魔法の鏡
キーラという名前の女が、湖のほとりにある小さな森に住んでいました。
湖の水は澄み渡り、底を泳ぐ魚までもよく見えるほど。罠を仕掛けると三日に一度くらいは魚がかかります。森の恵みと湖の恵みに感謝しながら、質素な暮らしをしていました。
彼女はしいて言うなら薬師です。この辺りでとれる薬草はそれほど珍しくありませんし、作った薬も霊験あらたか、なんて大仰なものではないのです。それでも、昔ながらの薬を欲しがる年寄りはいて、貴重な現金収入を得ることが出来るのでした。
そんなある日、魚の罠に奇妙なものが入っていました。拾い上げてみれば美しい鏡です。顔から胸元まで映せる大きさのそれは、見事な彫刻に縁どられています。一目で気に入った彼女は、鏡を家に持ち帰りました。
湖の清い水のせいか、鏡はまったく汚れていませんでした。わずかな欠けもありません。彼女は水気を丁寧に拭くと、棚の上の古い鏡と取り替えました。この場所に鏡を置けば、自分の顔が丁度良く映るのです。
鏡に映った自分の顔を見て、彼女は苦笑しました。相変わらず化粧っ気も愛想もないからです。自分にも、この小屋と言っていい家にも、美しい鏡は相応しくありません。町に行って売り払い、お金に換えようかと考えました。
翌朝、いつものように、彼女は鏡を覗きました。すると、鏡にくすみが無いせいか、少しだけ自分が綺麗に見えたのです。ちょっと、いい気分になり、その日は鼻歌を歌いながら仕事に精を出しました。
数日後、いつものように町に薬を売りに行きました。すると、いつになく人々の視線が自分に集まるのを感じます。どうしたのかしら、と思っていると一人の男が一緒に酒をどうだ、と誘ってきました。適齢期もとうに過ぎた自分を揶揄っているのだと思った彼女は「また今度ね」と軽く流しました。
ある日、キーラは鏡の中の自分を見て気付きます。
「わたし、綺麗だわ…」
『ええ、あなたは綺麗ですよ』
誰もいないはずの小屋に、男の声がしました。
「誰?」
『私です。貴女が拾ってくださった鏡です』
「……魔法の鏡?」
『はい、私は魔法の鏡。貴女のお役に立ちましょう』
その日から鏡は、覗くたびにキーラを褒めるのでした。
町に行くたびに人々の様子は変わりました。見知らぬ男から贈り物をされ、買い物をすれば男の店主が過剰におまけをよこします。見知らぬ女から睨まれ、店主の女房からは舌打ちをされました。
「ねえ、町へ行くと皆がわたしを見るの。気分がいいわ」
『そうでしょうね。町には貴女ほどの美女はいませんからね』
「この辺りでは一番かしら?」
『いえいえ、貴女は国一番の美女ですよ。
たとえ王冠を戴いても、きっとお似合いになるでしょう』
「まあ、褒め過ぎだわ」
『嘘でもお世辞でもありませんよ。
ご自分のお顔をよく、ご覧ください。
なんという美女でしょう!』
彼女は鏡の中の自分を、じっと見つめました。
『……この粗末な小屋には相応しくありませんね。
貴女は王宮で、人々に傅かれるほどの美女ですから』
鏡の声は、彼女の頭の中に入ると波紋のように体中に広がっていきました。
やがて、妖艶に微笑んだ彼女は言います。
「そうね。わたくしは王宮に向かわなくては。
わたくしに相応しい場所に居るべきですものね」
意気揚々と王都に出向いた彼女でしたが、着いた早々ひったくりに遭い、荷物を全部盗られてしまいました。そうすると、なんだか急に頭が冷えたのです。落ち着いて通りの様子を見てみると、どうにも思い描いていたのと違います。平民の娘たちですら、それぞれが美しく輝いているように見えました。
比べてみれば自分など、田舎者の年増。一瞬で気持ちはしぼみ、道端にへたり込んでしまいました。
「お姉さん、大丈夫?」
様子に気付いた、平民らしい娘が声をかけてくれました。
「田舎から王都に着いたばかりなのに、荷物を盗られてしまったの」
「それは大変。とりあえず、騎士の詰所で相談したらいいわ」
詰所に案内してもらい、届は出したものの、荷物はおそらく戻ってこないだろうと説明されました。途方に暮れて外に出ると、先ほどの娘が待っていてくれたのです。
「お姉さん、荷物を全部盗まれたなら今夜の宿にも困るでしょう?
よければ、うちに泊まって行けば?」
「ご迷惑では?」
「全然。たいして綺麗なところでもないけど、遠慮はいらないわ。
わたしはソニヤよ」
「キーラよ。ありがたくお世話になるわ」
ついて行ってみると、娘の家は下町の食堂でした。
「ヴァロ兄さん、ただいま」
「遅かったから心配したぞ。そろそろ混み始めるから手伝ってくれ。
……その人は?」
「王都に来たばかりで荷物を盗まれたのよ。
今夜、うちに泊めてもいいかしら?」
「困っている時はお互い様だ。もちろん、いいさ」
「ありがとうございます。出来ることがあれば、お手伝いさせてください」
「じゃあ、済まないけど、片付けを頼めるかな?」
「はい」
キーラは厨房で鍋釜皿をたくさん洗いました。そして、店を閉めた後、温かな夕食を御馳走になりました。それからソニヤの部屋に案内されると、そこで、あの魔法の鏡とよく似たものを見つけました。
「この鏡は?」
「うぬぼれ鏡と言うの」
「うぬぼれ鏡?」
「ええ。昔、魔法の鏡と言うのがあって、持ち主の女性を褒めたんですって。
すると、不思議に褒められた女性は本当に綺麗になったんだって」
「まあ」
「だけど、鏡は強欲で、立派な屋敷の綺麗な部屋に飾られたくて、持ち主がそんな場所に住めるように、おだてまくったのですって」
「おだてまくる……」
「でも、身分のこととかいろいろあって、そうそううまく行かないでしょう?」
「……そうね」
「それで、たいていの女性は我に返って、鏡を捨ててしまったそうよ」
「あら」
「でも、鏡を覗いて綺麗になろうとするのは悪いことじゃないって、その意匠を真似た鏡が売られるようになったの」
あの鏡はもしかしたら、その魔法の鏡だったのかもしれません。
盗まれたことで、自分は我に返ることが出来たのかもしれない。もし、あのまま本当にお城を目指していたら……まずいことになったかもしれない。
荷物は全部盗まれてしまったけれど、たいしたものは入っていなかったのです。もしかすると、盗まれて幸運だったのかも、とキーラは思いました。
元居た場所に帰るにしても、全財産を盗られたキーラには、銅貨の一枚もありません。
「帰る旅費を稼げるような仕事が、何かないかしら?」
「故郷に家族が待っているのかい?」
ヴァロに訊ねられて、少し考えてみました。
「いえ、誰も。寂しい一人暮らしだったし、帰らなくても困る人はいないわ」
「じゃあ、しばらくうちで働けばいい」
「いいのかしら?」
「あんたは真面目に手伝ってくれたし、信用できる人だ」
そんなこと、誰にも言われたことがなかったので、キーラは嬉しくなりました。
「では、しばらくご厄介になるわ」
途中から話を聞いていたソニヤも喜びました。
「よかった、これでわたしも、安心してお嫁に行けるわ」
「あら、そうなの?」
「うちは兄さんとわたしの二人で切り盛りしているから、恋人と結婚した後、どっちの仕事を手伝うか悩んでいたのよ」
「ソニヤの代わりがわたしに務まるかしら?」
「大丈夫。こう見えて、兄さんは人を見る目があるわ」
「いったい俺は、どう見えているんだよ?」
仕込みの最中の厨房は、笑いに包まれました。
ソニヤは、ひと月の間、キーラに仕事を教えてからお嫁に行きました。後を任されたキーラは、薬草を扱っていたこともあって、野菜の目利きが出来ます。市場の買い出しで活躍し、ますますヴァロに信頼されるようになり、やがて、お互いに好意を寄せあうようになりました。
仕事を本格的に手伝い始めてから一年後のこと。ヴァロはキーラにプロポーズしました。キーラは喜んで「はい」と返事をしました。その後、二人は仲の良い夫婦として働き続け、たくさんのお客さんのお腹を幸せに満たしました。
一方、魔法の鏡は巡り巡って、とある盗賊の親分の手に渡りました。引退する親分へと、手下から贈られたのです。
鏡は隠れ家に飾られましたが、どれだけ褒めても親分は返事をしません。それどころか、鏡を覗くことも無いのです。
『私が、褒めるところのない容姿を、これだけ苦労して褒めているのに、何も反応が無いとは……』
実は、親分は耳が遠くなって仕事から足を洗ったのです。どれだけ鏡が声を上げても、少しも届かないのでした。
自分で動くことのできない鏡は、親分が亡くなった後、隠れ家に取り残されました。そして、長い年月の間に家と共に地面に埋もれてしまい、その後は二度と地上に出ることがありませんでした。