かげ蕎麦
えー、世の中には当たり前すぎてそこにあること自体を忘れてしまうものが往々にしてありますが、そのうちの一つが影だと私は思います。
光があるところには必ず影ができますが、普段生活している中で自分の影をじーっと観察したりすることなんて滅多にありません。別になくったって死にはしないし、むしろ邪魔なことが多い。
この前なんて、家の中に見知らぬ人影が写っているのを見つけて、驚きのあまり思わず飛び上がってしまったんですが、正体はなんとまあハンガーにかけている服だったんです。
それを見ていた女房は「馬鹿だねえ。トカゲだってそんなに驚きはしないよ」なんて言っておりました。口の悪い女房ではありますが、女房のおかげで私もこうして好きな仕事ができているってことは忘れちゃいけませんね。
みなさん、今のは笑うところですよ。今日は暑いからお家に耳を忘れてきてしまったんですかね。
まあ、そんな風に影なんてなんの意味もないって思ってはいるんですが、馬鹿と鋏は使いようなんてことわざがある通り、世の中には上手に使う人もいるわけでありまして。
おっ! こんな所に屋台そばが止まってる。最近は厳しくなって、こうやって道路の端っこでやってる屋台はめっきりなくなってしまってるから珍しいねぇ。ちょうど小腹も空いてきたし、寄っていくか。すいませーん。
はい、いらっしゃい。何を作りましょう?
この店に来るのは初めてなんだがね、1番のおすすめはなんだい?
へえ、うちはどの料理にも自信を持っておりますが、あえていうとすれば「かげ蕎麦」がおすすめです。
「かげ蕎麦」だって? なんだいあんた、かけ蕎麦の言い間違いかい?
いえいえ、言い間違いじゃありません。かけ、ではなく、かげであっております。
へえ、かけ蕎麦は飽きるほど食ってきたが、かげ蕎麦なんてものは食べたことないね。それじゃあ、それを一つお願いしようか。
すると店主は奥へ下がる。湯煙が屋台の中で広がってつゆのいい匂いが広がってくる。しばらくすると店主が戻ってきて、お待たせしましたとお盆を客の前に出す。
お待たせしました。かげ蕎麦になります。
ちょっと待ってくれ。お盆には箸とお冷と薬味があるだけで他には何もないじゃないか。
いえいえ、お客さん。お盆の上をよーく見てください。
客が眉を顰めながらお盆に顔を近づける。するとお盆の真ん中にはうっすらとまーるい黒いものが見える。初めは盆の模様かと思ったがそれとも違う。盆自体を動かすと、光の当たり具合によって形が変わってしまう。まさにそれは影。ただ、普通の影と違うところは影の本体とも呼ぶべきものがないということなんですね。不思議そうに盆を見つめる客に店主がこう説明する。
数年前、盆にかけそばの器をそのままにしてしまったことがありましてね、そのせいで、盆にかけそばの影だけがくっついてしまったんです。初めは盆ごと捨ててしまおうかとも思ったんですが、遊び心でお客様に出したら評判が良くてですね、今ではうちの看板メニューになったんです。
はー、不思議なこともあったもんだ。だが、影だけあってもどうやって食ったらいいんだい?
何せ影ですから箸で掴んだりすることはできません。盆を両手で持って顔に近づけ、影の部分を直接舐めてくだせえ。
客は言われた通りに盆を両手で持ち、盆に映った影をひと舐めする。
いかがでしょう?
いかがでしょうって言われてもね。なんか変な臭いしかしないよ。この臭いはなんだい? カレーか何かかい?
いえ、一つ前のお客が昼にカレーを食べたと言っていたので、それのせいでしょう。まあ、蕎麦もつゆが1番大事ですからね。次は影の部分につゆをたらーとかけてからお舐めください。そうそう、薬味もありますので、そちらもご自由にお使いください。
客は言われた通り、つゆをたらし、薬務の一味をかけ、盆の影をぺろぺろと舐める。初めは他人の唾液が混じった嫌な臭いだけだったものが、ひとなめ、ふたなめしているうちになんとまあ病みつきになってしまう。
そばは食べればなくなりますが、影はいくら舐めてもなくならない。客は時間を忘れて影を舐め、それから満足そうな表情で顔を上げる。
いやー初めは半信半疑だったけれど、影を食べるのは癖になるね。私もね、自慢じゃないが色んな上手いものを食ってきたが、こんな病みつきなる食べ物は初めてだよ。
そこまで言っていただけて私も嬉しいです。
本当に素晴らしいと思ってるんだよ。こんな屋台で出しておくには勿体無い。そうだね……急な話で申し訳ないんだけど、こういう屋台じゃなくて、ちゃんとした店で出すつもりはないかい?
と言いますと?
実は私はね、いくつか飲食店を経営しているんだよ。お金はこっちで出すから、どこかお店を出してみないかい? シャレじゃなくて、本当だよ。こんな素晴らしい料理、道路の端っこで縮こまってやるもんじゃないよ。
いえ、そう言っていただけるのはありがたいんですが、私は今のままがいいんです。
そんなこと言わないでくれよ。私はね、このそばのファンとして本気で言ってるんだよ? 一回やってみるのもいいんじゃないか?
ありがたいお言葉です。ただやっぱり、今のまま屋台でそばを出していたいんです。
なんでそんなに頑ななんだい?
だって、お客さん。うちの名物はかげ蕎麦ですよ。こうやって、車道でやるのがお似合いでしょう。