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三章 白の秋(3)

 文化祭が終わると、途端にテスト一色になる。図書室で少しでも話すと摘まみ出されるし、授業をサボろうにも保健室の先生はまず熱を測って来る。

 文化祭の話題はクラスでは禁句だった。私として気が楽だったのだが、部活動で活躍していたクラスメイトは不満顔だった。

 吹く風も冬のものといっても良いくらいに冷たくなり、上着を羽織る生徒も珍しくはない。

 ――英語、補習だけは免れたいな。

 私の悩みはそれに尽きていた。この前の中間事件では赤点ギリギリの点数で、おまけに緊張し過ぎて自分の名前を間違えて書いてしまったのだ。

 岬先生が英語を担当しているというのも大きなプレッシャーだった。担任の先生の科目で赤点を取るのは、なんとなく気まずい。

 テスト一週間前になると、ほとんどの部活動は活動停止となる。放送部も例外ではなく、テスト期間中は先生達が順番に放送を担当していた。

 昼休みの廊下は騒がしい、歩いても歩いても目的地に着かないのではないかと思ってしまうくらい障害物が多い。私は図書室に本を返しに行こうとしていた。一週間も延滞しているので、司書の先生に何を言われるのか少し不安だった。

 気分が沈み、無意識に下を向いて歩いていたようだった。前から来た誰かにぶつかってしまったのだ。

「す、すみません。ぼんやりしてて」

 私はすぐさま本を拾い上げると立ち上がり、頭を下げた。

「あぁ、いいよ別に。」

 良かった。怒られずに済んだ。司書の先生にはどのみち嫌味を言われるのだから、こんなことで怒られたら本当に気分が沈む。

 私は安心して、今度は誰にもぶつからないようにと顔を上げた。すると、知っている顔が目の前にあった。

「あれ、会長さん? お久しぶりです」

 高い身長、猫背気味な背中。開襟シャツはヨレヨレで、少し黄ばんでいた。それとは反対に纏っている雰囲気は明るいものだった。この姿を見るのは夏に会った以来だ。そのときはクラッシック音楽を流さないことにけちをつけてきた。しかしどうして三年生の会長さんが一年生の廊下にいるのだろう。

「佐藤と以前名乗ったはずだが……君は放送部の倉田さんといったな。良かった、探していたんだよ」

どうして、私を探しているのだろう? 正直私はテストのことで頭がいっぱいなのだから放っておいてほしいものだ。

「なんですか? 急いでいるんですけど、手短にお願いします」

 私はできるだけ素っ気ない言い方をした。春に入部をしに行ったときの会長さんの態度を真似てみた。

「いいから、その本図書室に返すのだろ。私が返しておくから話を聞いてくれ」

 会長さんはそう言うと、私の持っていた本をなかば強引に奪い取った。そんなに話したいこととはいったい何なのだろう?

「分かりました。話って何ですか?」

 わずかな好奇心からか、私はそう返事をしていた。

「ここだと話し辛い。今日の放課後、校門で待っている。話はそのときに」

 会長さんはそう言うと、図書室へ向かって歩いて行った。とにかく、司書の先生に怒られることがなくなって、ラッキーだと思うことにしよう。

 午後の授業は英語だった。よりにもよって一番苦手な長文の授業だ。一応予習はしてあるのだが、辞書を駆使しても意味の分からないことだらけだった。授業中は、当てられないように静かにしておこう。


「えーと、ケビンはエンプティーな缶を投げています」

 こういう日に限って当てられるのだ。CDではエンプティーキャーンと聞こえたのだが、キャーンではなくカーン……頭が混乱してきた。ケビンの声は格好良いと思う。

「だからそのエンプティーって何だよ」

 岬先生はイライラしながら言った。順番に一文づつ当てていくなんて聞いていない。予習していないと騒いでいた鈴木さんに答えられて、どうして予習をしてきた私がこんな目にあるのだ。

 エンプティーは辞書では『無意味な』と書かれていた。

「無意味な缶?」

 教室は失笑で包まれた。私はちゃんと辞書をひいたのにどうして笑われなければならないのだ。

 ところでケビンはなぜ無意味な缶を投げたのだろう? きっとカルシウム不足に違いない。イライラは若者の敵なのだ。

「まぁ、大体合ってるな。無意味な缶……空の缶とかで良いと思うぞ」

 岬先生はそう言うと、次の人に長文の訳を聞いた。

 放課後になると、私は普段より疲れていた。英語の授業のある日はいつも疲れるが、今日は一段と神経をすり減らした気がする。

 私はとぼとぼと校門へと向かった。校門の側にある、葉の落ちたみすぼらしい桜に親近感を覚えた。

「倉田さん」

 声のした方に目をやると、会長さんが立っていた。私よりも先に待ち合わせ場所にいた。生徒会長とは色々と忙しいので、私が少し待つことになるかと思っていたので安心した。寒いなか、誰かを何分も待つのはあまり好きではないのだ。

「すみません、掃除が長引いてしまって」

 私は返事をしながら、会長さんの近くへ歩いた。話とは何の話だろう?

「そうか。あー、この辺りで流行っている心霊スポットを知っているか?」

 会長さんの言葉を聞いたとき、私の頭には夏に岬先生が話してくれた教会が思い浮かんだ。昔流行った話題だとしたら、三年生である会長さんが知っていてもおかしくはない。

「山の近くにある教会ですか?」

「あぁ、知っていたか。有名だからな」

 会長さんは頭を掻きながら答えた。

「今から行ってみないか?」

 会長さんはこういった類の話は信じない人だと思っていたので、私はその発言に驚いた。しかし、私はどうしてもあの教会には行きたくなかった。山辺先輩を思い出してしまうに決まっているからだ。

「いや、それはちょっと」

 断ろう。会長さんが何を話したいのかは全く分からないが、あの教会にだけはどうしても行きたくなかった。

「そう、行きたくないなら別に構わないが……ちょっと気になることがあってな、とりあえず立ち話もなんだから、ファミリーレストランにでも行くか。もちろん費用は私が持つぞ」

 会長さんはそう言うと大通りに続く道へ歩き出した。私も断る理由もないので、会長さんのあとを追った。巨大パフェとか頼んでも良いのだろうか?

 ファミリーレストランは思ったよりも混雑していなかった。しかし会長さんと二人きりだと恋人同士に思われそうでなんとなくいやな気分だ。

「私、巨大苺パフェが食べたいです」

 カラフルな写真の載ったメニューには千四百円と書かれていた。これほど高価なものはこんな機会でもないと、食べられないだろう。

 会長さんは私の言葉を聞き、メニューの千四百円の文字を見ると少し眉をひそめたが、何も言わなかった。

 会長さんは一番安い牛乳を頼んでいた。なんだか悪いことをした気分だ。

 注文が済むと、会長さんは真面目な顔で切り出した。

「孝之は今年からどうも様子がおかしいんだ。去年は後輩にまで敬語を使うやつじゃなかった。クラスでももっとノリが良くて、友達も多い方だったんだ。それに、私のことも『卓君』なんて呼んだりはしなかった。普通に『卓』と呼んでいたんだ。いつからあんなになったのか私は思い出した。文化祭の日、坂本みずきが失踪した日からああなったんだよ」

 会長さんはそこまでを一度も息継ぎをせずに言い切った。

 そうか、山辺先輩の口調を執拗に気にしていたのはそんな理由があったからなのか。確かにある日突然友達が敬語を話して来たらびっくりするかもしれない。

 彼は呼吸を整え、また言葉を続ける。

「あいつは同じ時期に油絵を描いていたんだ。放課後の放送は私が代わっていた。どうせすぐ期末テストになったし、数週間ほど代わっただけだったよ」

そのとき店員さんが、巨大苺パフェと牛乳を持って来た。

 美味しそうなパフェに私は目を奪われ、スプーンを手に取り、パフェをすくい、口に入れた。とろけるような柔らかい食感。ほどよい甘さと苺の酸味のハーモニーは最高だ。

 会長さんは、牛乳で喉を潤すと続きを話し出した。

「私は知っての通り、クラッシックが大好きでね。放送を代わっている間は毎日クラッシック音楽を流し続けていたよ。孝之も、それまではクラッシックを頻繁に放送で流していてね、今みたいに全くクラッシックを聞かないということはなかった」

 私はパフェを味わいながら会長さんの話に耳を傾けていた。

 山辺先輩の話を聞いても、以前のように喜ぶことはなかった。聞けば聞くほど悲しい気分になるだけだ。

「私は山辺がクラッシック音楽を流さないのは、文化祭の日前後に何かあったのが原因だと思う。クラッシック聞くと思い出すのだろう、その時期を」

 会長さんは既に牛乳を飲み終えていた。私のパフェは、まだ半分ほど残っている。英語の授業で使った頭には甘いものが最適だ。

「どうしてそう思うんですか?」

 私は一応会長さんに尋ねることにした。私にとってはもう山辺先輩が何をしていようが、去年とどれほど変わってしまっていようがどうでも良いことだった。

「きっと、当時孝之が描いていた絵はコンクールで受賞したあの絵だ。昔はあんな絵は描いていなかった。確かに上手い絵だが、綺麗な風景画が得意だったんだ。それを……あんな……。きっと価値観を塗り替えられる大きな出来事が起きたに違いない!」

 会長さんは声を荒げてそう言った。自分でも大きな声を出してしまったことに気が付いたのか、小さな声で言葉を続けた。

「すまない。しかし、あの失踪事件と孝之の変化は何か関係があると思うんだ。こんなことを君に話すのはおかしいかもしれないが、同じ放送部員なら何か知っているのではないかと思ってね。孝之について何か知っていることがあったら教えてくれ」

 私はパフェの半分溶けたアイスクリームを口に運んだ。

 私は去年の山辺先輩を知らないのだから、気付くも何もないではないか。でも気になることは私にもあった。

「クラッシックをかけるなと言われました。入部してすぐに」

 私は以前会長さんに嘘をついたことを認めた。

 会長さんは小さく息を吐き出しながら、「やっぱりな」と言って笑った。

「……それと、山辺先輩はあの教会を恐れているように思います」

 私の告白を断ったときの、先輩の矛盾した行動。『断罪してください』というタイトルの生首を描いた気持ち悪い絵。教会へ行くのを拒んだ理由。そして行方不明の坂本みずきという生徒。

 去年の放送部では、いったい何があったのだろう?

「教会か……確かにあそこは怪しいな。しかし君は行きたくないのだろう?」

「はい。それと、会長さんも行かないほうが良いと思います」

 なんだかいやな予感がした。山辺先輩は、もしかしたら頻繁にあの教会に赴いているのではないか? 私はそんな気がしてならなかった。もし今から教会に行ったら、何かが崩れてしまうのではないだろうか? よく分からないが、この一年間保たれていた秩序が崩壊するのではないかと思った。

「どうしてだ。君は孝之のことをなんとも思わないのか? 私はてっきり君が……」

 会長さんはそこで言葉を切った。さっきまでせわしなく動いていた私のスプーンが止まったからだ。

 私は絶対に泣かないと決めていた。少なくとも家に帰るまでは絶対に。

「いや、別に良いんだ。私もこれから塾があるし……家に帰るとしよう」

 会長さんは私の気持ちを察したのか、レシートを手に取ると席を立った。

 私と会長さんは、ファミリーレストランを出た。

 会長さんは店を出たあと、どこか哀愁のこもった目で財布を見つめていた。いったいどうしたというのだろう?

「あー、えーと。それじゃあ送って行こうか」

 その台詞に、私は驚いて会長さんを見た。会長さんは人を送るなんて親切なことをする人間ではないと思っていたのに、意外だ。

 私は余程彼のことを見つめていたのだろう。

 明後日の方向を向いていた会長さんが、私の方を向いた。

「なんだ? 私は何かおかしいことを言ったか?」

 会長さんは、訝しんだ顔で私を見ながら言った。

「あ、いえ結構です。まだ時間も早いし、会長さんに送っていただいても気持ちが悪いだけなので」

 我ながらひどいことを言ったと思う。けれど、会長さんのその親切な台詞には何か裏があるのではないかと疑わずにはいられなかった。

 私は踵を返し、駅の方向へ歩き出した。家へ帰る道で、駅を通るのは遠回りだが、いかんせん道が明るいので冬は専らこの道を使う。

 私がやや早足で歩いていると、後ろから会長さんの声がした。

「……気持ち悪いって君、それは言い過ぎではないか。だいたい私は君のパフェ代を払ったのだぞ。もう少し感謝してくれても良いのではないか」

 会長さんはすぐに私に追いついて、隣を歩く。山辺先輩と歩いたときはあんなにドキドキしたのに、今は全くそう感じないのが不思議だった。

「それは、会長さんが言い出したことじゃないですか。それにこれから塾なんですよね。受験生だという自覚が足りないんじゃありませんか」

 私は少し挑発しながら会長さんの意図を探った。

 あの会長さんのことだ。ただ私と帰りたいから付きまとっているわけではなさそうだ。

「私は佐藤だ。そもそも君に受験生の自覚云々言われる筋合いはない。それに、孝之なら……」

 私は、会長さんの口から山辺先輩の名前が出たことに狼狽した。つい先ほど、私が先輩のことを考えていたのを見破られた気分だった。

「山辺先輩なら、何ですか?」

 私は会長さんに、言葉の続きを求めた。

 会長さんはきっと、私が山辺先輩のことを好きで、かつ振られたということを勘づいていると思う。彼は彼なりに、私に気を遣って言葉を続けなかったのだ。

 だからなのか、私が会長さんに続きを促しても、彼は口を閉ざしたままだった。しばらくの沈黙が続く。

 人通りの多い道を歩いているはずなのに、騒がしいはずの周りの音が全く聞こえなかった。

「私、山辺先輩のことが好きでした」

 沈黙に耐えきれず、私は言葉を発した。どうせ会長さんはファミリーレストランでの私の態度で勘づいているだろうし、山辺先輩の秘密を知りたい気持ちは私も同じだ。

「でも振られたんです。あの教会で」

 私は静かに事実を伝えた。

 なぜ葵にも言っていなかったことを、会長さんに話しているのだろう。そう考えるとなんだか、今この瞬間がとても滑稽な時間に思えた。

 私は少し笑ってしまったかも知れない。本当におかしくて笑ったのだが、会長さんから見たら自傷的な笑いに見られても仕方がない顔だったと思う。

 会長さんの性格なら、振られた私を散々馬鹿にすると予想していたが、どうやら間違いだったようだ。

 彼は、ただ静かに「そうか」と呟いただけだった。

 会長さんは意外と良い人なのかも知れない。

 山辺先輩の話題が出たことで、私は先輩に振られた日のことを思い出した。

 文化祭の日に、先輩は学校を休んで教会にいた。確か、坂本さんが行方不明になったのも文化祭の日だ。

 そのことに気付いた私は、駅へ向かっていた足を止めた。隣を歩いていた会長さんも、私に合わせて立ち止まった。

 突然足を止めた私を不審に思ったのか会長さんが声をあげた。

「倉田さん? ちょっと、大丈夫か?」

 会長さんの掌が私の肩に触れる。僅かに伝わるその重さは、暖かかった。

「……行きます。私」

 私は自分に言い聞かせるように強く言うと、くるりと左側を向き、暗い路地に入ろうとした。

 しかし、足を踏み出した瞬間。鞄を持っていない左手を会長さんに捕まれた。それは、そんなに強い力ではなかったけれど、私を引き止めるには十分だった。

「おい、行くってどこに?」

 会長さんは驚いた様子でそう訊ねた。時間はまだ早いが、空はもう既に真っ暗だった。

 教会があるのは隣町との境にある山だ。私達が歩いて来た、駅に通じる明るい道とは比べものにならないくらい危ない場所だろう。

 それでも私は、もう一度あの場所へ行ってみたくなったのだ。

 ファミリーレストランなんて寄らずに、初めから会長さんと行けば良かったかも知れない。

 しかし会長さんも暇ではないのだ。仕方がないが、今から私一人で教会へ行こう。

「教会です」

 私は、それが自分の強い意思だということを強調するために、会長さんの目をしっかりと見据えて言った。会長さんは、そんな私の気持ちを理解したのかそうでないか分からないが、小さくため息をつき、了解の返事を口にした。

「分かった。私も行こう」

 会長さんも私と同じように、私の目を見据え、きっぱりとした口調で言った。

「でも、塾があるって……」

 会長さんの言葉に、私は少し狼狽しながら返事をした。

 『受験生の自覚』云々語ってしまった手前、「はい、そうですか」と会長さんの言葉を受け入れるわけにはいかなかった。

「かまわない。それに、もともと私が誘ったのだしな」

 会長さんは事も無げにそう言うと、悪戯っぽい笑顔を見せた。

 ――初めから教会に行っていれば……。

 私は申し訳ない気持ちになったが、だからといって巨大苺パフェの代金を会長さんに返すつもりは毛頭なかった。

「そういえばそうでしたね」

 私はさらりと機械的に唇を動かすと、教会へ続く暗い路地を進んだ。

 人一人通るのがやっとというくらいの細い道だ。道の片方は植物の壁で、もう片方は民家との仕切りであるブロック塀で形成されていた。

 会長さんは何も言わずに、私の後ろを歩いてきた。

 耳から聞こえるのは、二人分の砂利を踏む足音だけだ。

 しばらく進むと、山道へ出た。砂利の敷かれた道が落ち葉の柔らかい道に変わり、足を進めるたびに聞こえるパリパリとした乾いた音が心地よかった。

「そういえば、妹と仲が良いらしいな」

 私が静かな雰囲気を楽しんでいると、会長さんが沈黙を破った。妹、とは誰のことなのだろう?

「妹さん、いらっしゃったんですか?」

「ああ、君は知らないのか? 一年A組の佐藤葵。葵は君の話をたーまにしているぞ。本当にたまにだがな」

 そこまで「たまに」という単語を連呼しなくても良いと思うのだが……。

 しかし、会長さんの言うようにそこまで親しくないのも事実なので、私は相槌を打った。

「そうですか。まぁ、それほど仲良くありませんから。……ていうか葵のお兄様だったんですか?」

 私は驚いて会長さんを見た。葵に兄弟がいるなんて話は一度も聞いたことがない。

「なんだ、知らなかったのか。まぁ葵も昔のように私を『お兄ちゃん』と呼ばなくなったのだけどな。時の流れは悲しいものだ」

 会長さんは、そう言いながらどこか遠くを見るような目をしていた。

「しかし、文化祭では世話になったらしいな。落語とは考えたものだ。私は『たがや』が好きだな。花火は最高だ」

落語の演目について語る会長さんは、葵にそっくりだった。

私はそれをほほえましく思いながら「そうですか」と返事をした。

兄弟のいない私には、そのような存在は羨望の対象だったのだ。

 暫く足を進めると、鬱蒼とした道の先に教会が見えてきた。

「会長さんは、この教会のどんな噂を知ってますか?」

 私が訪ねると、会長さんは真面目腐った咳払いをしてからゆっくりと話し始めた。

「私は戦時中の外国の幽霊説を推すぞ。外人の幽霊ってどんな格好で出てくるんだろうな? 着物は着てないだろうし、綺麗なお姉さんだったら良いな。幼女も捨てがたいな。食人家族の話は突飛過ぎる」

「あはは、結構詳しいんですね」

 会長さんがありえないことを口走っていたような気がしたが、きっと私の空耳に違いない。こんなお兄様を持った葵を羨ましいと思う気持ちも冷えていった。

 教会の扉は簡単には開かなそうに見えた。大きく、何十年も扉として機能している威厳が確かにあった。

 会長さんがそっと扉を押した。

 ほんの少し、触れているだけのようにも見えた。それでも扉は軋んだ音ひとつ立てず開いた。

「誰も、いませんね」

 私は、もしかしたら山辺先輩がいるのではないかと思っていた。しかし、教会の前にはだれの姿もない。

 私はふと、文化祭の日を思い出した。

 山辺先輩は、私をこの教会に近付けさせまいとしていた。

 何か理由があるのだろうか?

「そのようだな」

 教会の中に足を踏み入れると、埃の匂いが鼻をついた。

 そして、どこか懐かしい雰囲気を纏っている。ステンドグラスが夕焼けを通して、幻想的な風景を演出する。小さなオルガンにいくつもの色の光が映り、まるでオルガンそのものに色が付いているように感じた。

 しばらくの間、私は目の前の幻想的な雰囲気に言葉を失っていた。

 会長さんも同じだったのか言葉を発することはなかった。

 私達は教会の中を歩きまわり、ときに座り、膝をついてお祈りのポーズをとってみたりした。

 五分ほど経った頃、会長さんがおもむろに声をあげた。

「お、おい」

 教会の中では声が綺麗に響く。どんな原理かは分からないが、音が空から降ってくるように感じるのだ。

「どうかしました?」

 私は会長さんのいる、オルガンの側へと歩いた。

 静かな教会には、私の足音だけが聞こえる。新しい革靴は、コツコツと幻想的な音を出した。いつも聞いているはずの音なのに、どうしてこんなにも違って聞こえるのだろう?

「……」

 会長さんは、無言でオルガンの裏側を指さした。

 指の先には、下へ降る階段が続いていた。覗きこんでみても、暗くて先が良く見えない。

「電気とか、ないですかね?」

 私はそう言いながら、電気のスイッチを探した。

 色つきの光で照らされた教会の壁を見渡しても、それらしきものは見当たらなかった。

「あぁ、これか?」

 カチリ、という音と共に、階段の先が明るくなった。

 しかし、婉曲している階段の先は、降りてみないと何があるのか分からないままだ。

「……行くか」

 会長さんが、静かに声をあげた。聞こえるか聞こえないかという音量の掠れた声。

 そんなに離れた距離に居るわけでもないのに、とても聞き取り辛いものだった。

「そりゃ、行きますよ」

 私は自分を勇気付けるように、あえて大きな声で返事をした。

 自分の声は数秒後、少し低い音程になってこだました。それは、会長さんの声と同じく、頭上から降ってくるように感じた。

「……だよな」

 会長さんは、力ない返事をため息と共に吐き出す。

 もしかすると、怯えているのかも知れない。いや、あの会長さんのことだ。こんなことでビビったりはしないはずだ。

 しかし、会長さんの口調のせいで、なんだかおかしな雰囲気だ。

 私はこの場の空気を変えるために、明るい話題を振った。

「知ってます? 幽霊には、芳香剤が効くらしいんですよ」

 幽霊の話をしたのは、きっと私もこの教会の噂を信じているからなのだろう。

 根も葉もない噂話に過ぎないというのに、私は怯えている。

 そう考えたとき、首筋を冷や汗が流れるのを感じた。

「なんだそれ? トイレにあるやつか?」

 会長さんは、私の言葉に静かな声で応じた。

 明るい話に繋がる気配は感じられない。このまま放っておくと、この神妙な空気で覆われた場所から永遠に脱出することができないのではないか?

 そう思うと、なんだか急に恐ろしくなった。

「昔の友達が言ってました。ということで、会長さん。トイレを消臭するやつとか持っていませんか」

 私が機械的に唇を動かすと、会長さんは動揺した早口で応じた。

「馬鹿か君は。そんなもの美化委員だとしても持ち歩いていないぞ。おまけに私は美化委員ですらない、生徒会長だ。分かっているのか? その気になれば放送部なんて廃部にできるんだ。それをしないのはなぜか分かるか? 毎日の放送を生徒会が肩代わりするハメになるからだ。これ以上仕事が増えるのは真っ平だ。それにこの前の模試だって……」

 長い長い台詞を話した会長さんは肩で息をしていた。

 模試って……。

 会長さんの成績なら模試の成績もかなり良いだろうに。高等専門学校にでも行くつもりなのだろうか?

 会長さんみたいなタイプはロボットとかが好きそうだから、あながち間違っていないかも知れない。

「会長さん」

 私はゆっくりと口を開いた。

 さっきまで、あんなに幽霊を恐れていたのに、会長さんの進路を予想している自分を滑稽に感じた。

「な、何だ」

「受験ノイローゼとか、気を付けてくださいね」

 私は悪戯っぽい笑顔を作ってみせた。

 そして会長さんに背を向けると、階段を降りた。

「あ、あぁ」

 会長さんの小さな返事が、背後で聞こえる。

 それと同時に、『ギシッ』という、乾いた木材の音が耳に響いた。

 オレンジ色の光で照らされた階段は脆く、半分腐っているようだった。

 足場が不安定な上、手すりもないので、私は壁に手をつきながらそろそろと階段を降りた。

「おい、速くしてくれ」

 会長さんの声が後ろから聞こえる。

「うるさいですよ。上級生だからって威張らないでください。大体上級生だったら、先に行ってくださいよ」

 私は、強い口調で答えた。会長さんの言う通りにするのは癪だったが、私は歩くスピードをあげ、なんとか階段を降りきった。

 階段の先には、一つのドアがあった。それは、私よりずっと高い会長さんの身長よりも大きかった。

 小さな電球だけが頼りの、薄暗い空間にぽっかりと浮かぶドアノブ。

「か、か、会長さん」

 私は思わず後ろを歩く会長さんの方を振り返った。

「なんだ、ゴキブリでも出たか」

 会長さんは悠長に階段を降りている。

 私に速く歩くように催促しておいて、なんて人だ。

「ち、違いますよ。ほら、これ……」

 私は左手の人差し指を、目の前にあるドアノブに向けた。

 会長さんは目を細めながら、ゆっくりとドアノブに近付く。

「……血」

 会長さんの、乾いた声が聞こえたような気がした。

 ドアノブが元々が何色だったのかは分からない。私の目の前にあるそれは、赤黒いものがベッタリとこびり付いていたのだ。

「あのう、入ってみませんか?」

「な、何を言っているんだ。私にこれを触れと言うのか?」

 会長さんは、ひどく動揺した声で答えた。

 私に開けさせるつもりなのだろうか?全く、どこまで意気地のない人なのだろう。

「このドアを開ければ山辺先輩の秘密が少しでも解明されるかもしれませんよ」

 私はそう言いながら、会長さんの腕を掴み、なかば無理矢理にドアノブを握らせた。

「……」

 会長さんは無言で、ゆっくりとドアノブを捻った。しかし、半分も回転しないうちに、その動きが止まる。

「鍵が、掛かってる」

 会長さんの安堵の声を聞いた私は、階段の方を向いた。

 ドアに鍵が掛かっていて、安心したのか、落胆したのか、自分でもよく分からなかった。

 ――帰ろう。

 そう思い、目の前の階段を見上げる。

「……!」

 会長さんが、隣で息を呑むのが聞こえた。

 降りているときには気付かなかったが、階段にはドアノブとは比べものにならない量の血液が付着していた。

 私がぼんやりとそれを眺めていると、隣から会長さんの叫び声が聞こえた。

叫び声は地下に反響し、何度も何度も私の耳にこだます。

 一瞬遅れて階段を駈け上がる音。これは声とは異なり、反響しなかった。

 私はそれらを、どこか遠くで起こっている出来事のように感じていた。

 地下に何の音も響かなくなってからやっと、私は我に返った。

 ――寒い。

 肌で温度を感じて初めて、言いようのない恐怖が襲って来た。

 転ばない程度に気をつけながら、早足で階段を上り、電気のスイッチを切って教会を出る。

 教会を出るとすぐに、会長さんの姿が見えた。

「何なんだ、あれ。まさか……」

 会長さんが震える声で何かを言う前に私は話しを打ち切った。きっと食人家族の噂の話でもするつもりなのだろう。

「わ、分かりません」

 狼狽した私たちが、無言で家路を急いだのは言うまでもない。

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