、別々に出かけるように仕向けたのです。
その手紙には、大切なことを伝えたいと書いていました。普段ならば訝しむ二人ですが、お互いが大切に思っているのは周知の事実。ついに想いが叶うのかと、二人は舞い上がってしまったのです。
まさに、恋は盲目。二人の閉ざされた瞳は、その裏にある悪意に気付くことが出来ませんでした。
そうして二人が訪れたのは、精霊が住むと言われる湖の畔でした。透き通った美しい湖です。恋人たちの相瀬の場所としても有名でした。
そして、二人が想いを告げようとしたその時、リラクスが現れました。リラクスの後ろには、金で雇ったと思われるガラの悪い男たちが多数います。
それを見て、二人はこれが罠だと気付きました。ですが、時既に遅し。罠にかかった二人は、そのまま男たちに襲われます。
リリィを守ろうと奮戦するアレス。しかし、いくらアレスが武勇に優れようと、リリィを守らなければならないという状況では、数の差を覆すことは出来ません。
そして、ついにアレスの剣が折られてしまいます。追い詰められた二人は、湖を背にして覚悟を決めるしかありませんでした。
「アレス。あなたのことを慕っていました」
「リリィ様。あなたのことを愛していました」
お互いの気持ちを初めて知った二人は、湖の畔で口付けを交わしました。最初で最後の口付けです。そこに嬉しさはなく、ただただ悲しみだけがありました。
そして、二人は抱きしめあいながら湖へと身を投げました。死して尚離れないように、力強く抱きしめあって。
抱きしめ合った二人は、お互いに離れることなく、湖の底へと消えていきました。
◆
語り終えた少女は、そこで一息つく。そして、持ってきていた水筒を取り出すと、一口だけ水を口に含んだ。
「物語はそこで終わっていますが、これだけでは語られていないことがあります」
ピクリと少年が反応する。何故、少女がそれを知っているのかと。
それを知っているのは、リリィとアレス、そして、アレスのことを知っている少年だけ。それだけだったはずだ。
高鳴る心臓の鼓動を自覚しながら、少年は少女の言葉を聞く。
「死ぬ直前、二人は生まれ変わっても一緒になろうと誓い合ったのです」
それは、語られていない思い。二人だけが誓ったこと。永遠を約束した、儚いけれど尊い誓い。
「そして、それを見ていた湖の精霊は二人を不憫に思い、二人が再び一緒になれるように転生させました」
「この湖の……」
「はい、そうです。そして、この湖に精霊が住んでいるという話は、今では誰も知りません。あなたは、どうしてそれを知っているのでしょう?」
少女の目がスッと鋭くなる。嘘はつかせないと、少年に瞳で語りかける。
その瞳を、少年は見覚えがあった。アレスがメイドと親しげに話しているのを見たリリィの瞳だ。その瞳の前では、アレスは言い訳をすることも出来なかったのを知っている。
そして、その瞳に弱いのは少年も一緒だった。少女にその瞳で見られると、少年の体は硬直してしまい、言葉を口にすることも出来なくなってしまった。アレスと全く一緒である。
そんな少年の様子に、少女はおかしさを耐え切れなかったらしく、口元に手を当ててクスクスと笑い始めた。それでようやく少年は、彼女がからかっていただけだと知り、怒ろうかどうか迷った挙句、苦笑するだけに留めた。
「すいません、つい懐かしくなってしまって。いつまで経っても変わらないものですから」
「そうですね、僕もそう思います」
少年も少女も、お互いに懐かしく思っていた。お互い何も変わっていないのだ。懐かしくなり、そして惹かれ合うのも当然だ。
その後、少年と少女は心ゆくまでお互いのことを語り合った。失った時間を取り戻すように、お互いをお互いで補うように。
だが、時間は残酷なもので、二人が話しているうちに太陽が徐々に沈み始めていた。まだまだ子どもの少年と少女は、日が沈み切る前には帰らなければならない。
名残惜しい物を感じながら、二人は今日のところは別れることになった。
「また会うことは出来ますか?」
「ええ、いつでも会えます。そういえば、自己紹介をしていませんでしたね。私の名前は――です。あなたの名前は何ですか?」
「僕の名前は……」
その日、永遠を誓い合った二人は長い時を経て再会した。