三章 白の秋(2)
秋の天気は変わりやすい。つい先日までマフラーが必要なほど冷たい風が吹いていたというのに、今日は太陽の照りつける暑い日だ。
群青色の空を眺め、私は誰もいない屋上でため息を吐いた。
文化祭当日。私のクラスは、提出したレポートを机の上に並べただけの素っ気ない出し物となっている。当然クラスメイト達は部活動に全力を注いでいる。もちろん私も放送室へ行き、午前中は忙しく過ごしていた。
午後は予定通り、山辺先輩の書いた台本を読む予定だったが、どうやら先輩は欠席しているらしい。放送部での出し物は諦めた方が良いだろう。
することのなくなった私は、職員室から屋上の鍵をくすね、こうして空を仰いでいる。
――帰っちゃおうかな。
不意にそんな考えが頭に浮かんだ。文化祭特有の浮わついた雰囲気は、なんとなく苦手だ。なぜあんなにも楽しそうにできるのだろう。
私は屋上から校庭を見下ろした。焼きそば、パフェ、チョコバナナ等の出店が並んでいる。ここから見ると、人間がとてもちっぽけなものに見えてしまう。
――やっぱり帰ろう。
私は校舎に入り、階段を下りて誰もいない職員室に鍵を返した。良かった、誰かに見つかったら大変なことになる。
騒がしい学校をあとにして、私はこれからどこへ行こうか迷った。こんなにも早い時間に帰ったらお母さんに不振に思われること必至だ。とりあえず、あと一時間くらいはどこかで時間を潰しておいた方が良いだろう。
――古本屋で立ち読みでもしようか。
私は小学生の頃、足繁く通った古本屋へと向かった。駅前にある本屋のように大学生のお姉さんではなく、背の低い、白髪の混じったお爺さんが一人で店番をしているその古本屋が大好きだった。静かで落ち着くし、何時間立ち読みをしていても何も言われないからだ。
古本屋へと続く道は、家とは反対方向だ。山に近い場所なので、緩やかな上り坂が続く。人通りも少なく、木々がうっそうと生い茂っている道を越えると、やっと到着することができる。
私はその薄暗い道が苦手だった。走ってしまえば一瞬なのに、なぜかゆっくり歩いてしまう。そうさせてしまう不思議な雰囲気のある道だった。
私はふと目線を右にずらした。生い茂った木々の間から見えるのは……。
「きょ、教会?」
どうしてこんな場所にこんな建物があるのだろう? 私の頭は混乱した。これは夏の合宿で岬先生がした怪談話に出てきた教会ではないか? 立地からして、他には考えられない。
こんな偶然があるものだろうか? 小さい街だから、確率的にはそこまで低くはないのかも知れない。
私は古本屋のことなど忘れて、目の前の古びた教会へと足を進めた。足元に落ちている枯れ葉を踏みつけるたびに、高揚感が増してゆくのが分かった。
この辺りには心霊スポットというものがない。「怖い」と言われているものが好きな私だが、わざわざ電車を乗り継いで出掛けたことはないのだ。本物の心霊スポットへ向かっているという事実は、ひどく私を興奮させた。
「あれ?」
段々と教会の全貌が見えてきたとき、重そうな扉の前に誰かが立っているのが見えた。
私は一瞬、教会に近付くのを躊躇した。「心霊スポット」として知られている場所に、一人で立っている。これは変質者か何かではないのか?頭のおかしい人かも知れない。
私は立ち止まり、辺りを見渡した。先ほどまで群青色だった空が、綺麗なオレンジ色に染まりつつあった。
そんな普通の景色に少し安心したあと、大きく深呼吸をし、目を凝らして教会のそばに立っている人物を見た。
白い半袖の開襟シャツ、黒のズボン。うちの学校の制服に似ている。そうだとしたら、近付いてもまずいことにはならないはずだ。そもそも私は教会の中に用があるのだ。教会の外に突っ立っているだけの人物なんて、無視して通り過ぎれば良いだけの話だ。
私は意を決して再び歩を進めた。段々と開襟シャツを着た人物が鮮明に見えて来た。
驚くことに、開襟シャツの人物の方から話し掛けて来た。
「あれ? 倉田さんじゃないですか。すみません、台本、完成しませんでした」
山辺先輩だった。ひどく動揺した声色だ。台本も書かずに文化祭をサボり、こんなところで時間を潰していることを、後ろめたく思っているのだろうか?
そんなことより私は、以前の告白の一件を思い出し、先輩の顔をまともに見ることができなかった。
「別に、構いませんよ。それよりこの教会って、夏に岬先生が話してくれた教会にそっくりですよね」
――何か話をしなければ。
そう思い、私は教会について話しを振ることにした。
「立地からすると、そうですね。でも入らない方が良いですよ」
山辺先輩は動揺した声色のまま答えた。
どうして中に入ってはいけないのだろう? 山辺先輩は合宿のときも、この教会へ行くことを強く反対していた。
「どうしてですか? 大丈夫ですよ。怖くないですから」
きっと先輩は怖いものが苦手なのだろう。私は一人で教会の中に入ろうと、足を進めた。
「倉田さん!」
山辺先輩の大きな声が聞こえた。それと同時に左腕が捕まれる。簡単に振り払えてしまえる弱い力だった。
「そういえば、返事をしていませんでした」
先輩は、なかば強引に話題を変えた。「返事」というのは、私の告白のことだということは分かりすぎるくらいに分かった。
――聞きたくない。
そんな思いで一杯だったが、なぜか私は先輩の手を振り払うことができないでいた。
「すみません。倉田さんの気持ちは嬉しいのですが」
分かりきっていた答えなのに、私は涙が止まらなかった。
家に帰りたい。いや、この場で溶けていなくなってしまいたかった。
「そうですか。分かりました」
それだけ言うのが精一杯だった。教会のことなんてもう考えられない。私は先輩に掴まれている左腕を振り払った。
一瞬だけ、秋の冷たい風が吹いた。私の膝まで伸びた紺色のスカートがなびく。咄嗟に右手でスカートを掴んだ。どういうわけか、何も悪くないはずの秋の風に怒りを感じ、最後に山辺先輩を睨み付けてやろうと思った。ハンカチなど上品なものは使わず、セーラー服の袖でゴシゴシと涙を拭い、後ろを振り返る。
先輩は悲しそうな、困ったような顔をしていた。かわいそうなくらいに情けない表情だ。どうしてそんな顔をするのだろう? 今かわいそうなのは間違いなく私のはずなのに。
私は怒りとも、悲しみとも言えない感情をどこにぶつけたら良いのか分からなかった。大声を出して泣いたり、ものを投げたりすればすっきりするのかも知れないが、そんなことはしなかった。ただ、右手でセーラー服のスカートを強く握っただけだった。
「倉田さん」
そのとき先輩の静かな声が響いた。同時に再び腕を捕まれる感覚。先ほどとは全く異なる強い力で引っ張られる。
気が付くと私は山辺先輩に抱き寄せられる格好になっていた。今までで確実に一番山辺先輩に近い位置だ。耳元で聞こえる呼吸や、心臓の鼓動がひどく現実離れしているように感じた。
しかし先輩は私の愛の告白を断っておきながら、何を思ってこんな行動を取っているのだろう?
そう考えながらも私は、強い力で私を抱きしめる山辺先輩の腕を振り払うことはしなかった。
「……僕は弱い人間です。どうしようもないくらい」
先輩は呟いているような小さな声でそう言った。
先輩が何を考えているのか私には分からない。けれど今だけはこうしていたかった。教会の探索はまたの機会にしよう。
私は無言で先輩の背中に手を回した。
秋の風は相変わらず冷たいまま、私の頬を撫でて行った。
その日ほど、学校へ行くのを躊躇った日はないだろう。文化祭二日目の今日は、クラス委員長の鈴木さんが楽しみにしているだろうミスコンテストが開催される日だ。
群青色の空が綺麗な今日は、昨日ほど暑くはなかった。良いミスコンテスト日和となるだろう。
私は昨日と同じく職員室から拝借した鍵で屋上へと侵入し、寝転んで青い空を眺めていた。視界の全てが空色だ。こうしていると、自分が空に向かって落ちている最中なのではないかという錯覚に陥ってしまう。
「梢、探したんだよ。どうして、クラスにいないの?」
いきなり声を掛けられて驚いた。勝手に文化祭中は立ち入り禁止の屋上に入っていることがバレたら反省文を書かされてしまうかもしれない。びくびくしながら上半身を起こし振り向くと、最近顔を合わせていなかった葵がいた。
「なんだ、葵かぁ」
脱力しながら安堵のため息をつく。しかし、なぜクラスの異なる葵がわざわざ私を探しに来たのだろう?
「なんだはないでしょ、なんだは。せっかく私が一生懸命探したってのに。あんたのクラス、レポート用紙が床に散乱してたよ。せめて重石くらいは乗せなさいよ」
葵は自身の長くウェーブのかかった髪を耳に掛けながら、なかばあきれたように言った。私と同じセーラー服ではなく、フリルの付いた派手なピンク色の丈の短いワンピースを着ていた。正直趣味が良いとは言えない。
私は、葵のその奇抜な服装を凝視してしまっていたのだろう。葵は私の視線に気付き、口元を緩ませながら得意げに話した。
「この服ね、私の手作りなんだー。メイド喫茶やってるから、ぜひ来てね」
きっと宇宙人のコスチュームプレイか何かなのだろう。文化祭で喫茶店をクラスの出し物として行うという話は、以前聞いたことがあったような気もする。
しかし、こんなにも奇抜な格好をしたウエイトレスがいる喫茶店に好んで入る客がいるのかどうかは甚だ疑問ではある。私は目の前にいる友人の趣味の悪さに小さくため息をつきながら、話を戻した。
「で、どうして私を探してたの?」
私が訊ねると、葵は思い出したようにポンと手を叩いた。喫茶店の話をすることに夢中で本来の目的を忘れていたらしい。
「そうそう、なんか私ミスコンの代表者に選ばれちゃってさぁ、一発芸とかやらなきゃいけないみたいなんだよね。どうしよう」
そこまで心配している様子ではなかった。どちらかというと、私にミスコンテストの代表者に選ばれたということを自慢しているような口ぶりだ。
「落語でもしてみたら? 意外性があって歌とかダンスとか歌より被らないと思うし」
私は葵が少し前に落語に嵌まっていたことを知っている。それこそ暗記するくらい好きらしいので、一席くらい披露できるのではないだろうか?
「うーん、確かに被らない気はするね。ありがとう」
葵はにっこりと綺麗な笑顔を見せると校舎の中へと戻って行った。
歩きながら一人でぶつぶつと「秋っぽい話、秋っぽい話」と繰り返しているのを私は聞き逃さなかった。
再び一人になってしまった私は、寝転んでしばらく昨日のことを考えながら目を閉じた。山辺先輩は一体私を何だと思っているのだろう? もともと変わった人なのかもしれない。受験ノイローゼというもので頭が沸騰してしまったのか?
色々な考えが頭の中を飛び交ったが、昨日あまり眠れなかったせいもあり、私の瞼は段々と重くなって来た。睡魔はいつでもどこでもやって来る。私は目の上にハンカチを乗せると夢の世界へと落ちて行った。
……私は夢を見ていた。
自分が夢を見ていると認識しながら見る夢を明晰夢というらしい。
夢の中の私は校庭を歩いていた。出店も、舞台も一切ない校庭はひどく殺風景だった。
不安になった私は辺りを見渡すが、校庭には人っ子一人いない。夏のようにジリジリと照りつける日射しが暑かった。
ふと、上を見上げると群青色の空が落ちてきた。なんともいえない浮遊感。もしかしたら空が落ちたのではなくて、私が空に落ちたのかも知れない。
……暑い。
喉が乾いた。
そう思ったとき、私はスピーカーから流れる大きな機械音で目が覚めた。いやな夢だ。
ゆっくりと瞼を開くと、直射日光が顔に当たった、通りで暑いわけだ。どうしてあんな夢を見たのか分かったような気がした。
腕時計は午後の二時を指している。小腹が空いたような気もするが、私は先ほどの大きな音の正体を確かめようと屋上から校庭を覗いた。
昨日まで屋台が立ち並んでいた場所は特設ステージに変わっており、何人かの女生徒がステージに立っている。どうやらミスコンテストが始まったようだ。
一クラスに一人が代表として選ばれ、文化祭でグランプリを決めるミスコンテスト。私のクラスからは委員長の鈴木さんが出場しているはずだ。
どうやらかなり選考は進んでいるらしい。勝ち進んだ者の中には着物を着た葵の姿があった。
鈴木さんは脱落したらしい。あれだけ準備をしていたのに残念なことだ。こんな結果になるくらいだったら、何かクラスの出し物でも企画してくれたら良かったのに。
私はそう不満に思いながらも、葵が勝ち進んでいることに興味をそそられ、もう終盤のミスコンテストの様子を眺めることにした。葵は私のアドバイス通り落語を披露するようだ。
耳当たりの良い葵の落語は、純粋に楽しいと思えた。『目黒の秋刀魚』と綺麗な字でステージの端にあるめくりに書かれている。確かに秋っぽい話ではある。有名な演目だからか会場からは笑い声も起き、実際に声は聞こえないが見ているだけで、楽しいと思った。
最終選考の票の集計をしているとき、私は葵に一票入れておけば良かったと後悔した。クラスも違う、あまり親しくない友人だが、やはり葵は友達なのだ。私は葵が入選するようにと、キリスト教徒でもないのに両手で十字架を作り、天に祈った。
やはり投票しておけば良かった。葵は三位。グランプリでも準グランプリでもない中途半端な順位だ。
しかし一年生の中では一番という大健闘の順位だった。葵は着物姿のまま新聞部のインタビューも写真部の撮影も受けずに真っ先に私のいる屋上へとやって来た。
「やっぱ梢は着眼点が違うね。うん」
なにやら私を誉めているつもりらしい。馬鹿みたいに真面目な顔をつくり、一人で頷いている。私はなんとなくいい気分になった。
「そんなことないよ。私投票してないし」
私はミスコンテストなんて興味がない風を装って返事をした。屋上からハラハラしながら見ていたなんて口が裂けてもいえない。
「えっ、そうなの? じゃあ私の実力かなぁ?」
葵はそれまでの真面目だった顔を崩し、ふざけた声を出した。
「ちょっと、調子乗らないでよ」
「あははっ、分かってるって」
葵はそう言うと校舎へ戻って行った。
私はそのとき、クラスメイトの誰よりも葵は本音を話せる友人であることに気が付いた。
思えば山辺先輩のことも葵にしか打ち明けていない。
「焼きそば買おうかな」
誰もいない屋上に私の一人言だけが響いた。私は立ち上がって思い切り伸びをすると、購買部へと歩き出した。
空は相変わらず群青色をしている。