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奈良の鹿に角は生えているのか?

作者: ごま

 男は目を覚ます。微かな頭痛と共にベッドから起き上がり、洗面台へと向かった。タオルで顔を拭いているとスマートフォンが鳴った。テーブルの上で震えているそれを男は手に取る。

「はい」

「はいじゃないがな。マコト、ちゃんとおきとんのか?」

「起きたよ。ヨウは心配性だな」

「なに、今日は大切な日だからさ。遅刻するなよ、式は待ってくれないからな」

「分かってるよ。結婚式に遅刻する奴が居るか」

「泣きすぎて入学式に遅刻したやつがよく言うな」

「やめろよ、しつこいな。小学生の話だろ」

「はははっ。さっさと用意して来いよ。みんな待ってる」

「分かってる。ヨウは心配性だ」

「いつものことだろ?」

 ヨウはそうマコトに笑いかけて通話を切った。マコトは端末の画面を見つめる。時刻は午前9時を回ろうとしていた。自宅から都内の式場まで電車を利用すれば40分前後で着くだろう。少なくともナビはそう言っている。遅延情報も表示されていない。マコトはため息をつく。式は12時から。今から用意して行けば十分だ。

 

 支度をしながらマコトはヨウとの日々を思い返していた。

 

 二人の出会いはお互いの家が近所にあったからだ。同じ小学校に通うようになって、同じ時間に一緒に毎日登校するようになった。低学年のころまでヨウはマコトの手を引いていた。

「泣き虫のマコトはウチがいないとダメだからな」

 幼いヨウは口癖のようにそう言っていた。

 たしかに幼いマコトはよく泣いた。とくに親から引き離されると激しく泣いた。だから入学式でマコトは一人になることを拒み、泣き暮れておかげで遅刻したのだった。

 ただ不思議なことにヨウは出会いの初めからマコトを泣き止ますことできた。

 それは幼稚園のときだ。教諭にもさじを投げられ部屋の片隅でマコトは一人泣いていた。その様子を見たヨウはマコトのそばにより、マコトの頭をぽこんと叩く。

「泣くな。ウチがいるぞ!」

 マコトは困惑した顔でヨウを見た。ヨウはにへらと笑ってマコトの手を取った。

「砂場で山を作ろう。富士山だ!」

 

 駅のホーム上でマコトは鼻をかむ。高架線上にあるため街の奥のほうに富士山がよく見えた。春の風がマコトの頬を撫でる。丸めたティッシュを飛ばさないようにポケットの中に入れた。マコトのポケットは夢とごみだらけだなとヨウは笑ったことがある。まとめて捨てておくほうが効率的だろ? マコトはそう答えた。


 疎遠になるというのは自覚しにくいものだ。ただふと気がついたらマコトの隣にはもうヨウは居なかった。自分は男で、ヨウは女だ。結局住む世界が違ったのだと中学生のマコトは納得していた。

 ときおり学校で見かけるヨウの横顔、そして少年のような笑い声、それらがすべてマコトの脳に焼き付いていた。

 再び接点が増えたのは高校受験をひかえた冬の日からだった。冬期講習を受けた塾が同じだったのだ。席が近く、そして帰る方向も当然一緒だった。

 まず二人は進路のことについて話した。共通の話題といえばそれしかなかったのだ。そして二人の志望校が同じだといことが判明した。

「近所でまあまあのとこだとそこだもんな。サッカー部も活気あるらしいからね。高校でもサッカーやるんだろ」

「ああ。どうせナンコー行った先輩、武藤さんとかに誘われるだろうし。しかしヨウならもう少し上のとこ狙えるんじゃないのか。内申とか模試の偏差値的に」

「偏差値は当てにならんさ。ただまあ狙えんこともない」

「じゃあなんでさ」

「なんだよー。ライバル減らしたいのか?」

「いいや、ちょっと気になっただけ」とマコトは下唇を噛む。

 ヨウはにやりと笑った。

「だいぶ気になっとるがなー。マコトはいつも分かりやすいなあ。昔と変わらん」

「うっさいよ」

「まあまあ怒るな。ただまあ、あそこを狙うのはあたし個人的な理由もある」

「個人的な理由? あそこってバレーが強かったっけ」

「バレーじゃないよ。別にバレーはどこでもやれるさ」

「じゃあなんだよ。あんだけ真面目にやってたのにさ。県の強化選手にも選ばれたんだろ」

 ヨウはまじまじとマコトを見た。

「マコトに言ったっけ?」

「母さんが話してくるんだよ。ハルナおばさんとうちの母さんよく話してるだろ」

「ああ、そういうことか。マコトがウチの知らないとこでウチのこと聞き込みでもしてんのかと思っちゃったよ」

「そんなんするわけない」

「よく目が合ってたから勘違いしてたわ」

「ヨウの声が耳に響くんだ。だから目がいく。そんなんよりなんでナンコーなんだよ?」

「いまは教えない。受かったらヒントをあげよう。そしたら勉強頑張るだろ?」とヨウは笑った。

 マコトは釈然としなかったがそこで話をやめた。ただ受かったら必ず聞こうと思った。


 マコトは合格発表のときのことを今でも覚えている。マコトの番号を見つけたヨウが泣くほどに喜んだのだ。

「よがっだなああ」

「お前、自分の番号も探せよ」

「ひっぐふぎゅ、そんなんあるにきまってんじゃん」

「お前なあ」とヨウの鼻をティッシュで拭った。

 こうして二人は同じ高校に通うことになった。


 車内は空いていた。マコトはシートに座らないでドアの横で立っていた。流れていく景色なかにあるはずの母校を探すためだ。見つけたそれはすべてと同じ速度で去っていった。マコトは視界から消えるまでそれを追った。そうだ。あのときの三年間ですべてが決まったのだ。


 マコトが高校に入学してからもっとも驚いたのはサッカー部のマネージャーにヨウがなったことだ。ヨウはすぐに馴染んだ。先輩にも同級の男どもにも気軽に話しかけられるようになった。ヨウはそういう人間なのだ。

 梅雨が開けた頃、たまたまマコトはヨウと一緒に帰宅する機会を得た。土曜の昼練後のことだった。校門を出てからグラウンドに沿って流れる用水路の側道を二人は並んで歩いていた。

「ざ、ざ、ざーりがにーのーにおーいがするよー」

「ヨウは黙って歩けねえのか」

「ザリガニのにおいってさ、夏って感じせんか?」

「しないね」

「はん。センスねえなマコトはよ」

「うるせえ」

「でもさ、片付けとか手伝ってくれてありがとな」とヨウはマコトに笑った。

「藤沢先輩がいなかったからな。一人じゃ大変だろ」

「うん。ああ、さっちーパイセン、だいじょうぶかなあ」

「夏風邪らしいな。大丈夫だといいが」

「……、ねえさっちーパイセンとムトウ先輩ってつきあってるの?」

 マコトは立ち止まってヨウを見た。

「そんなんしらん」

「そっかあ、マコト、ムトウ先輩と仲いいじゃん」

「気に入られてるけどそんなことを話す仲じゃない。でも、どうだろうな。武藤さんサッカー一筋だし。俺としては誰かとどうこうする気はないように見えるね」

「ふーん、なるへそ」

「急にどうした?」

「なーんでもないさ。ただ一昨日くらいに二人がこっそり話してるのみかけてね。んで、今日さっちーパイセン休んでるから、まあそういうことなんかなって思ってただけ」

 マコトは眉間を寄せた。

「よく見てんな」

「マネの仕事で聞きたいことあってさ、探してたらたまたまってわけ」

「ふうん。たまたまね」

 マコトはそれで片付けた。世の中には偶然があふれているからだ。

「ヨウもいっぱしに恋バナとか気にすんだな」

「はあ?! こらこら。うら若いオトメを枯れたように扱うじゃない」

「ザリガニの匂いで夏を感じるようなやつがうら若いとか言ってもな」

「こちとら情緒にあふれとるんよ」

 マコトはその言い草に笑った。久しぶりに笑った気がした。

 

 人が降りて、人が乗ってきた。少しずつ混み合う車内でマコトは車窓の向こうにある春風を眺めていた。あと数駅で目的地に付く。思考は依然として鈍いままだが、自分が何をしにいくかははっきりしていた。コートのポケットでスマートフォンが震えた。もう家を出たかというメッセージが入ってきていた。マコトは送り主をじっと見つめる。昨日の夜遅くまで付き合って酒を飲んでいた相手だった。追加でメッセージが流れる。ヨウも心配してる、と。マコトは大丈夫ですと返信した。大丈夫です、二度寝はしていませんよ。武藤先輩にしこたま飲まされて頭痛いですけどね。


「ヨウを幸せにする。オレは絶対。マコト、お前も知ってのとおり総体前にくだらない怪我してよ。人生でいちばんくさってた。そんときからヨウはずっと支えてくれたんだ。サッカー止めんなって。おかげでプロになれたし、ここまで来れた」

 マコトは黙ってビールをすする。目の前の男はジョッキの中身を一気に胃へと流し込んでいる。

「アイツはずっと武藤さんのこと考えてましたよ。お似合いです」

 マコトのその言葉に武藤は動きを止めてからじっとマコトを見つめた。

「お前がそう言ってくれるのがなによりも嬉しいよ」

「そりゃどうも」とマコトは笑った。どこから来た笑いなのか判然としなかった。


 あのときは冬の間近だった。マコトはひっそりと泣いているヨウを見つけた。体育館裏のベンチでじっと我慢するように身をこごめながら泣いていた。セーターの袖はだいぶ濡れている。マコトは静かにヨウの前に立った。

「どうした?」

 ヨウは静かに顔を上げた。

「なんでもない」

「そうか。顔拭くか?」

 マコトはハンドタオルを渡そうとした。ヨウはじっとその手を見た。

「マコトもでっかくなったんだな」

「どうした?」

 マコトはヨウの涙を勝手にぬぐった。ヨウはその手をやわらかく包んだ。

「ありがとう」

 マコトはそのぎこちない笑顔を見て、自分の手の届かないところにいることを悟った。

「修学旅行さ、奈良と京都だってな」

「え、なんだよいきなり」

「奈良には鹿すげえいるよな。そいつら全員角生えてたらさ、いろいろ大変なんじゃないかって思ったんだ」

「はあ?」

「鹿の角って立派なもんじゃん。それがたくさんだぜ? 鹿せんべい上げる時にでもケツを角で突かれたらどうしようもないじゃないか」

「ふっ、ん、笑える光景だなっ」

「だから気になってたんだ、奈良の鹿に角は生えてるのかってさ。ヨウも修学旅行いくだろ。角生えてる鹿がいるか探してみよう。居たらそいつに鹿せんべい渡して手懐けるんだ。観光客の尻を突かないよう教育しないといけない」

「馬鹿だなあ、マコトは」

 そうヨウがあきれるように笑ったのを見て、マコトはヨウから手を離した。

「いこう。部活が始まる」

「ああ、探させてごめんな。見つけてくれてありがとう。けど部活はいかない。先輩のとこまた行くよ」

「そうだな、それがいい」

「じゃあ、また明日な」

 ヨウは立ち上がって歩き出した。その小さな背中をただただマコトは見送るだけであった。


 今日も見送ることになる。改札口を出て、人通りの駅前を歩く。一度信号を待ってから坂を下りていった。大学に通っていたときよく見ていた景色だった。いつかはこうなるという予感の中で見ていた景色だった。会場に到着する。ロビーでは礼服で着飾った人々が行き交っていた。受付にはヨウの母親がいた。マコトを見つけると嬉しそうに笑った。あの子が会いたがってた、いまはもう待機室にいるから見に行ってあげて。マコトは言われた道を歩いていく。磨かれた床が革靴の底を削っていった。待機室の扉の前に立つ。一つ呼吸してから、ノックをした。誰何の声が中から響く。フルネームで答える。友人の、桐原マコトです。入室の許可が出た。マコトは重い扉を開いた。そして小さな、小さな背中が見えたのであった。

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