一章 青の春(1)
「なぁ、頼むよ」
「嫌です」
「そう言わずにさぁ、考えてみてよ」
私は目の前のうるさい男にうんざりしていた。もうかれこれ十分間はこんなやりとりをしている。
「新入生が入ってくれないとうちは廃部になっちまうんだよ。大丈夫、お前声かわいいし、俺のスカウトは確実だ」
目の前にいるのは担任の岬先生だ。担当科目は英語で、煙草の匂いのせいで生徒達からは嫌われている。
私は先生から香る特有の匂いに顔をしかめた。
先生は、先ほどから執拗に自身が顧問を務める放送部への入部を強く勧めて来ている。
「他にもかわいい声の子はいますよ。頑張って探してみてください」
私は部活動など興味がなかった。
五月のゴールデンウィークとやらが終わり、小学生のときよりも少し難しい授業にも慣れて来た頃、クラスの友人達はもうすでに部活動を決めていた。内申書に響くのは分かっていたが、どうしても部活動というものは馴れ合いに見えてしまい仮入部すらできないでいたのだ。
放課後の廊下には西日が射していた。そのせいで、まだ五月だというのに暑いと感じてしまう。ショートカットの私は首筋がじりじりと焼ける感覚が嫌いだった。
「他にも目を付けていたやつはいたよ。D組の中野とか、でもあいつもうバトン部に入ってんだよ。他にもC組の高橋とか赤石とか、A組は駄目なやつばっかりだし……」
先生は聞いてもいないのにベラベラと声のかわいらしい人物を挙げ始めた。誰も彼も、スカウトする前に他の部活動に入部しているらしかった。
「はぁ、そうですか」
別に急いでいるわけではないが、私はこんな西日の射し込んだ暑い廊下で長話を聞くほど暇ではない。適当に相槌を打ち下駄箱へと歩き出した。
「考えておいてくれよー」
吹奏楽部の人達が楽器を奏でる音に混じって先生の声が背後から聞こえた。
「はぁ? 放送部」
「うん、なんか廃部になりそうなんだって」
次の日の朝、私はとりあえず友人の葵に相談してみることにした。
クラスが違うので気兼ねなく相談できる。教室が遠いというのは問題があるが、私は階の異なる彼女のいる教室まで足を向けたのだ。
この学校では部員が三人以下の部活動は廃部になってしまう。放送部は、私が入部すればギリギリ三人の部員を確保したことになるのだろう。
葵は私と同じく部活動をしていないが、明るい性格とかわいらしい容姿のおかげで友人が多い。私はその中の一人でしかないのだ。その上まだ入学して二ヶ月足らずだというのに、学年の違う先輩にも知り合いがいるらしい。
だから学校の噂話には人一倍詳しい。顔が広いというのは何かと得だ。私は放送部に何か嫌な噂がないか、葵に探りを入れようと考えていた。
「岬先生に誘われたのかー。確かF組の担任だったよね」
「うん、私のクラスの担任だよ。やっぱり悪い噂とかある?」
岬先生は生徒達からの評判がよろしくない。煙草の匂いのせいだけではなく、口調も悪いからだ。一部ではロリータコンプレックスなのではないかという変態疑惑まである。それに宿題をたくさん出す。
私もあまり岬先生のことは好きではない。そんな私の思いを知ってか知らでか葵は涼しい顔で答えた。
「まぁ、岬先生は悪い人じゃないと思うよ。ちょっと変わってるけどね」
葵はそこで一旦言葉を切った。唇を舐め、何か考えているような顔を浮かべる。
朝のうるさい廊下のはずなのに、私にはここが水を打ったように静かになった気がした。
「まぁ、調べといてあげても良いよ。私そういうの得意だし」
そして葵は「ただし」と言いながら人差し指を付きだし、言葉を続けた。
「ただし、梢の暴露話を一つ聞かせてもらおうかな」
その言葉を聞き、私は驚くと同時に笑いが込み上げて来た。私に人様に話すような立派な暴露話などない。
実はバツイチでしたー。とか、実は男でーす。などといったインパクトのある衝撃的事実など、私は一切持っていない。私はごく普通の、どこにでもいる中学一年生なのだ。
「やだなー、そんな大層な暴露話なんてないよ」
私が笑いながら葵に返事をすると、葵は付き出していた人差し指を引っ込め、何か考えるように頭を掻いた。
「うーん。じゃあ好きな人とかいないの? いたら教えてよ」
その言葉を聞いたとき、私は心臓が口から出てしまうのではないかと思うくらい驚いた。葵の言う通り、好きな人がいたからだ。
「えっ、い、いないし。いたとしても言わないし」
自分でも分かりやすく動揺した声を出していることが分かった。なんだか自分が惨めに思えてくる。
「ふーん。いるんだ、なんか意外。で、誰なの?」
私は言わないと言っているのに葵はそんなことを言ってきた。
些か図々しくはないだろうか? しかしまぁ、違うクラスの葵に教えたところで、私に何か被害が及ぶわけではない。上手くすれば葵が協力してくれるかもしれない。なんせ葵は顔が広いのだから。
私は辺りを見渡して、近くに誰もいないことを確認し、声を小さくして囁くように言った。
「誰にも言わない?」
「モチのロンだよ。で、誰なの?」
私はいきなり死語を話し出した葵に面食らったが、当の本人の顔は真面目そのものだった。
「……三年C組の山辺先輩」
あー、もう言ってしまった。廊下には西日が射していないというのに、額に汗が噴出すのを感じた。
初めて山辺先輩に会ったのは、実験の授業の教室移動のときだった。落とした教科書に気付かなかった私に話し掛けてくれたのだ。
少し憂いを含んだ笑顔、何て良い人なのだろうと思ったものだ。きっと誰に対しても親切なのだろう。
「ちょっと待ってね、三‐Cの山辺か。『や』は結構後ろのほうだなー」
葵は鞄から分厚い手帳を取り出してパラパラと捲っている。いったい何をしているのだろう?
「あーいたいた、三年C組山辺孝之。頭は良いし、運動もまぁまぁ、身長が高くて、眼鏡を掛けとると。へー良いんじゃない。あっ、駄目だ。容姿がバツ印になってる」
葵の手帳には何が書かれているのだろう? 全校生徒の個人情報と、悪口の嵐だと考えると恐ろしい。しかし、山辺先輩はそこまで見た目が悪いとは思わない。価値観の違いというものだろうか?
私が首を傾げていると、葵は手帳に向けられている目を大きく見開いた。その直後、ため息混じりに呟く。
「所属、放送部……」
「ん? 今何て?」
私は思わず聞き返した。放送部と聞こえたような気がする。廃部寸前で、顧問が岬先生の。
私は放心状態になった。あのやさしい笑顔が頭を掠める。
そのとき、予鈴のチャイムが鳴る音がした。生徒達を時間で区切るチャイムの音だ。
「まぁ、私の好みじゃないけど、応援してあげても良いよ。じゃ、またねー」
葵は私の問いには答えず、意味深な笑みを浮かべながら手帳を鞄にしまい、教室へ戻って行った。
なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもないが、私は清々しい気分だった。
F組の教室は三階の端にある。玄関から一番遠いので他の組の人と比べると、損をした気分になる。
私は朝のホームルームの時間、ずっと放送部について考えていた。廃部寸前の弱小クラブだが、山辺先輩がいるなら入ってみてもいいかもしれない。昼休みになったら、入部届けを貰ってこよう。
そう決めたあとは、午前中の授業が退屈だった。早く入部したくて堪らなかったからだ。いつもは楽しいはずの得意な数学の授業も、どういうわけか身が入らなかった。窓側の席だったら外の景色を楽しみながら乗り切ることができるのに、生憎私は廊下側の席だった。私は自分の運のなさを呪いたくなった。
どれだけこの瞬間を待ったことだろう。私は昼休みのチャイムが鳴るとすぐに、職員室へと走った。
廊下の喧騒も、朝のそれとは比べ物にならないほどのものだった。人の行き来も、朝より多い。
私は人にぶつからないように気をつけながら、階段を駆け下り、職員室を目指した。職員室のある二階へ降りると、心なしか先ほどよりも静かになったような気がした。二階は職員室の他に、三年生の教室もある。やはり下級生の廊下とは雰囲気が落ち着いている感じがする。
私はゆっくりと職員室の扉を開けた。ノックをしてもどうせ中からは聞こえないのだから、テスト期間意外は勝手に開けても良いことになっているのだ。
職員室の中では、お昼ご飯を食べている先生、テストの採点をしている先生、良く分からないがパソコンをいじっている先生など、各々が自由に行動していた。質問をしている生徒もいる。
私は部屋を見渡し、岬先生を探すとすぐに駆け寄った。
「あのう」
「おう、なんだよ倉田。放送部に入る気になったのか」
先生は、冗談交じりにそう言った。きっと私が本当に入部する気になったとはすこしも思っていないのだろう。
「はい、私入部します」
私がそう答えると、先生は驚いた顔でこちらを見た。そしてすぐに笑みを浮かべる。それほど廃部にしたくなかったのだろう。
「はい。なので入部届けとやらを書きます」
昼休みの職員室。この時間はクラッシックではなくロックンロールの音楽が流れている。確か昼休みの放送は、放送部の仕事だったはずだ。もしかすると山辺先輩の趣味なのかもしれない。
しかしながら、食事時の音楽にしては重すぎるような気もする。
「おう、そうか。じゃあこれに書いて生徒会の誰かに渡してくれ。それと、来週の月曜日の朝、いつもより早く放送室に来て朝の放送をしてくれ。誰か説明する奴見つけとくから」
岬先生は左手に煙草を持ちながら右手で机の引き出しを開け、『入部届け』と書かれた紙を渡した。
「ありがとうございましたー」
私はそれを受け取り、適等に返事をすると足早に職員室をあとにした。真面目な話、あの煙草の匂いは法律かなにかで取り締まって欲しいほど酷い。
廊下に出た私は、制服のポケットからボールペンを取り出して壁に紙を押し付けながら入部届けに名前を記入した。不恰好な字になってしまったが、そんなことは気にしない。早速、生徒会の誰かに渡しに行かなくては!
私は生徒会室に向かいながら、放送部の部員について考えていた。葵の、あの分厚い手帳が何なのかは分からないが、山辺先輩が放送部員という情報はほぼ確実だろう。部員が三人以下だと廃部になる計算だから、あと一人は放送部員がいるはずだ。
――さっき岬先生に聞いておけば良かった。
私は少し後悔しながら、生徒会室のドアを叩いた。
誰かいるだろうか? もし会議の最中だったらどうしよう。
ドアを叩いたあとに、そんな心配をしても仕方がない。なかば開き直りながらも、自分から部屋に入ろうとするほど勇気のない私は、ドアが開かれるのを静かに待った。
「どちら様」
ゆっくりとドアが開かれ、低い声が聞こえて来た。顔を上げると、背の高い詰襟の学生服を着た人物が立っていた。
入学式のときに生徒代表として挨拶をしていた人だ。
確か、生徒会長さんだったと記憶している。
「えっと、入部届けを出しに来ました」
私は少し緊張した声で答え、握りしめていた紙を手渡した。
会長さんは、私の渡した入部届けに丁寧に目を通している。
することのない私は、ドアの向こうの生徒会室に目を向けた。
こざっぱりした部屋。大きな細長い机と、いくつかのパイプ椅子しか見えなかった。どうやら会議中ではなかったようだ。
「……放送部か。これで廃部にならなくて済むな」
会長さんは入部届けから目を放すとそう言った。なんだか廃部になって欲しいというような口振りだ。
――放送部に何か悪い噂でもあるのだろうか?
私が訝しんでいると、会長さんはドアを閉めようとした。
「あ、あの、ちょっと待ってください」
私は咄嗟に声を発した。会長さんの態度が気になったからだ。
「何だ? 私も忙しいから、用があるなら手短に頼む」
腕時計に目をやりながら、会長さんは不機嫌な声を出す。
「放送部の部員ってこれで三人ですよね」
「だから?」
会長さんは強い口調で言い、乱暴に自身の後頭部を掻いた。余程受験勉強で疲れているのだろう。
「私と、三年の山辺先輩と、あと誰がいますか?」
私が尋ねると、会長さんは明らかに目を逸らした。困った表情を浮かべながら後頭部を掻きむしっていた右手で、今度は優しく頬を掻く。
「二年生の坂本さん」
ぶっきらぼうにそう言うと、生徒会室のドアを大きな音をたてながら閉めた。
私は、生徒会室の前で眉をひそめた。いったい何なのだろうあの人は、いくら生徒会長だからってあの態度はあんまりではないか? さっきまであんなに浮ついていた気持ちが会長さんのせいで、ひどいものに変わってしまった。怒りがふつふつと湧き上がって来る。
時計を見ると、もうあまり休み時間は残されていない。私は急いで教室へ戻った。さすがに弁当を食べる時間がなくなってしまうのは困る。
午後は、会長さんの態度が原因で最悪の気分のまま授業を受けた。結局弁当も半分しか食べられなかったし、それもこれも会長さんのせいだ。
私は、頭の端で燻っている、行き場のない怒りをどこへやったら良いのか皆目見当がつかなかった。握っているシャープペンシルが折れるかと思うくらい強く握り締めていた。
そうこうしているうちに五時限目が終わった。あと一時間で家に帰れる。時間割を確認すると、六時限目は日本史だった。
日本史の先生は若い女の先生だったが、生徒に質問をすることなく授業を進める先生だった。それに宿題も出さないし、テストも簡単に正解できるようなものをつくるという噂だ。それが理由かどうかは分からないが、生徒の人気は高い。男女関係なく人気のある先生は彼女くらいなものだろう。
私は六時限目が日本史で良かったと、小さくため息を吐いた。たいした理由はないが、今日一日は何かと疲れる日だった。
やがてチャイムが鳴り、授業が開始された。先生の時折高くなる声はとても心地が良い。モーツァルトの音楽を聴いたときのように、眠くなってしまう作用があるのだ。
私は必死で眠気を抑え、山辺先輩のことを考えてみた。教科書を拾ってくれた先輩。私は何と言って親しくなろうか考えてみることにした。
ノートの隅にシャープペンシルの先を当てる。何か書こうと考えるのだが、面白いくらいに何も思い浮かばない。
一行目には何を書いたら良いのだろう? 先輩は私のことを覚えているかどうかさえ分からない。とりあえず自己紹介から始めれば良いのだろうか? いや、気候から始めるのがマナーだった気もする。とすると、本日はお日柄も良く~と始めるのが懸命なのだろうか?
私はシャープペンシルを握りしめたまま、たっぷり一時間は考えてこんでいたのに、結局一行も書けなかった。気が付くとシャープペンシルを握った右の掌は、汗でじっとりと湿っていた。
掃除が終わったあとの教室は静かだった。オレンジ色の夕焼けが差し込み、幻想的な雰囲気を醸し出す。そんな風景は、非現実の世界に思えた。
「えー、入部したぁ?」
放課後は葵と話をすることができた。廊下での立ち話は疲れるので、葵から私の教室に出向いてくれたのだ。
誰もいない教室は静かで、外から運動部の人達の声が聞こえるだけだった。
私はあのときの会長さんの態度を気にしつつも、山辺先輩と同じ部活動に入部できた事実に興奮していた。
「うん、来週の朝、部室に来いって言われた」
無意識に顔が綻んでしまう。そんな私をよそに、葵は真剣な顔をしていた。
「私、あれから調べたんだけど、放送部は止めた方が良いかも……」
葵は机に肘をつきながら、小さな声で言った。さっきから真剣な顔を崩さない。
本当に何か悪い噂でもあるのだろうか? 私は、会長さんの台詞を思い出した。
「それって、二年生の坂本さんのこと?」
私が尋ねると、葵は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、すぐにまた真面目な顔に戻った。机についていた腕を、膝の上に乗せる。
「知ってたんだ。まぁ有名だもんね。一応家出ってことになってるらしいよ」
葵の言葉に、今度は私が驚く番だった。坂本さんという人物は、放送部員ではないのだろうか?
「えっ? 家出ってどういうこと? 坂本さんはこの学校の二年生でしょ」
私の頭は混乱していた。家出ということは、行方不明にでもなっているのだろうか?
「あれ、やっぱ知らないの? これ苦労して聞き出した情報なんだけど、去年の文化祭の日に坂本みずきって生徒がいなくなったんだって。一応家出ってことになってるけど、当時は新聞とかテレビでも報道されたらしいよ。私あんまり覚えてないけど……それから放送部にはあんまり良い噂がないみたい」
葵の言葉に私はさらに驚いた。確かに、行方不明になった生徒が所属する部活動に入ろうという物好きは少ないだろう。まして報道もされたなら迷惑した人もいるはずだ。警察に事情聴取された人もいるかもしれない。会長さんのあの態度も納得できる。
つまるところ、放送部はあまり関わり合いになりたくない部活動として知られているわけか。
葵はきっと、親切心でこのことを教えてくれたのだと思う。警察沙汰になった事件を教えてくれる先輩も少ないはずだ。それでも苦労して聞き出して、それを私に教えてくれた。
私にだって、悪い噂のある部活動に所属していたくない気持ちはある。しかし私は山辺先輩と同じ部活動に所属していたいのだ。
「そうなんだ。でも私、退部はしないよ。教えてくれてありがとう」
私は葵に笑い掛けながらそう言った。
葵も私の気持ちが分かったのか、真剣だった顔を崩して優しい表情の笑顔を見せた。
「やっぱり、山辺先輩にアタックするため?」
葵は次の瞬間、私の方に身を乗り出し、ニヤニヤと楽しそうに笑った。
その通りではあるのだが、葵の言い方を聞くと、心中穏やかでない。
私が黙っていると、葵は空気を読んだのか「とこえろで」と言って話題を変えた。
「ところで、最近私落語に嵌ってるんだよね。『崇徳院』とか最高だよ」
「へぇ、どんな話なの?」
私が聞くと、葵はまたニヤニヤと笑いながら答えた。
「そうだなー、純愛系の話だよ。美容院には頻繁に行こうっていう教訓付きだよ」
――び、美容院に行く話しなのか?
私は不思議に思ったが、落語には生憎興味がない。まぁ機会があったら聞いてみよう。