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二章 朱の夏(1)


 人生で初めての校内放送をしてから数ヶ月が経った。

 私は朝の放送を担当するため、放送室兼部室の鍵のスペアを持ち歩いている。職員室に返さなければならない鍵は、山辺先輩が持っているらしい。

 昼と放課後の放送を担当している山辺先輩に会うことは少なかったが、先輩と同じ部活に入れたということに私は満足していた。朝の早起きも全く苦痛ではなかった。

 一度、葵の勧める落語のCDをかけたときはわりと好評だった。放送部がほかの部活から敬遠されているとはいえ、クラスの人はほとんど坂本さんの事件について知らなかったので、私がクラスでの友人をなくすという事態には至らなかった。

 じめじめとした六月が終わると、夏の暑さが始まる。半袖のセーラー服でも暑いと感じてしまうほどだ。この学校ではプールがないので、体育の授業で涼むこともできないのだ。四十人近くの生徒の詰まった冷房のない教室で、繰り広げられる授業は拷問に近いものがあった。弱々しく回る扇風機は生ぬるい温度しかもたらしてはくれない。

「それでは、文化祭のミスコンテストの代表を決めたいと思います」

 黒板には綺麗な文字で『文化祭、ミスコン』と書かれていた。

 六時限目のロングホームルームの時間。クラス委員長の鈴木さんが口を開いた。

 夏になってから席代えをして、窓側の一番前の席になった私は、頬杖をつきながらぼんやりと窓の外を眺めていた。夏は陽が落ちるのが遅いので、六時限目だというのに昼間のような明るさだ。

 窓から入る冷たい風に感謝していると、大きな入道雲が見えた。近いうちに雨が降るのだろうか?

「誰か立候補か推薦をする人はいますか? いないなら私がやりますけど」

 私の前には岬先生がパイプイスに座っている。面倒臭そうにクラス全体を見ていた。

 鈴木さんは、誰も立候補や推薦をしないことを確認すると、満足気に岬先生の方へ顔を向けた。

「それじゃあ、私が出場します」

 クラス中からまばらに拍手の音が鳴った。

 鈴木さんは相変わらず嬉しそうな顔で席に戻って行った。しかし、これほどまでに分かりやすい人物もそういないだろう。

 クラス委員長というのは何でもやりたがるような物好きにしか務まらないのかもしれない。クラスに一人は必ずこういう変わった人間がいるものだ。

 岬先生はホームルームの議題が終わったことを確認すると、パイプイスから立ち上がり教壇に登った。

「おー。じゃあまだ時間早いかもしれんが解散としようか。お疲れー」

 岬先生はそれだけ言うと教壇から降り、教室のドアに手を掛けた。すると思い出したように後頭部に手をやり、私の方を振り返った。

「ああ、そうだ。倉田、今日文化祭について話すからあとで部室にこいよー」

 面倒臭そうに語尾を伸ばして話すと、本当に教室から出ていってしまった。

どうせ先生のことだ、自分のクラスだと連絡が楽だなー。とかしょうもないことを考えているに違いない。

 私は心の中でため息をついたが、文化祭について話し合うということは山辺先輩にも会えることと同じだ。と考え、放課後を楽しみにすることにした。


 その日は掃除当番ではなかったので、私は放課後になるとすぐに放送室へと向かった。

 まだ明るい廊下は、掃除当番の生徒もまばらに残っている。階段を下がると、放送室の扉が見えて来た。

「あれ、先生どうしたんですか?」

 驚いたことに岬先生は放送室に入らず、扉の前で何をするともなく立っていた。

どうして中に入らないのだろう?

「どうしたもこうしたもねーよ。鍵が職員室にないんだよ。多分山辺が持ってるんだろうな。それまでは待つしかない」

 岬先生は腕を組み、盛大にため息をついた。小声で「まったくアイツは……」と言っているのが聞こえた。

「鍵だったら私持ってますよ」

 私はそう言いながら鞄を探る。

 しかし、山辺先輩はなぜ職員室に鍵を返していなかったのだろう?そういうことにはキッチリしていそうな性格だと思うのに……。

 私は鞄の中から鍵を見つけ出すと、放送室のドアを開けた。部屋の中に足を一歩踏み入れた瞬間、ムッとした暑さが私を襲った。

「うわー、暑いですね」

 私はそう言いながら部室の窓を開けた。涼しい風が入り込み、気持ちが良い。

部室はたくさんの機材がほとんどのスペースを占領していたが、かろうじて教室にある木でできた机と椅子が二つづつ、パイプイス一脚が置かれていた。

 私は木造の椅子に座り、鞄から出した下敷きで自分を扇いだ。生ぬるい風しか運ばれて来ないが、何もないよりはずっとマシだ。

「まぁ狭いからな、人数が増えたらちゃんとした部室も貰えるんだが。今年は廃部にならなかっただけマシだ」

 岬先生はパイプイスに座りながら言った。

 私は窓の外を眺めた。まだ明るいが、もう昼間のような明るさではない。腕時計に目を向けると、午後五時を指していた。

「そういえば、山辺先輩遅いですね」

 私が尋ねると、岬先生は小さく頷いて、口を開いた。

「そういえば、倉田。お前この間の中間酷かったぞ。補習にならない程度には頑張れよ」

 ギクリとした。私はどうして英語が苦手だ。所有格とか出てくると、訳が分からなくなる。

「……で、でも補習は免れましたよ」

 そうだ。赤点である三十点はギリギリ越えていた。しかし授業はどんどん難しくなり、ついて行くのもやっとの状態だった。

 私の気分は最悪だった。よりにもよって、どうして担任兼所属部活動の顧問の担当教科が英語なのだろう。得意な数学とかならまだ良かったのに。

 私がうなだれているとき、部室の扉が大きな音をたてて開いた。

「すみ――ま――せん。今日――日――直で」

 ゼエゼエと荒い呼吸をしながら山辺先輩が部室に入って来た。相当走って来たのだろう。額にはびっしょりと大量の汗が噴き出していた。

「だ、大丈夫ですか?」

 私は思わず下敷きを持っている右手の動きを止めて、山辺先輩に声を掛けた。

「……はい――大丈夫――です」

 山辺先輩はだいぶ呼吸が落ち着いて来た様子で私に返事をすると、空いている椅子に座った。

 山辺先輩が席についたのを確認すると、岬先生が口を開いた。

「よし、それじゃあ。文化祭について話し合おう。例年通り、何か出し物を考えなきゃならん。何か案はあるか?」

 岬先生の問いに、私は質問で返事をした。

「あ、あのー。去年とかは何をやっていたんですか?」

 私がそう聞くと、部室は重い空気に包まれた。何か言ってはいけないことを言ってしまったような気分になって、私は質問をしたことを後悔した。

 数秒間、無言の時間が流れたが、岬先生が沈黙を破ってくれた。

「放送部では毎年、文芸部の作品を朗読することになっている。しかし、今年は文芸部の方に断わられちまったんだ」

 ――どうして?

 とは聞けなかった。いつかの葵の言葉が思い出される。

 去年起きたという放送部員の坂本みずき家出事件。

 放送部が学校の中で孤立しているというのは言い過ぎかも知れないが、少なくとも「あまり関わり合いになりたくない部活」とは思われているのは確かなようだ。

 再び静かになった部室で、声を発したのは山辺先輩だった。

「僕、書いても良いですよ」

 私は山辺先輩の台詞に驚きを隠せなかった。先輩は三年生で色々と忙しいはずだ。簡単に言うと、受験生にそんなことをしている暇があるのかどうかが疑問だった。

「おー、じゃあ頼むわ。夏休みに合宿は今年もあるから。よろしく」

 岬先生は面倒なことが決まって良かったと安心したようで、安堵の表情を浮かべている。

「ちょっと待ってください。合宿って何をするんですか?」

 私は困惑した。運動部や吹奏楽部のように、大会やコンクールがあるなら理解できるが、こんな弱小の放送部が合宿を行うなんておかしいと。

「何って、文化祭の準備とかだろ普通。昔からやっているんだ。あーでも去年は俺の免許の更新があったんで、中止したよ。でも、今年は茶道部が部屋貸してくれるって言って来たからさー。使わないと悪いなーと思って。それに山辺だって、そのときに文化祭の台本書けば良いだろ。倉田も英語頑張れるし。これでみんなが幸せになれるじゃないか」

 岬先生は得意顔でそう言った。

 私は愕然とした。少なくとも私は幸せになれないことだけは確信できる。

 それに、クーラーの効いていない学校に泊まるなんて真っ平ごめんだ。でも先輩が参加するというなら考える価値があるかもしれない。私だって暇ではない。しかし予備校の夏期講習と日程がかぶっていたら困る。

「私は行きません。予備校あるので」

「そうか、まぁ日程決まったら連絡するよ。とにかく山辺は台本よろしくー」

 岬先生は立ち上がると、部室から出ていってしまった。部室のドアが閉まる音が大きく響いた。

 気が付くと 部室には私と山辺先輩二人きりしかいない。もしかするとこれは告白のチャンスなのではないか?

 そう考えた私は右手に持った下敷きの動きを止め、大きく息を吸った。

「あの、先輩」

「はい、なんですか?」

 山辺先輩は鞄から教科書を取り出しながら返事をした。

 ――好きです。

 たった一言言うだけで良かった。しかし、その一言を頭の中で繰り返すだけで心臓の鼓動は速まり、呼吸すら困難になった。背中をヒヤリと冷たい汗が流れた。それは、暑さのせいではないということだけは確信できる。

「合宿って、大丈夫なんですか? 塾とか、予備校とか。何か予定はないんですか?」

 結局、口を突いて出てきたのはこんな言葉だった。

 まぁ、まだチャンスはあるだろう。もう少し親しくなってからの方が成功する可能性だって高いはずだ。

「大丈夫ですよ。この前の中間試験の結果も悪くなかったですし」

 山辺先輩はシャープペンシルを手に持ち、教科書の問題を解き始めた。

「そうですよね。そういえば、廊下に名前が貼り出されているのを見ました」

 中間試験や学期末試験の成績上位者は名前が貼り出される。私はわざわざ三年生の廊下にまで行って確認したのだ。

 山辺先輩は、私の台詞には返事をしなかった。

 それよりも、放課後の放送を担当していない私がいつまでも部室に残っていることを不振に思ったようで、遠慮がちに言葉を発した。

「倉田さんは帰らないのですか?」

 山辺先輩の言葉を聞いて、私は心にかなりのダメージを受けた。先輩は、私と同じ空間にいたくないのだろうか?

「そ、そうですね。そろそろ帰ります」

 私は立ち上がりながらそう返事をした。鞄を手に持ち、出入口に向かって狭い部室を横断する。

 部室の扉に手を置いて部屋をでる直前、私は山辺先輩の方を振り向いた。

「あの、そういえばさっき岬先生が『鍵が職員室にない』って言ってましたけど……」

 私はもし山辺先輩が常習的に鍵を職員室に戻していないようだったら、私の持っている鍵を職員室に置こうかと考えていた。

「あぁ、昨日は鍵を戻すのを忘れていました。次からは気を付けます」

 山辺先輩は教科書から顔を離さずに答えた。鍵の管理は大事だと思うのだが、先輩はそういったことには無頓着な人間なのかも知れない。

「あの、もし……」

 ――面倒なら私が鍵を職員室に預けます。

 そう言葉を続けるつもりだった。しかし、途中から山辺先輩の強い口調で私の台詞は途切れてしまった。

「昨日はたまたま忘れただけです。倉田さんは自分で鍵を持っていてください」

 私は山辺先輩の大きな声に驚いた。怒っているような強い口調だった。

 山辺先輩は、私がびっくりしているのに気が付いたのか、いつもの口調で話し掛けた。

「すみません。大きな声を出してしまって。ただ以前、岬先生が鍵をなくしてしまったことがあったので、つい」

 なるほど、そういうことだったのか。岬先生の性格なら鍵の管理も乱雑であることは容易に想像できる。

 鍵を職員室にある指定の掲示板に戻さずに、どこかに置き忘れてしまうことも少なくはないのではないだろうか?

 山辺先輩は再び教科書に目を向け、問題を解き始めた。左手にシャープペンシルを握っている。左利きなんて珍しい……。

 私は帰ろうと扉に向き直ろうと思ったが、山辺先輩に話掛けた。

「あのう」

「まだ何か?」

 先ほど声を荒げてしまった罪悪感からか、山辺先輩は普段よりも優しい声で返事をしてくれた。

「私、中間試験で英語が酷かったんです。もし迷惑じゃなければ、その……勉強を教えて頂けませんか?」

 私は勢いに任せて用件を述べた。掌にじっとりと汗をかいているのが分かった。

 山辺先輩は私ではなく、開け放たれた部室の窓に視線を向けた。

 先ほどまで明るかった空は綺麗な夕焼けで染まり、小さな入道雲が浮かんでいる。

「……すみません。僕も英語は苦手で。とても教えられるレベルではありません」

 先輩は窓からの景色から目を逸らさずに答えた。

 なんだか悔しかった。勇気を出した私が馬鹿みたいではないか。

 私は今度こそ本当に部室のドアノブを捻り、陽の当たっていない廊下に出た。後ろ手に部室のドアを閉める。

 ――帰ろう。

 そう思い、私は鞄を握りなおしながら小さくため息をついた。

「ほー、英語が苦手なのか」

 私は驚いて声のした方を見た。

 聞かれていたのだろうか? だとしたら、とても恥ずかしいではないか。

「どちらさまですか?」

 知らない人が廊下に立っていた。

 猫背気味だが背は高く感じる。詰襟の制服がくたびれて見えた。

 どこかで会ったような気がしないでもない。

「私の名前は佐藤卓。三年だ。孝之と同じクラスなのだよ」

 「孝之」とは山辺先輩のことだ。なるほど、山辺先輩に用事があって来たわけか。

 私がいたから気をきかせて部室には入らなかったのだろう。

 佐藤という苗字に聞き覚えがあった。よくある苗字だが、この人物とはどこかで会ったことがある。

「もしかして、生徒会長さんですか? 私、もう帰るので山辺先輩に用事があるならどうぞ」

 そうだ、春に会った素っ気ない会長さんだ。山辺先輩と同じクラスだったのか。

 放課後の放送を担当している山辺先輩は、最終下校時刻に放送をしなければならない。きっと毎日あの狭い部室で勉強をしているのだろう。

「いや、今日は君に話があってね」

 会長さんは思いがけない一言を口にした。

 どうして私と話をしたいのだろう? 正直な話、この人はどこか奇妙な雰囲気を纏っていて近よりがたい。あまり一緒にいたくない人物だ。

 私はあからさまに嫌そうな顔をしたが、会長さんはおかまいなしに話を続ける。

「そうだな。生徒会室が空いているからそこで話そうか? 英語なら私が教えても構わないし……」

 会長さんは返事も聞かずに私の腕を掴んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください。私、今日はもう帰ります」

 私はそう言いながら会長さんの手を振り払った。少しだけ会長さんを睨み付けると、踵を返して下駄箱へ向かう。

「孝之についての話なんだ」

 後ろから会長さんの声が聞こえた。

 山辺先輩の話とは、会長さんは何を話すつもりなのだろう?

 私は会長さんの言葉を聞いた直後、すぐさま振り返った。すぐに会長さんとの距離を詰める。

「分かりました。生徒会室に行きましょう」

 私がそう返事をすると、会長さんは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに満足気な表情を浮かべた。

「そうか、では行こう」

 私達は早足で放課後の廊下を進んだ。まだ生徒は残っている時間なのに、この廊下には人っ子一人いない。

 廊下を進む二人分の足音だけが、私の耳に響いた。

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