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四章 玄の冬(4)

 文化祭の後の数日間は、代休ということでしたが、僕は絵の具を取りに、学校へ向かいました。

 僕は夜中の学校が嫌いでした。著しく生活感が欠如しているからです。

 僕は、朝方の学校に忍び込みましたが、生徒や先生のいない学校は、僕にはひどく恐ろしい場所に映りました。

 生徒達がせわしなく走り回る廊下、どうでも良い会話で騒がしい教室、コピー機が休むことなく動いている職員室、それらとは全く異なる空間は静まりかえっていました。

 僕は、静かで明るい廊下を一人で進みます。普段は気にも止めない自分の乾いた足音が妙に耳に残ります。

 誰もいない廊下……坂本さんと二人で歩いたこともありました。あのときは、あんなにも遠かった彼女が、今はきっと、僕をあの地下室で待っている。

 そう考え、僕はまた幸せを噛みしめるように、唇を歪めました。

 ゆっくりと階段を上り、二階の職員室を目指します。鍵ななければ、美術室に入ることができません。

 ――そういえば美術部の人は、文化祭のあと、ちゃんと鍵を職員室に返したのだろうか? 僕のように、部室の鍵を返さず、ずっと所有しているような傲慢な人間だったらどうしよう。

 僕はまだ、岬先生に頼まれて作った部室の鍵を渡していませんでした。

 僕の手元には、二つの放送室の鍵があるのです。

 職員室のドアを開き、誰もいないのに「失礼します」とつい話してしまいます。習慣というのは怖いものです。

 職員室に入ると、真っ先にコピー機の隣にある、鍵が掛かった掲示板へ向かいました。

 「美術室」の三文字を探します。

 ――あった。

 良かった、これで絵の具を取りに行くことができます。

 きっと美術部には、僕のような傲慢な人間がいないのでしょう。いいえ、もしかしたら顧問の先生が鍵の管理にうるさいだけなのかもしれません。

 僕だって岬先生が一言でも「鍵は?」と言っていれば、渡すつもりでした。

 美術室の鍵を手にした僕は、「失礼しました」と言いながら丁寧にドアを閉めました。

 廊下を少し進み、更に階段を上り、三階の美術室へと向かいました。

 鍵を開け、ゆっくりと扉をスライドさせます。あの教会の扉を開けたときのように、あっさりと開きました。

 僕は生徒達の画材道具が置いてある棚へと、足を進めます。

 やっと目当てのものに辿り着ける。そんな高揚感からか、僕の心臓は早鐘を打ちました。

「これだ」

 誰もいない美術室に、僕の乾いた声が反響します。

 僕は自分の名前の書かれた画材道具を抱え、美術室をあとにしました。

 美術室の鍵を締める「カチャリ」という音を聞いたとき、どういうわけか僕の頭には、坂本さんの姿が浮かびました。

 ――早く行かないと。

 そう思ったとき、先ほどまでは、ゆっくりと進んでいたはずの足が嘘のように早く回転しました。階段を一段飛ばし、ときには二段階飛ばしで駆け降り、最後の三段は一気に飛び降りました。

 職員室へ走り、ノックも「失礼します」も言わず、震える手で鍵を戻します。コピー機に足をぶつけてしまいましたが、気に止めずに職員室を出ました。

 「失礼しました」の一言も、すっかり忘れていました。それどころか、乱暴にドアを閉めてしまいました。

 ドアの閉まる音は、静かな廊下に響いたことでしょうが、僕には自分の足音さえ聞こえていませんでした。僕の頭は、坂本さんのことしか考えていませんでした。

 長い距離を走り、やっと教会に辿り着きました。

 夜とは違い、不気味には見えません。どこかの国の童話に、登場してもおかしくない。そんな雰囲気でした。教会の中は、ステンドグラスが朝日を浴びて、綺麗な光が交差しています。

 僕は、学生服のポケットから鍵を取りだし、ゆっくりと地下室へ続く階段を降りました。階段の軋む音が、僕のしていることを断罪しているように感じました。

 階段の先の扉に、そっと鍵を差し込みます。美術室よりも軽く、あっさりと扉は開きました。

 扉を開けると、絵の具の乾いた匂いが僅かに香りました。夜はよく見えなかった部屋の様子が、朝の光に照らされています。

 画材道具しかないと思っていた部屋ですが、小さなベッドが部屋の隅にありました。ポツリと、そこだけが唯一生活感のある場所みたいに見えました。

 坂本さんはそこにいました。静かな寝息をたてています。

 僕はゆっくりと彼女の側へ近付きました。

 やっと僕のものになった坂本さん。一歩一歩と足を進める度に、心臓の鼓動が早くなってゆきます。

 坂本さんの手は、真っ赤に染まっていました。きっとドアを開けようと、叩いたのでしょう。

 ドアに視線を移すと、うっすらと血の痕が見えました。

 僕は、学校から持ってきた画材道具を床に置き、部屋の鍵を閉め、教会を出ました。

 そして、近くのコンビニで、消毒液やら包帯やら、食糧も買いました。

 購入したものの入ったビニール袋を下げ、僕はスキップをしながら坂本さんの居る地下室へと向かいます。スキップなんて何年ぶりでしょう、楽しくて仕方がありませんでした。

 地下室に戻った僕は、部屋の様子を眺めました。坂本さんは相変わらず寝ています。きっと夜遅くまで、ドアを叩いていたのでしょう。

 部屋には、ベッドと画材道具以外のものは見当たりませんでしたが、僕が出入口に使っていたドア以外に、もう一つドアがありました。開けてみると、シャワー室のようでした。

 元々この部屋が、何に使われているものだったのか、検討もつきません。しかし、僕にとって都合の良い状況であることは間違いありませんでした。

 僕は、相変わらず寝息をたてている坂本さんの手を手当てすることにしました。

 換気扇から入る光に照らされている傷口に、消毒液を吹き掛けます。軟膏を塗り、ガーゼを当てました。

 坂本さんは、そうした作業の間ずっと眠ったままでした。傷口が痛めば、目を覚ましてもおかしくはないのに。余程疲れていたのでしょう。

 僕はガーゼの上から包帯を巻きました。しっかりガーゼを固定するために、きつく巻きます。そのときでした。

「痛!」

 坂本さんが目を覚ましたようでした。包帯をきつく巻いたせいで起きてしまったのでしょうか?

 少し心が痛みましたが、仕方ありません。僕は包帯を最後まで巻き、テープで留めました。

 「大丈夫、ですか?」

 僕は、できるだけ落ち着いた声を出すように心掛けました。それでも声は震えてしまいます。坂本さんに嫌われてしまうのではないか、という恐怖心からです。

「あの、先輩。どうして鍵を閉めたんですか?」

 坂本さんは強い口調で、僕を詰りました。目は怒りで満ち溢れ、僕だけを見ています。

 僕の心は、坂本さんに嫌われてしまったという絶望よりも、坂本さんの視線が僕だけに向かっている事実に対する幸福の方が勝っていました。

 学校でしか会うことのできなかった坂本さん。周囲には、たくさんの友人がいます。僕のことなんて、これっぽっちも見てはくれないのです。

 そんなにも遠かった坂本さんは、僕だけを見てくれている。この狭い地下室には僕しか話す相手がいないのだ。そう考えると、自然と口がニヤけてしまいます。

「何笑ってるんですか? 答えて下さい」

 坂本さんは、僕の手を振り払いました。身体を起こし、警戒するように僕から離れます。

「……絵を描きたいのです」

 僕は小さな声で、呟くように言いました。坂本さんの同情を誘うための演技です。顔を少し下に向け、できるだけ弱々しく話しました。

「絵って、描いたら良いじゃないですか」

 坂本さんは、そんな僕の様子の変化に、少しだけ戸惑いを見せました。けれど、相変わらず僕から離れたままで、口調は怒っているようでした。

「……坂本さんの絵を、……ここで描きたいのです」

 僕の、この言葉を聞いて坂本さんは何を思ったのでしょう?あまりにも現実感がない状況に、混乱していたのかも知れません。

 彼女は、ひどく狼狽した声を発しました。

「だからって、閉じ込める必要は無いと思うんですが」

 声がひっくり返り、今にも泣き出してしまいそうでした。

 きっと、僕の坂本さんに対する異常なまでの感情に、気が付いたのかも知れません。

 坂本さんは、頭の良い人間でした。その場でガックリと膝をつき、疲れたような弱々しい声色で言いました。もう、初めのような強い口調ではありませんでした。

「いつ、描き終わりますか?」

 僕は顔を上げました。坂本さんが、こんなにすんなりと諦めてくれるとは予想外でした。

 もしかしたら、坂本さんは僕の変態性までも、感じ取っていたのかも知れません。僕のことを頭のおかしい人間だと、瞬時に判断したのかも知れません。どちらにしろ、できるだけ穏便に話を進めようとしたようでした。

「一週間は、掛かると思います」

 僕は、努めて冷静な声を出し、自分はまともな人間であるということを、他でもない自分に主張するように答えました。

「分かりました、じゃあ一週間でここから出すと約束して下さい」

 坂本さんは、鋭い目線で僕を睨み付けながら言いました。そして、ゆっくりと小指をこちらへ突き出しました。怪我をしていない左手です。

 正直な話、少しどきりとしてしまいました。

 恐ろしくて竦み上がったわけではありません。『萌え』というものでしょうか? 上目遣いの坂本さんは、今までには感じたことのない幼児性がありました。僕は小児性愛者ではありませんが、もし坂本さんの年齢が著しく若くても、きっと同じことをしたでしょう。

 僕は坂本さんにゆっくりと歩みより、突き出された小指に自分の小指を絡めました。いつかの涼しい夏のように。

 もちろん、絵を描き終えても坂本さんを解放する気は微塵もありませんでした。せっかく手に入れたものを手放したりする人間など、存在するはずがありません。僕はただ、坂本さんに小指の先だけでも触れたかったのです。

 以前は指の感覚なんて、全く分からなかったのに、今回はどういうわけか、ひどくリアルに指の感覚が伝わって来ました。

 間接と間接の間に絡まる指。今までにないくらい、指の神経細胞が使われているように感じました。指切りという、ごくありふれた儀式のはずなのに、何だか卑猥な言葉に思えます。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」

 殺風景な地下室に、僕達の声だけが響きます。ふざけているわけではないけれど、リズムを付けて儀式の言葉を発しました。

 指切りをすると、坂本さんはパッと絡めていた指を離しました。

「それじゃあ描いて下さい」

 僕が美術室から持ってきた画材道具を押し付けながら、ぶっきらぼうな口調で話します。

 僕は黙ってそれを受け取り、部屋にある適当な大きさのキャンバスを持ち出し、新しい布を張りました。近くにあった椅子に座り、いつもの美術の時間と同じように坂本さんを描いてゆきました。

 僕が無言で手を動かしている間、坂本さんは僕がコンビニで買ってきた食料を食べていました。

 ビニールから取り出したパンを口に入れているだけだというのに、フランス料理のフルコースを食べているような優美な食べ方でした。長い指で器用にパンを千切っては、小さく開いた口にせっせと運んでいます。口に含んだパンをしばらく咀嚼している間、薄い唇が微かに動きます。

 あの唇に近付けたらどんなに良いだろう。ほんの一メートルの距離しかないけれど、僕は見つめているだけで胸が締め付けられるほど幸福でした。この様子は僕一人しか見ることができない。その事実が重要なのです。

 どんな構図で描くかはもう決まっていましたから、僕はパンを食べる坂本さんを見ながらも、キャンバスには全く違った坂本さんを描いていました。

 キャンバスに描かれるのは溢れんばかりの笑顔の坂本さん。完璧な想像で描きました。人物がを描くのは苦手でしたが、絵の中の坂本さんは僕だけを見て笑っていました。

 どれほど時間が経ったのか全く検討がつきません。気が付くと換気扇から漏れていた光は、弱々しいオレンジ色に変わっていました。僕は荷物をまとめると、坂本さんに「明日来ます」とだけ告げドアを閉めました。もちろんドアに鍵を閉めるのを忘れずに。

 家路につきながら時計を確認すると、まだ早い時間であることが分かりました。冬は日が落ちるのが早いのです。

 家に帰ると、母が僕に話し掛けました。

「おかえりなさい。あ、ねぇ、ちょっと知ってる? 一年B組の……誰かは知らないけど、行方不明らしいわよ。もう最近の子は何考えてるか分からないわ」

 大方連絡網で知ったのでしょうが、母はテレビドラマを見ながらまるでどこか遠くの国で起こった出来事のように言いました。母にとっての『最近の子』とはいったい誰のことなのでしょう? 僕は反抗期というものが不思議となかったものですから、現実味を感じないのかも知れません。

 警察が調べるのも時間の問題ということは分かっていましたが、どういうわけか僕にはあの地下室が警察に見つからないという確信がありました。なぜかは分かりませんが、そう感じたのです。

「そうだね、じゃあ僕宿題あるから」

 僕は自室へ続く階段に足を掛けながら、曖昧に答えました。

 僕はいつだって曖昧なのです。ふらふらと、適当に生きていたから曖昧な答えしか言うことができないのです。だから反抗期なんて労力を使う時期は一切来なかったのだと思います。

 母は僕の曖昧な答えに馴れていますから、適当な返事をして、テレビドラマを見続けました。

 僕は自分の部屋で、教科書を広げました。さすがに宿題を終わらせないわけには行きません。坂本さんがしたように、シャープペンシルをくるりと回してみます。勢いのついたシャープペンシルは半回転し、僕の指先へ戻ることなくノートの上に落ちました。僕はそれを拾わずに、自分の左手を眺めました。数時間前に坂本さんと指切りをした左手。

「あーあ、右利きだったら良かったのに」

 僕はため息の代わりに意味もなく大きな声で、伸びをしながら言葉を吐き出しました。

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