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四章 玄の冬(2)

 そんな幸せな毎日が過ぎてゆき、同じ放送部員である僕と坂本さんは、少しずつ言葉を交わす仲になってゆきました。始めは事務的な内容だった会話も、校門の桜が散り、青々とした葉を付け始めた頃には、試験の内容について、お互いの好きな食べ物、昨日見たテレビ番組について、のような他愛もないものに変わってゆきました。

 僕は一年生のとき、女子の制服が夏服に変わるというだけで、なぜクラスの友人達は、あんなにもはしゃいでいるのか全く理解できませんでした。

 しかし、坂本さんに出会った後の二年生の僕は、彼らの気持ちが手に取るように分かった気分になりました。

 僕は、夏用のセーラー服を纏った坂本さんを見るだけで、額や掌、背中からじっとりと汗を流しました。

 暑さのせいではありません。日直のときにクラス全員の前に立ち、号令をする。丁度そのときの、緊張感に近いものがありましたから、半袖のセーラー服を着た坂本さんを見た僕は、ひどく緊張していたのでしょう。

 この学校の女子達は全員同じセーラー服を着ているというのに、坂本さんが着たそれと比べると、何だかひどくみすぼらしいものを纏っているように見えました。目に滲みる真っ赤なスカーフ、紺色のスカート、それら全てが同じデザインのものであるとは、にわかには信じられない事実でした。

「あ、あのう、山辺先輩。今度の中間試験のことなんですけど……」

 坂本さんに声を掛けられて、僕は我に返りました。それまでずっと、ぼんやりと坂本さんのことを考えていたのです。いいえ、坂本さんに出会ったその瞬間から、僕の頭は彼女のことしか考えていなかったと言っても過言ではありません。

 薄暗い放課後の部室には、僕達二人しかいませんでした。窓からは夏の西日が射し込み、ジリジリと部屋を温めています。オレンジ色の空には大きな入道雲が浮かんでいるのが見えました。

「え、あぁ、中間ね。中一の中間は簡単だから、そんなに気構えること無いよ。それにまだ一週間前にもなってないじゃない」

 僕は坂本さんを安心させるために、そう言葉を返しました。閉めきった部室は蒸し風呂のような暑さで背中を汗が一筋、流れてゆきました。

 考えてみれば、一年生である彼女は、中間テストというものを受けたことがないのです。去年の僕がそうであったように、彼女もまた知らないものに対する不安を抱いていたのかもしれません。

 僕はそこまで考えると、すぐに言葉を続けました。

「まぁ、僕で良ければ何か手伝うけど」

 こんなことを言ったのは、坂本さんのため、という建前ももちろんあったのですが、あわよくば彼女と一緒に勉強ができたら良いのに。そんな願望もチラリと頭を掠めていました。

 僕の言葉を聞くと彼女は口角を上げ、目を少し細めて笑って見せました。

 薄い唇はこの瞬間、一番輝くのです。僕は坂本さんのその表情が見られただけで、とても幸せな気分になりました。部室には二人しかいない。そんなシチュエーションも手伝って、僕はひどく興奮しました。

 暑い部屋の中にいるというのに、さっきまで感じていた温度がなくなったかのように感じました。皮膚という皮膚が鳥肌をたてています。

「本当ですか? ありがとうございます」

 坂本さんは、明るく、嬉しそうな言葉を発しました。笑っている顔を、さらにクシャクシャの笑顔に変え、鞄から教科書や筆記用具を取りだし始めました。

 僕は、初めて彼女のそんな顔を見ることができたことに感動し、さらに鳥肌をたてることになったのは、言うまでもありません。

 坂本さんは数学が苦手でした。ノートに書かれた方程式を睨んでいる姿は、美術の教科書で見た美しい彫刻のように見えました。

「やっぱり難しいですね、数学」

 彼女はそう言いながら、眉にしわを寄せ、ちっとも日に焼けていない手に持ったシャープペンシルをクルリと器用に回転させました。

 僕はその様子を見て、その細い指の間に挟まれたシャープペンシルになれたらどんなに良いだろう、そう思ってしまいました。

「いや、違う。そこは連立方程式を……」

 僕は、坂本さんがシャープペンシルを走らせているノートに目をやりながら言いました。さっきまで鳥肌をたてていたというのに、一気に部室の蒸し暑さがぶり返して来ます。ゆっくりと額から汗が流れてゆくのを感じました。

「え? どこですか?」

 坂本さんはそんな言葉と共に、ノートを僕の方へ向け、少しだけ僕に近付いて来ました。半袖のセーラー服から伸びた細い腕が、僅かに僕の肩に触れます。

 もちろんそれらの行動は、ノートを見易くするために行ったものです。

 僕は、そんなことは十分に理解していましたが、僕の心臓の鼓動が坂本さんに聞こえてしまうのではないか? そんな心配をしてしまうほどの距離に彼女がいるので、とても驚きました。

 だって、つい数ヶ月前までは話をすることも困難であったのです。僕はリアルな夢を見ている。そんな錯覚に陥ってしまうほど、心地好い瞬間でした。

「えーと、ここはYにXを代入して……」

 僕は、坂本さんのことを考えるのに精一杯でしたが、必死に頭を回転させ、どうしたら分かりやすく連立方程式を説明できるのかを考えました。その甲斐あってか、僕の拙い説明でも坂本さんは理解してくれました。

 初めは首を捻り、頬杖をついていたのに、次第に僕の説明がなくても「こうですか」という声と共にサラサラとシャープペンシルを走らせるようになりました。

 そのページにある教科書の問題を全て解き終えたときです。先ほどまでオレンジ色だった空が、灰色に変化し、部室も電気を付けないと何がどこにあるのか分からないほど真っ暗になりました。

 僕は時計を確認し、最終下校時刻にしなければならない放送をすっかり忘れていたことに気付きました。坂本さんもそのことに気付いたようでした。

「あっ、もうこんな時間ですね。宿直の先生に会わないように帰りましょう」

 坂本さんはそう言いながら、机に広げられた勉強道具を鞄の中に詰め込みました。

 僕は、いつも行っている放課後の放送を忘れたという事実に狼狽しました。きっとそれでも岬先生に怒られるということはないでしょう。僕が一年生のときも、度々放送を忘れてしまう先輩がいましたが、誰も何も言いませんでした。

 けれど僕にとって放送を忘れるということは、とても重要な意味を持っていました。例えば、朝ごはんを食べていない。例えば、宿題をしていない。例えば、シャープペンシルの芯の買い置きが筆箱に入っていない。それらと同じようにその事実は、僕を不安にさせました。

「山辺先輩? どうしたんですか? ぼーとして」

 坂本さんの声を聞いたとき、僕はどういうわけかひどく安心しました。あの耳あたりの良い声は、ときに僕を図太くしてくれるということに、始めて気付きました。

「ごめん、ごめん。じゃあ、帰ろうか」

 僕は努めて明るい声を出しました。坂本さんと二人きりで下校できる。そんなチャンスはこのときを逃したら、もう二度と来ることはないでしょう。

 僕は部室の鍵を閉めると、それをポケットにしまいました。放送部では、放課後の放送を担当する部員が、鍵のスペアを持つことができます。だから、手元の鍵をわざわざ職員室に返す必要はありませんでした。

 午後九時を回った廊下は、非常灯の緑色の灯りだけで照らされていました。そこに僕達二人だけの足音が、響きます。今にも血まみれの幽霊が歩いて来てもおかしくはない。そんな雰囲気でした。

 そんなことを考え、僕は少しだけ夜の学校という、生活感の欠片もない場所に恐怖心を覚えました。

 ふと、坂本さんの方へ目をやると彼女は、背筋をシャンと伸ばし、ひどく退屈そうな横顔をしていました。

 そんな坂本さんを見て、僕は、幽霊を怖がっていた少し前の自分を恥ずかしく感じました。

 コツコツと暗い廊下に二人分の足音が響き、しばらく無言の時間が続きました。

 何だか気まずい……。僕から話し掛けるべきなのだろうか?そう思いながらも、僕は何も気の利いた言葉を捻り出すことができないでいました。

 下駄箱に到着すると、昼間とは対照的な、夏の夜の涼しい風が僕の頬を撫でます。坂本さんのセーラー服のスカートが捲れ、骨張った膝小僧が一瞬だけ顔を覗かせました。そのときです。

「山辺先輩って、怖いの苦手なんですか?」

 坂本さんの清んだ声が聞こえて来ました。どこかあどけなさの残る、子供のような声。それは何か面白がっている風にも聞こえました。

 彼女は下駄箱の扉を開け、上履きをしまい、黒光りするローファーを取り出しています。

「確かに得意ではないけど、特別苦手でもないよ。どうして?」

 僕も坂本さんと同じように、下駄箱から靴を出し入れしながら答えました。校庭に出ると、今までよりもずっと涼しい風が身体に当たり、僕の額に流れた汗を乾かしてくれました。

「だって、廊下を歩いていたときの山辺先輩。面白い顔してたから」

 坂本さんは、クスリと笑いながらそう言いました。少し下を向き、口を手で隠しています。長い髪が風になびいて、一瞬だけ僕の視界から坂本さんの顔が消えました。

なんだか馬鹿にされているような気がしましたが、不思議と嫌悪感などは抱きませんでした。

「だって公共の場所の夜って、全くと言って良いほど生活感がないじゃない? それが怖くってさ」

 本当は「怖くなんかない」「ホラーは大好きだ」そんなことを言って強がってみたいと思っていました。

 しかし、いざ口を突いて出てきた言葉は、僕の本心にとても近いものでした。

坂本さんの前だと、本心を話すことができる。この事実が、僕にとってどれだけ重要な意味を持っていたか、十年と少し生きた人間なら、簡単に理解することができるでしょう。

「確かに生活感のない場所は怖いかもしれませんね。廃墟とか、そうですし。お化け屋敷とかも、廃病院を改築したところは雰囲気出ていますね」

 等間隔で配置された蛍光灯で照らされた道を歩きながら、坂本さんは言いました。コンクリートで舗装された道に、影が伸びては短くなり、濃くなっては、薄くなりを繰り返していました。

 そういえば、坂本さんの家はどっちなのだろう? 時間も遅いし、近くまで送って行った方が良いのかも知れない。

 女の子と一緒に下校することは初めてのことでしたから、僕はいつそのことを切り出そうかどうか迷いました。しまいには僕の頭の中は、そのことでいっぱいになってしまい、坂本さんの言葉にどう返して良いのか考えられなくなってしったのです。

「あの、山辺先輩?」

 僕は随分と長いこと、頭を巡らせていたのでしょう。大通りの交差点まで、辿り着いていました。

 黄色の光に照らされた車道は昼間のような明るさでした。歩道沿いは、カラオケ店や、昼間はいつも閉まっている飲食店の看板が、よう々な色で発光していて、幻想的な風景でした。

 僕はしばし、普段は決して見ることのない風景を眺めました。この場には、学生服の自分達は相応しくないのではないか? そんな不安が頭をよぎります。

「山辺先輩!」

 坂本さんが、強く僕の名前を呼びました。心配そうに僕の顔を覗きこんでいます。彼女の凛とした声で、僕は我に返りました。

「ごめん、ぼーとしてて。近くまで送って行くよ」

 僕はずっと喉の奥に挟まっていた言葉を言いました。坂本さんは僕の言葉を聞くと、ほんの少しだけ微笑んでくれました。普段から彼女のことを目で追っている僕でさえ、その表情の変化は気が付きにくいものでした。

「ありがとうございます! 私の家、こっちですから」

 坂本さんは僕に話し掛けながら、交差点の向こう側を指差しました。赤く光る信号がその先に見えます。

 僕はまた無言で気まずい時間が二人の間に流れることを恐れ、ゆっくりと口を開きました。

「坂本さんは、お化け屋敷とかよく行くの?」

 僕が訊ねると、坂本さんは笑いました。まだ子供らしさの残る顔。笑うと、それが顕著に表れます。

「えぇ、まぁ。先輩は行かないんですか?」

 信号が緑色の光を放ち、それまで走っていた車が、まるで僕達のためだけに道を開けてくれたように停車しました。

 僕は、昼間のような黄色い光で照らされた横断歩道を進みながら、舞台役者にでもなった気分に浸りました。隣に坂本さんがいることもまた、僕をそんな気分にさせた一つの理由なのかもしれません。

「僕は、そういうところは行かないなぁ。近所にあれば行ったかも知れないけど」

 そうなのです。皆さんもご存知の通り、この学校の近くには遊園地やショッピングセンターといった大層なものはありません。電車で三十分ほど揺られないと、楽しめないのです。

 横断歩道を渡りきり、僕は坂本さんの歩調に合わせて、ゆっくりと歩を進めました。

「そうですよね。電車代、もったいないし。でも、お化け屋敷じゃないんですけど、この辺に心霊スポットがあるらしいんですよ」

 坂本さんは、民家のたくさんある集合住宅地へ通じる道へ歩きながら言いました。

 さっきまでの華やかな風景がさっと視界から消え、車の走る音で騒がしかった雑音も小さくなりました。

「心霊スポット?」

 僕は驚いて聞き返しました。近所にそのような場所があるなんて事、一度も聞いたことが無かったからです。廃墟すら見たことがありません。それに廃墟は許可を取らないと入ることができないというのも聞いたことがあります。

 僕は、余程普段とは異なる声を発したのでしょうか? 坂本さんは、クスリと鼻から息を吐き出しながら笑っていました。

「えぇ、私は行ったことはないんですけど、友達がめちゃめちゃ怖かったって言っていました」

 坂本さんは、夜空を見上げながら僕の問いに答えました。その横顔はいつもよりも青白く、とても美しい美術品のようでした。

 僕もつられて頭上に目をやると、星がポツポツと点在していました。きっと部室から見た入道雲でほとんどが隠れてしまっているのでしょう。歩いている道は、僕の知らない風景へと変わってゆきました。辺りには団地と思われる、壁に数字の書かれた四角い建物が増えてゆきました。

 坂本さんの話を聞いて、僕はめちゃめちゃ怖いというその心霊スポットに、興味を持ちました。

「へぇ、どんなところなの?」

 僕がそう言うと坂本さんは、少し眉にしわを寄せ、何か考えているような表情を作りました。それは方程式を眺めているときの表情と全く同じものでした。

 どんどんと周りには、数字の書かれた建物が増えてゆきます。歩いている道は、舗装されているコンクリートから、草の生えた道と呼べるかどうか分からないものに変化してゆきます。視線を横にずらすと、ゆっくりと流れてゆく川が見えました。

「さぁ、行ったことがないので良く分からないんですが、その友達によると教会なんだそうですよ」

 教会、という単語を聞いて僕の頭に浮かんだものは、たくさんのステンドグラスでも並べられた机でも中央にあるイエスようの像ではありませんでした。書物で得た曖昧な知識しかなかったのに、僕にとって教会という場所は、ひどく陰鬱として退屈な場所というイメージを抱かせました。それもこれも、僕が今までそういった場所に入ったことがないから思うことなのでしょう。

 しかし、そんな場所が心霊スポットとなるのだろうか? 外国人の幽霊が出てきてもあまり怖いと感じないと思います。やはり、髪の長い女の人の幽霊が出てきた方が雰囲気もあって良いと思う僕は、ホラーというものが分かっていないのかも知れません。

 僕がひとしきりそんな事を思っていると、坂本さんが言葉を続けました。

「それで、私も行ってみたいんですよね。先輩、今度連れて行ってくれませんか?」

 僕は驚いて坂本さんの方を見ました。吃驚しすぎて呼吸が一瞬止まってしまったほどです。涼しい風で乾いたはずの汗が、また噴出すのを感じました。

「どうして? 友達と行ったら良いじゃない」

 素直に頷けば良いものを、僕はそんな事を言ってしまったのです。直後、自分を心の中で激しく責めたてました。

 僕が自分の口から発せられた言葉を悔やんでいると、坂本さんの先ほどまでとは違う、小さな声が聞こえました。

「友達は、そういうの苦手な子ばかりなんですよね……その話をしてくれた友達は別のクラスですし」

 小さく、悲しそうな声でした。

 僕はなんてことを言ってしまったのだろう。そんな後悔の波が、どっと押し寄せて来るようでした。

「そっか、じゃあ今度一緒に行こうか」

 僕はすかさず言葉を返しました。

 丁度そのとき坂本さんは、一つのアパートの前で立ち止まりました。古く、二階建てのアパートは階段の手すりが錆びて捲れていました。

「本当ですか? 約束ですよ」

 坂本さんは、僕を後悔の念に追いやった声とは全く異なる声を出しました。

そして、透けるような色の細長い小指を僕の方へ突き出しました。月明かりに照らされたそれは、まるで人間のものとは信じられないほど美しいものでした。

その指は、指切りをするために差し出されたものだということは、すぐに分かりました。

 僕は、自分のゴツゴツした不恰好な指を彼女の美しいそれと絡ませることに少し躊躇しました、しかし、またそれと同時に興奮もしたのです。

「ゆーびきーりげーんまーん嘘ついたら針千本のーます」

 坂本さんの可愛らしい声が、夏の夜に響きます。

 僕は指切りをしている間、指の感覚が全くと言って良いほどありませんでした。彼女と絡ませた指をほどいたとき初めて、右手の小指がジンジンと、そこだけが別の生き物だと錯覚するほどの異常な感覚が僕を襲いました。

「それじゃあ私はここまでで大丈夫なので。送って頂きありがとうございました」

 坂本さんはそう言うと、小さな掌を僕に振って見せました。

 僕は、いつまでもその様子を見ていたい衝動に駆られましたが、踵を返し、後ろ髪を引かれる思いでその場を去りました。

 坂本さんと別れた後、僕の心臓はこれまでにないくらいの速さで血液を送りだしているのを感じました。


 翌日は案の定、放送を忘れた僕を詰る人物は現れませんでした。

 しかし夏休みも終わり、もうすっかり夏の暑さと言うものがなくなってしまってからも、坂本さんが放課後の部室に姿を見せることはありませんでした。その年は毎年行われていた合宿が中止になっていましたから、それから僕が坂本さんに会うことはなかったのです。

 あの、涼しい夏の夜にした約束を彼女は覚えているのだろうか? もしかしたら忘れてしまったのかも知れない。

 そんな思いも頭を掠め始めた頃のことです。文化祭が近づき、学校中がどこか浮き足だった雰囲気でした。

 僕はそんな浮わついた空気を嫌いながらも、密かに一日ずつ確実に近づいて来る文化祭の日を楽しみにしていました。

 それというのも、放送部も例に漏れず他の部活と同じように、出し物をすることになっていたからです。僕が一年生のときは確か、文芸部の作品を先輩が朗読していました。

 当時の三年生の先輩は、もうとっくに引退している時期でしたから、坂本さんと二人きりになることができる大きなチャンスだと思っていたのです。

 企画の段階では、その年も昨年と同ように文芸部の優秀作品を朗読することになっていました。文化祭の朗読は女子がすること、と決まっていましたから、坂本さんが作品を読むことになるであろうことは、春の段階から決まっていたと言っても過言ではありません。

 もしかしたら、そのときは既に坂本さんの手には、台本が渡されていたのかも知れません。

 一年生のときと同ように、僕は文化祭のことを何も知りませんでした。どうせ知っていたとしても、僕にできることなんて限られていますから、どっちにしたって僕のとる行動は変わらないのです。

「おい山辺、お前部室の鍵持ってないか?」

 僕がいつものように、放課後の部室でくつろいでいると、岬先生がドアを開け、そこから顔を覗かせました。黄ばんだシャツからは、遠くからでも分かる煙草の匂いが香ります。

「持ってますけど、僕のはスペアですよ。岬先生は持っていないんですか?」

 僕は、煙草の独特の匂いに顔をしかめながら言葉を返しました。

 ドアが開かれたとき、一瞬でも坂本さんが来たのではないかと考えた自分を、馬鹿らしく思い、心の中で岬先生を詰りました。

「それがさー、どうもなくしちまったみたいなんだよな。コピー作んのも面倒だし、文化祭の日はお前が鍵閉めてくんねぇ?」

 先生は、壁に片手を付きながらダルそうに話しました。肩を回し、首に掌を当て、疲れているようなポーズをとっています。

「分かりました。それじゃあ僕が鍵のコピー作ってもらいますよ。部費からとっても構わないですよね」

 岬先生の面倒なことが嫌いな性格は分かりきっていることですから、僕はそう返事をしました。

 予想通り先生は「おう」と短く言葉を発した後、すぐにドアを閉め、部室から出て行ってしまいました。

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