四章 玄の冬(5)
文化祭による代休も終わり、学校へ向かいます。たった三日ほどの休みだったのに、その頃にはコンビニに寄り、絵を描くという生活がすっかり定着していました。
学校では坂本さんが失踪したという事件で持ちきりでした。臨時の全校集会まで行われ、クラスでは坂本さんを最後に見た時刻を問われました。
僕は同じ放送部ということで、先生に坂本さんを見た時刻をしつこく問われました。もちろん本当のことを言うわけにはいかないので、「文化祭の日には会っていない」と言い続けました。
信じてもらえたかどうかは分かりませんが、僕よりも岬先生のほうが疑われていました。
僕はあの日、坂本さんと一緒に下校したのを誰かが目撃したのではないかとヒヤヒヤしましたが、誰もそんな目撃証言はしませんでした。
坂本さんがいないので、僕は朝の放送も担当することになりました。
学校に坂本さんがいないことが、嬉しくて堪りませんでした。僕以外の人間に笑顔を向けたり、話し掛けたりしないのですから。こんなに素晴らしいことはありません。
僕は放課後の放送を友人に頼み、授業が終わると坂本さんの絵を描きに行くことが楽しみになっていました。
しかし、楽しい時間というものは長くは続かないのです。
「もうすぐ一週間ですね」
坂本さんの嬉しそうな声を聴きながら、僕は黙って筆を走らせました。
「学校では、話題になってますか? でも、プチ家出したことにするんで大丈夫ですよ」
坂本さんは本当に頭の良い人間です。何でもない口調で、本当のことを話さないと暗に主張していました。
「どうして……」
僕は、坂本さんを解放するつもりは一切ないのに、日々明るくなってゆく彼女を見るのが辛くなりました。
「どうして、嘘を疑わないの?」
僕は嘘をついている。普通の人間ならそれをまず疑うべきなのです。
坂本さんにとって、『指切り』という儀式は『絶対』なのでしょうか?
僕の言葉を聞いた坂本さんは、びっくりしたような、唖然としたような、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしました。そのあと、ゆっくりと僕の方へと歩み寄ったのです。
僕は、坂本さんの方から近付いてくれたことに、思わず頬を緩めてしまったのですが、彼女は僕の横を素通りし、扉を開け放ち、地上へ続く階段を登ったのです。
「坂本さん……!」
僕は咄嗟に坂本さんの後を追いました。彼女の細い腕を強い力で掴み、引き寄せました。
そこからは全てがスローモーションみたいでした。彼女はバランスを崩し、数分間宙に舞っていました。実際はほんの一瞬の出来事なのでしょうが、長い黒髪が綺麗に風になびき、白い肌は輝いて見えました。
『綺麗だ』そう思ったあとのことです。それまでスローで動いていた世界が、現実味のある、普通の速度に戻りました。
ガタガタと大きな音をたてながら、坂本さんは階段を転がってゆきました。
僕は、ひどく狼狽しました。坂本さんは、頭から少量の血を流しピクリとも動きません。
死んでしまったのだろうか?
坂本さんのその姿を見たとき、それまで萌え上がっていた心が一気に萎えてゆくのを感じました。
「僕は、悪くない」
うわごとのように、僕はそう繰り返しました。そのときの僕は、冷静な判断力というものが欠如していたのだと思います。救急車を呼べば良いものを、どういうわけか、あの画材道具のある鍵のある地下室へと、動かない坂本さんを運びました。
本当に、何を考えていたのか正確には思い出せません。ただ、僕は坂本さんを監禁し始めてから、彼女を地上へ解放するつもりがなかった、ということだけは事実です。
僕はゆっくりと、坂本さんをベッドに寝かせました。そして、彼女の口唇に自分の唇を押し当てました。
何も感じませんでしたし、何も思いませんでした。覚えているのは、薄い唇の氷のような冷たさだけです。
僕はゆっくりと坂本さんの心臓に耳を当てました。動いています。
それを確認したとき、僕は大きなため息をつき、がっかりしました。
……死んでいたら良かったのに。
そんな気持ちでいっぱいでした。もし、死んでいたら僕が直接手を下す必要が無いからです。
僕は手元のイーゼルを手に取りました。大きく、重量があります。
罪悪感を消すために、まず顔をつぶしてしまおうと思い、大きなイーゼルを振り上げ、何度も何度も坂本さんの顔に振り下ろしました。
人間の顔は、思ったよりも硬いものでした。表面はぐにゃりとした感覚でしたが、叩いたときの音は、鈍く耳に響くものでした。
坂本さんの顔は、だんだんと造形が崩れ、一部からは骨のような白くて硬そうなものが見えてきます。片方の眼球も潰れたのかどうかは分かりませんでしたが、陥没しているようでした。
顔が崩れてくるのと比例するように、血がかなり出ました。最初は頭のほうから少しだけ流れているかどうかというくらいでしたが、鼻が折れたときから、溢れるように、次から次へと出てきました。
そんな状態になっても、坂本さんは美しかったのです。僕は、眼鏡をしていて良かったと思ったことはこれが始めてかもしれません。目に血が入ってしまっては、坂本さんの様子を見ることが困難になるからです。それに、目に異物が入るのは気持ちの良いものではありません。
医療系ドラマの手術シーンでは、ドバドバと血が出るシーンがあります。それに通じるものがありました。
僕が坂本さんを殴っている間、彼女はピクリとも動きませんでした。抵抗されたら、決心が鈍るというものですから、僕は自分の幸運に感謝しました。
顔の形が分からなくなってくると、僕は安心しました。
血まみれのイーゼルを床に置き、改めて坂本さんだった物体を眺めます。換気扇から刺し込む月明かりが、とても美しかったのを覚えています。
簡単には割れないはずの頭蓋骨が割れ、中から脳のようなうねうねとしたものが見えました。教科書や、人体模型で見る脳よりも、目の前のそれは気持ちの悪いものでした。
てらてらと赤く輝く血で染まった脳。確か、海外では猿の脳を食べるという話を聞いたことがあります。目の前の気持ちの悪いそれも、もしかしたら食べることができるのかも知れない。
始めは、気持ちが悪いと感じた坂本さんの脳ですが、ぼんやりと眺めているうちに、ひどく幻想的なもののようにも思えました。
僕はそれを手に取りました。金属の匂いが鼻をつき、ベトベトと手にまとわりつきます。
その頃にはもう「気持ちが悪い」などとは思いませんでした。
僕は手に取った坂本さんの脳を、ゆっくりと口へ運びました。
味は、血の味しか分かりませんでした――金属を舐めているときのような味です。そして次第に、コリコリとした感触が口に広ってゆきました。
しばらくの間、僕は目の前のそれを咀嚼し、また嚥下する動作を繰り返しました。
第三者から見たら人間の脳を学生が貪っているという信じられない光景でしょうが、僕は表現できないほどの、満足感で満たされていました。
そして僕は、坂本さんの心臓が動いていないことを確認すると、坂本さんの笑顔が描かれた血まみれになった絵を見つめました。
ほとんど完璧だと自分では思っていましたが、血で汚れてしまいました。
僕はそれを見て、妙な焦燥感に駆られました。複製しようと思えば簡単にできたのでしょうが、そうはしませんでした。
僕は目の前の光景をその絵の上に塗り重ねたのです。
もちろん食べ散らかした脳は、理科の教科書にあるようにぼかして描きました。一心不乱に描き、気が付くと朝の光が差し込んできました。
その光は僕を断罪しているようでした。僕は一目散に逃げました。走って、走って、やっと自分の部屋に辿り着いたとき、ほっとしました。
学生服が黒くて良かった……、返り血でほとんど使い物になりません。もったいないですが、僕は新しい制服を購入しようと心に決めました。
僕は坂本さんを監禁し、そして殺しました。
僕は、坂本さんが好きだから監禁したわけではありません。好きだから、自分のものにしたかったから殺したわけではありません。
坂本さんを殺した理由は簡単です。世間にバレるのが怖かったのです。警察に逮捕されるのが怖かったのです。
テレビ番組で特集を組まれるのが嫌でした。小学生のときの卒業アルバムの写真が出回るのは耐えられません。
僕が殺人犯になったその日から、周囲の人間は敵でした。まるで別人のように思えました。
僕は、新しいクラスになってから、友人を作らず、人間を遠ざけました。それは全て、自分の精神を守るためです。
坂本さんの生首を描いた絵は『断罪してください』というタイトルをつけ、美術室で完成させました。家で描くわけにもいかないし、かといってあの地下室で描く気も起こらなかったからです。完成した絵は美術準備室に置きました。どういうわけか、それはコンクールに出され、賞をとりました。きっと美術の先生が勝手に行ったのでしょう。
絵が市役所に飾られたと知ったどき、僕は誰かに感づかれるのではないかと心配しました。しかし、坂本さんの死と僕の絵を関連付けた人物はいないようでした。ただ一人、友人の卓君は感づいているような素振りを見せていましたが、僕は気が付いていないフリを一年間続けました。
この文章は、文化祭の日には完成していましたが、もう少しだけ学生生活というものを味わっていたくて、二ヶ月ほど遅れてしまいました。僕は我が儘な人間です。
僕は自分の罪を償うつもりです。
自殺などではありません。自首します。
もちろんそんなことで、坂本さんが生き返るわけではないことは分かっています。
報道され、揶揄される僕に同情してはいけません。ただ僕を笑ってください。
皆さん、ここまで聞いて下さりありがとうございました。
***
私は、そこまで読むと激しい脱力感に襲われた。力のこもらない指でマイクの電源を落とす。
坂本さんの名前が出始めた頃から、部室のドアを激しく叩く音が聞こえ始めた。もうかれこれ三十分は、ドアを開けようと頑張っている。
確かにこんな内容の台本を、全校放送で流したら反省文どころじゃ済まないだろう。
私は苦笑しながら、手元にある二つの放送室の鍵を眺めた。一つは先輩の、もう一つは私がいつも持っていたものだ。そして、手に持った台本をパラパラと捲った。
うるさいドアに背を向け、窓から外に目をやる。
十一月にしては早い、粉雪が降ってゆくのが見えた。
今年はホワイトクリスマスになりそうだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。