四章 玄の冬(3)
文化祭当日になっても、僕は岬先生に部室の鍵を渡すことはありませんでした。それは、文化祭について何も説明をしてくれない先生への当て付けだったのかも知れません。
結局僕は、坂本さんの綺麗な声で読まれる朗読を放送室ではなく、自分の教室で聴くことになりました。そこには、クラスメイト達が惰性で作成したと思われるレポートが、乱雑に掲示されていました。
当然、それらの掲示物を見るために足を止める人などはおらず、教室中はガランとしていて、騒がしい学校中で、唯一静かな場所なのではないかと思うほどでした。そこは、坂本さんの放送を聴きたい僕のために用意された部屋のようでした。
文化祭の間、僕は部室に一度も顔を見せることもなく、友人達と出店で買った食べ物を食べたり、演劇部の講演を見たり、そんなことばかりしていました。
下校時刻、日が落ちる時間が急に早くなり、まだ六時だというのに空の明るさが失われ始めた時間。
僕は岬先生に部室の鍵を閉めるように言われていたことを思い出しました。それに、通常どおり下校の放送をしなければなりません。ひんやりとしたドアノブに手を掛け、手首を捻り部室に入りました。
「あっ、先輩。お疲れようです」
坂本さんでした。夏以来会っていませんでしたが、全くあのときと変わっていませんでした。夏休みに旅行などには行かなかったのか、肌の色も相変わらず白いままです。
僕は、彼女がまだ部室にいるとは思っていなかったものですから、驚いたと同時にとても嬉しく思いました。
「放課後の放送ですよね。どうぞ」
そう言うと、坂本さんは座っている椅子から立ち上がり、帰り支度を始めます。
僕は、そんな様子を見ながら最終下校時刻を知らせる放送を始めました。毎日繰り返している台詞を言い終え、マイクの音を切り、鞄を手にとりました。
窓の外はもうすっかり暗くなっています。僕は思わず、坂本さんと一緒に下校したあの日を思い出してしまいました。
「そういえば先輩、あの教会の場所が分かったんですよ」
おもむろに坂本さんが声を発しました。スカートを握りしめ、真っ直ぐに僕の方を見ています。スカートを握るのは彼女の癖なのでしょうか?
その姿を見たとき、僕は初めて彼女と会ったことを思い出しました。
『一年B組の坂本みずきです。よろしくお願いします』
確かそう言っていたと思います。その声を聴いたとき、僕は……。
「だから、今から一緒に行きませんか?」
僕は、再び窓の外へ顔を向けました。外の風景は、以前坂本さんと帰ったときよりも暗いように感じました。
「今から、ってもうかなり遅い時間だよ。家の人も心配するし、また今度にしよう」
そうです。今からなんてとんでもありません。その協会にホームレスが住み着いている可能性だってあります。いや、ホームレスならまだ良い方です。殺人犯や変質者に遭遇したら、幽霊に呪われる方が何百倍もマシでしょう。
僕はとにかく反論しようと一度言葉を切り、再び口を開きましたが、坂本さんに先を越されてしまいました。
「でも約束したじゃないですか?嘘だったんですか? 指切り、しましたよね」
僕は坂本さんが、そんな幼稚な言葉を発する人間であったことに、ひどく驚きました。さらに驚くことに、彼女は涙を流していたのです。
僕は狼狽しました。頭の中が真っ白になり、普段あんなにあれこれと考えていることが嘘のようでした。
「わ、分かった。一緒に行くよ」
僕は思わずそう答えてしまいました。答えた、と言うよりは口が勝手に動いた、と言ったが適切なのかも知れません。
僕の言葉を聞くと、坂本さんはサッと涙を引っ込めました。
さっきまでの涙は何だったのだろう? 演技なのか、それとも指切り、という儀式が坂本さんにとって特別な意味を持っていたのか、僕には分かりませんでした。
「本当ですか?ありがとうございます!早く行きましょう」
坂本さんはそう言うやいなや僕の腕を掴み、グイグイと引っ張りました。それは、とても強い力と言えるものではありませんでしたが、従わざるを得ない、不可抗力のような不思議な力でした。
「待って、鍵を閉めないと」
坂本さんが部室を出てからも、腕を引っ張り続けたので、そう言葉を発しないと立ち止まることができませんでした。
僕は、素早く部室に鍵を掛け、それをポケットにしまいました。
「ほら先輩、行きますよ」
坂本さんが、僕を急かし、再び腕を掴みました。
その声は、言葉とは裏腹にゆったりと流れてゆくようでした。また、この状況を楽しんでいるかのようにも聞こえました。よほどその教会に行くのが楽しみなのでしょう。
坂本さんに引っ張られながら廊下を通り、下駄箱を過ぎ、校門の桜の下をくぐり、コンクリートの道を歩きます。
以前坂本さんとこれらの道を通ったときは、もっとゆっくりと時間が流れていたように感じました。
しかし今回は、そのときよりも長い距離を移動しているはずなのに、空間移動したのではないかと思うほど、早く時間が過ぎました。
「ここです」
坂本さんの呟くような声が聞こえます。それと同時に、さっきまで感じていた腕の違和感がなくなりました。
僕はやっと、それまで坂本さんの方へ傾けられていた身体を真っ直ぐにすることができました。
顔を前方へ向けると、写真でしか見たことがない教会という建物が見えました。こざっぱりしていて、とてもお化け屋敷には見えませんでした。
「早く入りましょう」
坂本さんは、僕の方を見ながら言葉を発しました。
僕は教会という未知の場所に足を踏み入れることを僅かに躊躇いました。
学校へ向かうとき、近道をしようと普段と違う道を通ろうと考えても中々実行に移すのは困難なものです。そのときと似たような感覚が僕を襲いました。
「先輩どうしましたか? もしかして、怖いんですか?」
坂本さんはそう言いながら僕の顔を覗きこみました。
首を斜めに傾けた坂本さん、長い髪はもうすっかり冷たくなった秋の風に揺られています。
触れたら消えてなくなってしまうのではないか?そんな心配をしてしまうくらい、彼女は儚げでした。
「別に怖いわけじゃないよ、行こう」
僕は坂本さんの手を引き、教会の中へ初めて足を踏み入れました。
重そうに見えた扉は、思いの他簡単に、軋んだ音一つたてずに、ゆっくりと開きました。
中に入ると、外とは全く違った空気でした。外だけではありません。僕が今まで感じたどんな空気や、雰囲気もそれに当てはまりませんでした。
色とりどりのステンドグラス、細長い机、小さなパイプオルガン、十字架に磔けられたキリストの像。それら全てが初めて見るものでした。
そして、想像していたよりずっと綺麗な場所でした。机の上をそっと指でなぞってみても、埃はあまり絡みませんでした。公共の場所なので、きっと誰かが定期的に掃除をしているのでしょう。
月の光がステンドグラスを通して入り込み、僕はお化け屋敷にやって来たというよりは、見知らぬ街に迷いこんでしまった。そんな気分になりました。
「あんまり怖くありませんね」
坂本さんの退屈そうな声が響きます。教室で聴く放送より鮮明に、近くで聴く僕に向けられた声より幻想的に聞こえました。
坂本さんは、自身の長い髪を耳に掛けながら、教会の奥まで足を進めました。
コツコツとローファーが床を叩く音だけが聞こえます。
「先輩! 階段がありますよ」
ローファーの歩く音が止み、坂本さんの興奮した声が、美しく夜の教会に響きました。
僕はすぐに、彼女の側へ駆け寄りました。
「本当だ」
僕はため息混じりに言葉を返しました。下へ続いている階段の先は、暗くて良く見えません。
「行きますよね?」
坂本さんが楽しげに言いました。
振り返ると、口角を少し上げた自然な笑顔が見えました。
坂本さんは、躊躇っている僕を押し退け、階段を降りて行きます。ローファーが、冷たい石の階段に当たり、乾いた音を響かせました。
「ま、待ってよ」
僕は急いで、坂本さんの後を追いました。
そこは、暗い地下室のようでした。電気のスイッチを押すと、オレンジ色の光で周りの様子が分かりました。
階段を降りた先には扉があり、ドアノブには鍵が刺さったままでした。
僕の前方にいる坂本さんは、鍵には目もくれずにドアノブを捻り、部屋へ入って行きます。
僕も坂本さんによって開けられたドアから、部屋に入りました。
その部屋には灯りがありませんでした。ゆっくりと回る換気扇から、月明かりが射し込んでいるだけです。
「凄い場所ですね」
坂本さんはそう言いながら、部屋の中央に立ち、周囲を観察していました。
僕も、まさか一人で帰るというわけにも行かないので、部屋の様子を見てみることにしました。
大量の画材道具。それが大半を占めていました。大きなイーゼルには、書きかけの風景画が置かれています。また別のイーゼルには、美術の教科書で見た、有名な人物画の模写もありました。
床には散乱した絵の具、水彩のものではなく、油絵に使うものです。筆も数種類落ちていました。
使い古したパレットは、薄い紫に近い、何とも形容し難い色を乗せています。
それらを見た僕は、ひどく懐かしい気分に浸りました。
というのも、僕は昔、油絵を描いていた時期があったからです。まだ学校のチャイムに馴れていなかった頃です。
小さなコンクールで佳作に選ばれ、図書館に飾られたこともありました。
当時の僕にとっての油絵は、一つの救い、でした。たくさんの友人と、自分の根本的な違いというものを、証明してくれているようだったからです。
友人達の中で、油絵を描く人がいなかったのも一つの原因なのかもしれません。美術の時間も水彩画の授業ばかりでした。
図書館に飾られた僕の絵は、他の誰にも描くことができない。
その事実は、家族や友人に誉められることよりもずっと僕を安心させ、同時に僅な優越感に浸らせてくれるものでした。
僕には、そんな遠い昔のことを思い出してしまうほど画材道具の散乱した地下室は、とても特別な場所であるように映りました。
「あーあ、めちゃくちゃ怖いって言うから期待して来たのに。大したことありませんね」
坂本さんの落胆した声が聞こえます。この部屋では、さっきのようには響かずに、固いコンクリートの壁に音が吸い込まれたみたいに聞こえました。
僕は坂本さんに返事をしようと口を開きました。
「じゃあ……」
帰ろうか、と言おうとして、ふと坂本さんの方へ目をやりました。
坂本さんは僕の方を向いていました。スカートを握りしめ、真っ直ぐな目をしています。ゆっくりと回る換気扇から射し込んでいる月明かりが、坂本さんを照らします。
僕はその様子を見て、初めて坂本さんにあったときのことを思い出しました。
――日本人形のようだ。
そう思った瞬間、僕は部屋から外へ出ると、鍵を回しました。
目の前の階段は、オレンジ色の光で照らされています。
その光に安心し、僕はドアノブから鍵を引き抜き、ポケットへしまいました。
チャリ、という金属同士の擦れる音が響きます。多分、部室の鍵と地下室の鍵が、接触した音でしょう。
僕は立ち去ろうと、ドアに背を向けました。オレンジ色に照らされた階段が見えます。
「先輩、ドアが開かないんですけど」
坂本さんの声が、背後のドアから聞こえます。
その声を聞いたとき、僕は久しぶりに笑いました。嬉しくて、笑ったのです。
こう書くと、僕が坂本さんに対して恋愛感情を持っている。だから、そんな異常な行動をしたのだ。と思う人がいても不思議はありません。
それは大きな間違いです。確かに僕は坂本さんのことが好きでした。しかしそれは、普通の人が人間に対して抱く感情とは全く異なるものなのです。
例えば、僕はカニと寿司が好きです。ゲームが好きです。映画も好きです。それらと同じように坂本さんもまた、好きなのです。
真っ直ぐ腰まで伸びた黒い髪、それとは対照的に透けるような白い肌、長い睫毛、綺麗に通った鼻筋、薄い唇、今にも折れそうな細い指、ほどよい肉付きの足、長いスカートから少しだけ見える膝小僧。
それらが好きでした。綺麗だから。美しいから。いつまでも見ていたい。そう思っていました。
好きなゲームのソフトは所有していたい、好きな作家の書いた、気に入っている小説は手元の本棚に置いておきたい。
それと同じように僕は、大好きな坂本さんを所有していたかったのです。
当時の僕は、恋人と呼べる存在もいませんでしたし、誰かのことを好きになったこともありませんでした。だからそのときは、坂本さんに対する僕の異常なまでの独占欲を、恋愛感情によるものだと勘違いしていました。
僕は、坂本さんを所有することができた、という満足感と優越感に、しばらくの間浸りました。
ゆっくりと階段を上がり、教会をあとにします。
家路を歩きながら、僕はこれからどうしようかと考えました。
坂本さんは、あの部屋から脱出しようと試みるでしょう。何か期限を付けようか? そうすれば、それを諦めるかもしれない。
様々なことを思い巡らせました。無意識に顔が緩んでしまいます。それほど僕は、幸福な感情で満たされていたのです。ストックホルム症候群というものを期待していたのかもしれません。
それからの僕は、上機嫌でした。自分の好きな子を所有しているという感覚が、こんなにも気持ちの良いものだとは想像もつきませんでした。
次の日には、僕に良い考えが浮かんでいました。
――坂本さんの絵を描こう。
どんなに素晴らしい考えだろうと思いました。
あの部屋には、たくさんの画材道具がある。幸い、僕は丁度授業で油絵を描いていましたから、絵の具やパレットなど、あの部屋にはないものも自分で用意することができます。