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四章 玄の冬(1)

 十一月に入ると、途端にルーズソックスが羨ましくなる。

 秋の寒さとは桁違いだ。

 マフラーだけではなく、分厚いコートや、百円の手袋、ストッキングを履いてもなお、服の隙間からひんやりとした空気が入って来る。

 風景や空気も秋とは別物だ。

 校門近くの桜は、すっかり葉が落ち、みすぼらしい。女子達の纏う紺色のセーラー服で唯一目を引く赤いスカーフが目に染みる。

 私は少し息を吐いてみた。それは白い色になり私の前に姿を見せる。

 ――今日はもう帰ろう。

私は、人気のなくなった教室のドアを閉めた。冬の寒さは、慣れない。どうしたって暗い気分になってしまうのだ。寒い国は自殺率が高いという話をどこかで聞いたことがあるが、納得してしまう。

「倉田さん!」

 誰かが私を呼んだ声が聞こえた。大きな声ではないのに、誰もいない廊下に響く。私は声のした方を振り返った。

「山辺……先輩」

 先輩に会うのは久しぶりだった。あの文化祭の日以来だったと思う。正直な話、もう会いたくない。私は、先輩の顔を見ることができなかった。

「あの、倉田さんにお願いがあります。今日の放送を代わって下さい」

 どういうわけか、先輩は言いづらそうに述べた。何か重大な決心でもしたような。

 そうか、もう十一月に入る。三年生は受験で忙しいのだろう。葵に聞いた話では、多くの三年生達は、夏頃に引退するものらしい。合宿にまで参加した、先輩が異常だったのだろう。

 私はそう納得し、了解の返事をするつもりで口を開いた。しかし、声を発する前に、先輩は言葉を続けた。

「それと、文化祭の日には渡せなかった台本が完成したので、放課後の放送で読んで頂けると嬉しいです」

 先輩はそう言うと、鞄から大学ノートを取り出し、私に手渡した。少しだけ指先が触れる。たったそれだけのことなのに、私の心臓は、速くなってしまう。

 窓から射し込む西日が私の顔を照らし、冬だというのに額から汗が噴きだすのを感じた。

「分かりました。それじゃあ、受験頑張ってくださいね」

 その一言を言うのが精一杯だった。私はまだ玉砕した初恋の傷が完治していないのだ。私は先輩に背を向けると、放送室へと足を向けた。

「倉田さん……!」

 先輩の声が聞こえた、それと同時に左手が掴まれる。先輩の冷たい掌の感覚だけが、これは夢ではなく現実で起きていることだということを認識させた。

 掌に、冷たいものが握らされる。何だろう?

「放送部の鍵です。もう引退するので、明日にでも岬先生に渡しておいて下さい」

 先輩の声は、震えていた。何かに脅えているような。受験というのはそんなにもストレスの溜まるものなのだろうか? 受験をしたことのない私には想像もつかない。

「分かりました。それじゃあ」

 そのとき、私は泣いていたのだろうか? 掌の冷たい鍵の感触しか分からなかった。

 いつも通っているはずの廊下が、こんなにも長く感じられたのは初めてだった。数人の生徒とすれ違ったが、放課後らしいとても静かな廊下だった。

 私は、ふと春に放送部へスカウトされた日のことを思い出した。あの日と同じ、夕日の色だ。オレンジ色で目に染みる。唯一あの日と違うのは、吹奏楽部の練習する楽器の音が聞こえないことだけだ。

 放送室に着いた私は、コートを脱ぎ、マフラーを取った。そして、朝と同じようにパイプ椅子に座り、マイクの電源を入れた。

「あー、えーと、放送部からのお知らせです。文化祭の日に発表できなかった台本が完成したので、読んでいきたいと思います。時間のある方は聞いて頂けると嬉しいです」

 私はそう言って、先輩から受け取った大学ノートを開いた。ぎっしりと、流れるような綺麗な文字が並んでいる。

 私は大きく息を吸い、深呼吸をした。

  ***

 皆さんは、学校のチャイムというものを聞いて、どんなことを思うのでしょう? 僕が始めてそれを聞いたのは、小学生のときでした。まだ、ランドセルが身体よりも大きかったときのことです。初めて教室というものに入り、初めて教科書というものを開いた。そんな、とても昔の話です。

 初めて学校のチャイムを聞いたとき、僕はひどく興奮しました。これから学生という身分になる。当時の私には学生というものがとても立派で、大人の仲間入りでもしたような身分であるように聞こえました。サラリーマン、主婦、教師、アルバイト、それらの単語と肩を並べても違和がない。そんな言葉なのです。

しかし、一ヶ月も経たないうちに、あれほどまでに僕を興奮させた音色が、単調で、つまらない、むしろ不安を助長させる耳障りな音へと変貌したのです。その原因は、僕の学生生活にありました。

 毎日毎日、同じことの繰り返し。大きなランドセルを背負って、眠い目を擦りながら学校へ向かい、騒音で訴えられても無理のない教室へ足を踏み入れる。

 そのときが、僕にとってもっとも嫌いな時間でした。一番気を遣うからです。

 素早く友人の顔を探し出し、「おはよう」と元気良く挨拶をする。僕の掌は、じっとりと汗で湿っています。心臓もバクバクと激しく動き、シャツの上からでも鼓動が分かってしまうのではないかと心配するほどです。

 友人は今日もまた、いつもと同じように挨拶を返してくれるだろうか? そんな不安を常にしていたのです。

 そんな僕が、学校という場所で唯一安心できる時間がありました。授業時間です。

 そもそも学校という場所へは、授業を受けるために通っているのです。先生の話を聞いている間は、友人の顔色を伺わなくても良い。いちいち友人の話に対し、感想を述べなくても良い。その事実が、僕をとても安心させてくれました。

 皆さんは、こんなことを考えていた僕をどう思うのでしょう?

 友人に気を遣うなんておかしい。小学生のくせに授業時間が好きだなんて変わっている。そんな感想を抱くのでしょうか?

 それとも、自分も同じだ。それが当たり前だ。今、まさにそんな気分だ。といったことを思うのでしょうか?

 念のため断わっておきますが、僕はいじめられたりはしていませんでした。いじめ、というものを客観的に判断することは、難しいと思いますが、当時の僕は、クラスでも目立ちこそしないが、休み時間に遊ぶ友人に困ったりはしない、そんな立場でした。

 僕の大好きな授業時間と、大嫌いな休み時間を区切っているものが、あの忌まわしきチャイムでした。

もちろんそれは、大嫌いな休み時間から大好きな授業時間へと僕を誘ってくれるものでもあったのです。

 しかし、あるときは甘い音色、またあるときはひどく残酷な音色。同じ音程、同じリズムを刻んでいるというのに、どうしてこんなにも、全く別の感情が添えられるのでしょう? 僕はそんな、コロコロと聞こえ方の変わる音楽を嫌いました。


 中学生になったとき、僕は放送部という部活に興味を持ちました。そのときにはもう、学校のチャイムに対し、以前のような嫌悪感は抱かなくなっていました。小学校の六年間という長い時間をかけて、馴れたのでしょう。

 皆さんもご存知の通り、この学校の放送部は廃部ギリギリの人数です。僕が入学した年の放送部も、今と同じ扱いでした。朝、昼、放課後の放送を、僅か三人という人数で担当していました。

 一年生の僕は、部員の暗黙の了解によって、朝の放送を担当することになりました。

 毎朝の早起きは、馴れてしまうと、それほど苦痛ではありませんでした。少なくとも、六年間でやっと馴れた、大嫌いな音色よりは、ずっと簡単に僕の生活に溶け込んだのです。

 放送部に入部してからの僕の一年は、今までの学生生活で一番、学生らしい日々を過ごしていたと思います。


 中学二年になった僕は、放課後の放送を担当していました。

 毎朝早く家を出る生活から、毎日家に帰るのが遅くなる生活に変わったのです。その生活も、去年と同ように一ヶ月程度で慣れることができました。

 彼女に初めて会ったとき、日本人形のようだ。そう思いました。

 真っ直ぐ腰まで伸びた黒い髪、それとは対照的に透けるような白い肌。僕にはそれが、ひどく神秘的なものに見えました。

 長い睫毛は、彼女が瞬きをする度に、まるで生きているかのような輝きを放ちます。黒目の大きな瞳も、それだけを抉り取り、どこかの博物館に展示されていても違和感がない。宝石のようなそれは、僕の特徴のない顔を映します。

 綺麗に通った鼻筋、これだけは日本人形というよりは、フランス人形に近いと思いました。欧米人のようにスッと伸びたそれは、何時間眺めていても飽きない。そう思わせてくれました。

 薄い唇は、可笑しくて堪らないときに歪められた形が、僕にとって一番美しく見えたのです。無表情のときよりもずっと、綺麗に見える不思議な場所です。

 少し力を加えたら折れてしまうのではないか、と心配するほどの細い指。スカートをギュッと握っています。青い血管が浮き出て見えて、彼女は人形ではなく本物の人間なのだ。そんな当たり前の事実を主張しているようにも見えました。

 その指に握られた、膝丈のスカート。そこから伸びている足は、流行のルーズソックスではなく、紺色のハイソックスを纏っています。それは、今まで僕が見てきたどんな足よりも良い形をしていました。ほどよい肉付き、チラリと見え隠れする膝小僧もまた僕を興奮させる要因のひとつでした。

 彼女は、放送部の入部希望者でした。顧問である岬先生がスカウトしてきた人間であることは、声を聞いた瞬間、理解することができました。

「一年B組の坂本みずきです。よろしくお願いします」

 彼女は、スカートを強く握りながら僕の方を見て、呟くように言いました。聞こえるか、聞こえないかという音量だったのに、当時放送部でメインを張っていた三年生の声よりも、透明感があり、昔僕が嫌っていたあの音楽とは対照的に、ひどく耳あたりが良く聞こえました。

 僕は、初めて彼女に会ったとき、日本人形のようだ。と思いました。坂本さんのその声を聞いた後、僕は何を思ったのか、やはり人間だった。とは思いませんでした。『なんて完璧な人形なのだろう』そう思ってしまったのです。

 幸い、僕のそんな恐ろしい感情の変化を、部員はもちろん、この学校では変態ということで有名な岬先生でさえ気付きませんでした。

 坂本さんは、例のごとく朝の放送を担当しました。彼女の声で一日が始められていた当時を知っている人は、彼女の放送がどれほど素晴らしいものだったかを知っているでしょう。

 僕は、彼女の放送を聞くためだけに、一年生のときと同じ時間に学校へ出かけるようになりました。

 毎朝八時きっかりに聞こえる坂本さんの声。誰もいない教室で、あるときは高く、あるときは低く変化する声がおりなす放送を聞くことが、僕の唯一の楽しみでした。

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