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鶴姫の恋なんて

作者: TK

彼から届いた何日かぶりのメールを溜息交じりで読んで作業へと戻る。

返信はその後でも別に構わない。

作業を中断してまで返信しようとは思わない。

へへ。偉くなったものだ。


だってわたしにはコンプレックスがあったから。コンプレックスがあるから。

今でこそ彼氏からのメールをおざなりにしているけど、

つい4年前まではそんなことは恐れ多くてできなかった。


なぜならわたしは太っていたから。

 


中学2年生のとき、クラスの仲のいい男女でボーリングに行った。

男子3人、女子3人といった構成である。

男子はどうだったか知らないけれど、

女子の方はそれぞれ好きな男子がいて気分はグループ交際だった。


わたしは太っていたしダサかったし、顔も地味だったけれど、

幸い男女問わず人から嫌われるような性格ではなかったことが奏功して、

そういったおませな付き合いに誘われるような立ち位置にあった。


そこにわたしの好きな人もいたから前の週から新しく服を調達したり、

自然な化粧をする方法を進んでいる友達から聞いたりしてその日に備えた。


当日、家を出る前に玄関にある姿見の前に立ち入念に自分の身なりを最終チェックして、

一週間毎日一食抜いたのにまったく変わらない体型に半ば呆れを感じながら、

さて出発、という段になってあるものがわたしの視界に入った。


それは姉がいつも付けていたイヤリング。

一年前に不慮の事故で急逝した姉が肌身離さず付けていたイヤリング。



遺体から回収した遺品で、私が御守り代わりに持っていたいと言ったので、

心労で憔悴した両親は好きにしなさいと言って渡してくれたものである。

それからわたしはそれを持ち歩くことはせず、

姉に見送られているような気がしそうなので、

靴箱の上の小物入れの中に入れておいたのである。



姉が大好きな彼氏からプレゼントされたものだから、

もしかしたら何らかのラブパワーが働くかもしれない、

と験をかつぐ意味でその薄緑色に輝くイヤリングを耳に装着した。

うん。意外と似合っている。

自分の体型をカバーしてくれるように、慎ましやかな存在感を放っている。

何だか勇気が湧いてきた。

お姉ちゃんありがとう。

お姉ちゃんのおかげでもしかするともしかするかもしれないよ。


小声でそう言って跳ねるような足取りで待ち合わせ場所に向かった。



片思いの彼とわたしは非常に打ち解けた関係だった。

教室では事務的な用もないのによくお話しをしたし、お互いからかい合ったりもした。

彼はたまにわたしの体型について軽口を叩いたりしたけれど、

彼に悪意がないことを知っていたので、

その反撃にいつもわたしは彼の薄い眉毛をからかった。


だからこの日も、ともすればわたしの気張った身だしなみを見て何か言うかもしれないけれど、

それだって最初だけだろう。そんな風に思っていた。



「そんなイヤリングつけるより、口元にご飯粒つけといた方がお前には似合ってるぞ」


それが、彼がわたしを見て言った台詞。

確かになかなか面白い言い回しだったし、実際その場は笑いに包まれた。

わたしも笑った。

でも、当たり前だけど傷ついた。



そんな過去を持つわたしが恋をして彼氏ができて、

そしてその彼氏からのメールを後回しにしているのだ。

まったく人生ってわからない。



わたしは多目的公衆トイレ内の広いスペースの隅に立ち、パンツを下ろす。

このときは普段から相手の目を極力見ないように努めることにしている。

足元のタイルを見つめて、そのタイル二つ分のスペースから自分の足がはみ出したらアウト。

というようなルールの遊びを勝手に始める。

そこから顔は上げず意識を足元に集中して片足を上げ、

パンツがそこをくぐり抜けて足が着地したのを待って、

そして残った足を上げる。


気持ち悪い息遣いもなるべくうずまき官に届かないように、

なるべく違うことを考えるようにしている。

例えば知り合いの知り合いの知り合いの…といった風に無限につながりを繰り返せば、

わたしもチャック・ベリーと知り合いになれるのではないかとか、

若しくは死んだら何に生まれ変わってもいいけどザトウ虫だけは嫌だなとか

そんなことを考えて気を紛らわす。


稀に彼氏のことも考えたりしていたけど、

最近ではもうめっきりこの瞬間に彼の顔が頭によぎることはない。

とにかく、目の前の便座に座って何かをしている変態に、

意識をむけないようにすることこそがこの瞬間には肝要なのである。



たいていこの手の変態は何秒間かけて脱いでほしいとかいう注文をつけてくるのが常套。

それはすなわちそいつが自慰行為を終えるまでの時間である。

40秒と言われればゆっくり脱ぐし、1分と言われればそれよりもう少しゆっくり脱ぐ。

でも90秒なんて言われても果たして1分より長い時間をかけて脱いでいるかと聞かれれば、

正直自信はない。


誰も正確になんて計っちゃいないからあくまで気持ちというか目安。

相手の行為が終わるのに合わせてわたしが調整して脱ぎ終わらせる、

なんてサービス精神は残念ながら持ち合わせていないので、

わたしが脱ぎ終わりそうになると相手のこする音がにわかに活発になる。

まことに滑稽だと思う。



ついさっき百円均一ショップで購入したパンツが両の足を抜けると、

そこで目の前の男に思いっきり軽蔑の視線を投げかける、なんてことはしない。

今回のお客さんは脱衣に費やす時間の要求も特になく、

わたしが脱いでいる間に変な行為に及んだ様子もなかったので、

今後懇意してもらいたいという意味も込めて、

笑顔をつくってそれを差し出す。



ネットでのハンドルネームはツルヒメ。

そう名乗る中年の男は無表情でそれを受け取ると、

万札を2枚わたしに手渡し出口をあごで指した。

わたしから先に表へ出ろということらしい。


相場の倍の金額に、追加料金を払うから体を触らせてくれやら、

触ってくれなどと懇願されるのではと構えたわたしだったが、

端に羽振りのいい人だっただけのようだ。

オプションを求める輩がこの取引において非常に多い中、

このオヤジはやけにさっぱりしている。


それでも紳士という印象はまったく受けない。

ごま塩頭で口臭がにんにく臭いどこにでもいる人生下り坂真っ只中のオヤジだ。

こんなやつとたかだか3畳ほどのスペースを、

望んで長時間共有するほどわたしは物好きではないので、

用が済んだというならそれを拒む理由はこちらにない。



少しだけ扉を開けて顔を半分だし、辺りに人がいないことを確認してから表に出る。

すぐに鍵がかけ直された。

わたしの目の前でしなくても結局これからするのだろう。

やはりただの変態には変わりはなかったようだ。

目の前でされるよりは数段マシだが、変態は変態だ。


そう思うと寒気がしてきたので足早にその場を立ち去る。

最後にもう一度顔だけ振り向いてトイレの扉を見るが、

あのオヤジはしばらく出て来そうもない。


多目的公衆トイレと表示されたプレートが目に付いた。

いくら多目的と言っても女子高生と中年オヤジの下着売買の取引現場に使われるとは、

さすがの地方公務員の方々も想定してはいなかっただろう。


僅かな背徳感に苛まれそうになったが、

いつも通り、みんな同じようなことをやっている。

それどころかオヤジに対してだけは体を売っていないのだから、

まだわたしはまともな方だ。

それにくだらない倫理観を少しだけ割り切るだけで、

これはとても割りのいい仕事であることは間違いない。

と思うことで、上手く精神のバランスは保てた。



収穫である2万円を一度握り締め、彼氏に買ってもらった財布に収める。

でも最近いいペースで稼げているのでそろそろ新しい財布に買い換えよう。


そのとき風のいたずらがわたしの制服のスカートをまくし上げた。

向かいから一人で歩いてきた小学生の目が点になった。

しまった。

パンツを履くのを忘れていたらしい。

どうりでさっきから股間の通気性がよすぎる気がしていたんだ。


でも小学生だし気にすることもないだろう。

普段なら1万円にしかならないパンツが2万円に化けたのだ。

これはわたしからのサービスよ、少年。

それでかなり早い性の覚醒が起きてしまったら申し訳ないけれど、

わたしも女の子なので素直に受け取っておいてくれるとありがたいかな。



夏休みで部活動もしていないのに、

制服を着て出歩いているのを学校の人間に見られるのは面白くない。

とっとと帰ることにしよう。

帰って一度着替えて、

1ヶ月ほど前から関係を持っている他校で同い年の男の子と会って情事にふけるとしよう。

彼はわたしをとてもよくしてくれる。

明日はこの前ナンパされて番号を聞かれた大学生と会う約束をしている。

顔はそんなに好みじゃないけどいくらかお金をくれるらしい。


そう。

わたしはオヤジに対してだけは体を売っていない。



一度耳のピアスを指で弾くと、

スカートの裾にちょっとだけ気を遣って早足で歩き始めた。




かつての肥満女が、

自分の過去、太っていたという過去を誰も知ることのない高校へと進学したのち、

華麗なる転身を遂げ、このペースでいけば三十路を迎える頃には、

男の経験は海千山千といった具合になる。


いけないいけない。

彼にメールを返し忘れていた。

前述の通り予想外の収入でテンションが高かったので、

長めの文章に絵文字付きというご機嫌なメールを返信してあげた。


してあげた。

本当に偉くなったものである。


恋に純情さを模索するには

わたしはいささか出会いに恵まれなかったのかもしれない。

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