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二章 朱の夏(3)

 夏の合宿は七月下旬に行われた。毎年行われているというわりには、一泊二日というとても短い合宿だ。

 蝉がうるさく鳴き、カラッとした暑さが続く季節だ。クーラーの効いていない部屋にたった十分間いるだけで、額からは汗が噴出し、息を何度吸っても苦しいと感じてしまう。

 午前中は夏期講習だった。いつもは真面目に受けている授業も、上の空だった。午後になれば山辺先輩に会えると考えるだけで、浮ついた気分になった。遊園地のアトラクションに並んでいるときの気分に近いのかもしれない。

 家に帰った私は半袖のセーラー服に袖を通しながら、顔を綻ばせた。

 たった数週間通っていなかっただけなのに、学校へと向かう道はとても懐かしく感じた。蝉の声が暑さを助長させる。

 岬先生の話によれば、合宿は茶道部で行われているらしい。クーラーが付いているらしいので、学校に着いたらこの暑さとも別れることができるだろう。

 茶道部は三階にあった。大きく口を開けて呼吸をしながら、階段を上がる。

 ――あった。

 私は『茶道部』と書かれた扉を開けた。目の前には襖があった。どうやら渡しが今立っている小さなスペースは、靴を脱ぐ場所なのだろう。襖で隔てられているのに、クーラーのひんやりとした空気が伝わってきた。

 私は呼吸を整えるとハンカチで汗を拭き、ゆっくりと襖を開けた。クーラーの冷たい空気が私を包む。

 そこは、六畳の小さな部屋だった。部屋の中央には細長い旅館にあるような机が置かれている。隅にある熊の置物が部屋全体を睨み付けているみたいに見えた。

「あれ? 岬先生はいないんですか?」

 部屋には山辺先輩しかいなかった。制服である開襟シャツを着ている。中央の机に大学ノートを置き、何か文章を書いているようだった。きっと岬先生に頼まれた文化祭の台本だろう。

「えぇ、英語の補習があるみたいで。あと、二年生が育てている稲に水をやるんだそうです」

 先輩はノートから顔を離さずに答えた。相変わらず左手でシャープペンシルを握っている。

「そうですか」

 私はそれだけ答えた。ここで予備校の宿題でも終わらせてしまおうか。そう思い、鞄から勉強道具を取り出した。先輩の斜向いの座布団に座る。

 シャープペンシルの文字を書く音だけが、部屋に響く。家でやるよりも宿題はずっとはかどった。

 まるで予備校の自習室のようだった。時計の針が一周する頃には、私はほとんどの課題を終わらせていた。

「倉田さんは右利きなんですね」

 長い沈黙を破ったのは山辺先輩の方だった。私の手元をじっと見ていた。

そのどこか恍惚とした表情は、いつかの雨の日を思い出させた。

「えぇ、山辺先輩は左利きですよね。結構珍しいと思います」

 私がそう言うと、先輩は私の手元から目を逸らした。持っていたシャープペンシルを机に置き、眼鏡を外す。

「利き手の話はどうでも良いですよね。すみません」

 先輩はため息をつきながら謝った。

 ――謝るようなことじゃないですよ。

 そう言おうと口を開こうとしたが、先輩はすぐに言葉を続けた。

「こんな小さな部活動が合宿をするなんておかしいですよね」

「いえ、そんなことは……」

 私はあわてて返事をした。伝統的なイベントということなのだから、儀礼的に行うのはおかしなことではないと思う。

 山辺先輩は再び大きなため息をつくと、眼鏡をかけなおした。

「合宿の話もどうでも良い話でしたね……」

 なんだか疲れたように見える。いったいどうしたというのだろう? 文化祭の台本製作が難航しているのだろうか?

「先輩が書いているのって、文化祭用の台本ですよね。どんな内容なんですか?」

 私は極力明るい声を出した。それでも部屋のどんよりとした雰囲気は変わらない。私はクーラーの設定温度を一度下げた。

「え、これですか? あの、えーと。まだ全然ですから。完成したら読んでください」

 先輩はそう言うと、ノートを閉じてしまった。かなり動揺していたが、そんなにおかしな内容なのだろうか? どちらにしろ未完成の時点で、人に見られたくないという気持ちは分からないでもない。

 私は時計を見た。もう午後二時だ。何か食べてくれば良かったかもしれない。

 そう思ったとき、岬先生が部屋に入ってきた。丁度良いタイミングだ。私だけでは、この重たい空気を変えることは不可能だ。

「おう、倉田来てたのか。差し入れ持ってきたぞ」

 先生は明るい口調でそう言うと、大きなビニール袋を机に置いた。中にはいくつかのインスタント麺と水の入った二リットルのペットボトル、飲み物が入っている。

「俺は、カレー味な」

 先生は、そう言いながら部屋の隅にある木彫りの熊の後ろにあった湯沸かし器を引っ張り出した。

 私は、ビニール袋の中を覗き込んだ。カレー味とシーフード味、とんこつ味にうどんなどたくさんの種類のインスタント麺が入っていた。

「先輩は何にします?」

 私はとりあえず、山辺先輩に聞いてみることにした。さすがに後輩の私が先に選ぶのは良くないと思ったからだ。

 岬先生は、湯沸かし器にペットボトルから水を入れている。お湯が沸くまではまだ時間が掛かりそうだ。

「……じゃあ僕はきつねうどんで」

 先輩はそう言いながら、『きつねうどん』と書かれた商品を手に取った。ふたを開け、容器の側面に書かれた説明文を読んで、火薬を入れるタイミングを確認している。

「私はシーフード味にします」

 私がそう言いながら、商品をビニール袋から取り出したときだった。

「そうだ、倉田。文化祭に向けて放送の練習をしよう」

「はぁ? 発声とかですか。こっくりさんの紙の朗読ですか? あれ無駄な上に疲れますよね。昔音楽の授業でやりました」

 そうなのだ、小学生のときの音楽の先生は二回代わって三人の先生に教わったことがある。どの先生も偉そうで、授業のたびに気分が悪くなったものだ。五十音を一人ずつ順番に言わされたときには殺意に近いものを覚えた。

 そのとき、湯沸かし器が機械音を鳴らし、お湯が沸いたことを知らせた。一番湯沸かし器に近い位置にいた山辺先輩が全員の容器にお湯を注ぐ。

「いやいや、放送で大事なのは滑舌の良さだ。なにかのコンクールでも重要……だったと思う。とにかくこれを読んでみろ」

 そう言いながら先生は私に一冊の文庫本を手渡した。

「えーと『妹萌えとはなんたるか!』ですか」

 私が表紙に書かれたタイトルを読み上げると、先輩が大きく目を見開いてこちらを見た。怒ったような表情に見えなくもない。

「あの、先生。もうラーメンできたと思いますよ」

 先輩はあくまでも普段どおりの台詞でそう言った。

 正直話題が変わって良かった。どう考えてもおかしな文章を読まされるに決まっている。

 私は心の中で先輩に感謝した。

 私達はしばらく無言でインスタント麺を口に含んでは、飲み込む作業に勤しんだ。こんな時間までご飯を食べていなかったので、空腹を満たす感覚はとても幸せなものだった。

「この辺りで有名な心霊スポットがあるのは知ってるか? 結構有名な話だから山辺なら知ってるんじゃないか?」

 ラーメンをすすりながら岬先生はおもむろに口を開いた。

 先生はそう言いながら山辺先輩の方をチラリと見た。そのあと、またラーメンをすする。

 カレー味のラーメンは机に茶色のしみをつくる。後生だからずるずると食べ物をすするのは止めて欲しい。

「い、いえ僕は知りませんよ」

 先輩はきつねうどんを見つめたまま答えた。さっきまで動いていた箸が止まっている。いったいどうしたのだろう? 心霊スポットとか怖い話とか、そういう類の話が苦手なのだろうか?

「あの、どんな話なんですか?」

 私はその心霊スポットとやらに興味が湧いたので、そう質問をした。夏なのだし怖い話を聞いてみたい気分でもあったのだ。

「この辺りに、教会があるっていう話なんだけどな。 

なんでも昔は個人の財産だったんだが、相続税か何かの関係で国のものになったらしい。今は、公共の場所となっているんだが、市役所の地図には載っていないんだ。

 色々と噂があって、戦争の捕虜になった外人の子供の幽霊がたくさん出てくるとか、村八分になった食人の家族が共食いをしたとか、昔面白半分で肝試しにいった連中が全員事故死したとかいろんな噂があるんだよ。

 まぁ、所詮いわくつきの場所ってことだな。

 本当に色々な話があって、知っている奴らでも人によって全く話が違うらしい。話に尾ひれが付きすぎて、収拾がつかなくなったんだろうな」

 そこまで話すと岬先生はお茶をすすり、一息ついた。

 静かな部屋にはラーメンをすする音だけが聞こえる。山辺先輩は音をたてずに食べている。さすが先輩だ。

「……今からその教会に行ってみないか?」

 岬先生の声に私は茶道部にあった置時計に目をやった。午後の三時だ。まだまだ暑い時間だ。

 私は岬先生の提案はとても魅力的だと思った。私は聞いたことのない話に興奮していた。もしかしたら葵は知っているかもしれない。

「いいですね。行きましょう」

 私がそう言うと、隣に座っていた山辺先輩が驚いた顔をして私の方を見た。私が先生の提案に賛成したのが、意外だったのだろうか。

「お、倉田。今日はノリが良いな」

 岬先生は嬉しそうな表情を浮かべながら、山辺先輩の方を向いて言葉を発した。

「山辺はどうだ? もちろん行くだろ」

 山辺先輩は返事をしなかった。無言の時間が数秒間流れる。

 私は不思議に思い、先輩のいる左側へ顔を向けた。

 山辺先輩は真っ青な顔をしていた。そんなに今の話が怖かったのだろうか? それほど怖くはなかったと思うのだが……。もしかしたら具合が悪いのかもしれない。

「先輩? 大丈夫ですか? どこか具合でも悪いんですか」

 私は心配して先輩に声を掛けた。夏風邪でもこじらせたのだろうか? しかし、さっきまでは健康そのものに見えたのに……いったいどうしたというのだろう?

 私と岬先生は何も言葉を発しない山辺先輩に驚き、顔を見合わせた。そのとき、おもむろに先輩が口を開いた。

「絶対に……そこには行ってはいけません!」

 普段の穏やかな口調からは想像もできないくらい切羽詰まったような口調だった。

 私は、いつもと違った何か異常な雰囲気について行けなかった。

「どうしたんだ山辺。そんなにビビることないって。ちょっとした肝試しだよ」

「そ、そうですよ。まだ時間も早いし、ちょっとだけ見に行くだけじゃないですか?」

 六畳の茶道部の部室には奇妙な空気が流れていた。それもこれも山辺先輩のおかしな行動のせいだ。

 私と、岬先生はその空気に飲まれないように必死だった。

「いえ、いやです。僕は行きません」

 先輩はきっぱりと述べると、油揚げを口に含んだ。

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