晩秋の深夜徘徊事件1
アロウと双子の受難
※このお話は全5話のうち、後半にR15展開を含みます。コメディですが、苦手な方はご注意。
これはフェインが国王として正式に即位した年の、晩秋の出来事である。
イルダは、魂に癒着した呪いの影響で空咳に煩わされている主人の就寝前の世話をしていた。
体温を計り、聴診器で胸の音を聞き、咳止めの薬を飲ませる。
呪いの影響なので薬はあまり役には立たないが、無いよりは幾分かましだ。
苦味の強い液体を飲み込み、口直しにスプーン一杯分の蜂蜜を舐めて、オリビアは羽枕に沈みこんだ。
こう一日中咳き込んでいては、疲れもするだろう。
目を閉じて横向きに丸くなり、空咳の合間に「おやすみ」と呟く主人の背に、イルダは心配の目を向ける。
ここ最近、イルダの主人は自覚も無いままに、夜中に屋敷を徘徊しているのだ。
ことが発覚したのは三日前のこと。
オリビアの私室の扉を守る夜勤の魔術師から、奇妙な報告が上がった。
「深夜過ぎでしょうか、殿下が何も仰らずに部屋から出ていかれたので、これはおかしいと思い、引き止めたのですが……」
イルダは眉根を寄せた。
オリビアは脱走する時は扉から出て行ったりしないし、出ていく時は〈遮断の腕輪〉で気配を絶って行く。
とくに疚しい事が無く普通に扉から出ていくときは、必ず見張り番の魔術師に労いの言葉をかける。
深夜にドアから無言で気配も消さずに出ていくだなんて、おおよそオリビアらしくもない行動だ。
「何を言っても返事をしてくださらず、表情も虚ろで……ひとりで歩かせておくわけにもいきませんから後を追ったのですが、廊下の半ばで倒れたかと思うとそのまま寝入ってしまわれて」
「……夢遊病ですかね」
と呟いたのは、この手の分野に詳しいエトルリアのネモである。
新しく宮廷医に就いた女医のシエスタも、「症状は一致しておりますわね」と頷いている。
ちらりと中庭に送り届けた主人に目を向けると、オリビアは廊下で立ち話をしている四人を不思議そうに見ていた。
気になる、という好奇心に満ち満ちた目をしている。
「……こんな所で話しているとオリビア殿下に聞かれてしまう。どこか適当な場所は無いか」
「でしたら、王宮の医務室などいかがでしょう。幸い今は、患者もおりませんし」
白衣を着たシエスタの一言によって、一同は医務室へ向かった。
去り際、イルダがちらりと横目を向ければ、オリビアの関心はアロウが運んできた書物に移ったようだ。
最近の従兄弟はやたらとオリビアの周りをうろついている。
主人が嫌な顔をしていないので放っておいているが、何を企んでいるのやら。
見張り番の魔術師とネモとシエスタとイルダ、というやや珍しい組み合わせで医務室に集う。
ネモは勝手知ったる様子で人数分の椅子を引っ張り、シエスタの執務机の周りに並べた。
「それで、夢遊病とは? 聞いたことはあるが、どういった病だ」
「症状としましては……そちらの魔術師の方、ええと?」
「私のことは〈顔無し〉で結構です」
「顔無し殿の証言そのままです。夜間、夢うつつのまま起き出して歩き回る。着替えをしたりものを食べたりするケースもあるそうですが、短時間で再び寝入ってしまい、ご本人はなにひとつ覚えていない、というのが多数派の症例です」
「眠ったまま歩き回る……だけか?」
「だけと言えば、だけですわね」
シエスタ女医の同意に、イルダはなんとも微妙な表情を浮かべた。
症状のみを捉えただけではなんとも言えないが、王族が夜な夜な意識のないままその辺を徘徊するなどどう考えても危険すぎる。
「原因としましては、主にストレスなど。精神的な問題を抱えている場合が多い」
今度はネモが述べる。
その言葉に深刻に眉間を寄せたのは、言わずもがなイルダであった。
「ストレスか。それはあるだろうと思う。ここのところ始終咳に煩わされているし、口には出さぬが体も重いようだ」
魂に癒着した呪いがここまで厄介だとは思わなかった。
否、実際にはここまで呪いがこびりついてしまったまま生きている人間が、稀なのである。
たいていは呪いに食われて死んでしまうのだから。
「……本当にそれだけですかねぇ」
もつれた黒髪に骨ばった指をつっこみ、なにやら気がかりそうにネモがいう。
どういう意味かと目を向ければ、「だってあの彼ですよ?」とのこと。
「オリビア殿下の胆力は相当なものです。並の強さではありません。これまでだって、精神的負担を感じることは多かったでしょう。ですが夜中に歩き始めたのは、此度だけ」
「なにが言いたい?」
「さあ、いまは何とも。ですが、原因が単なる精神的負担だと決めてかかるのは些か危険ではないかと思いますね」
この男がこんなふうに曖昧な言い方をするときは、既にいくつかの予測が頭にある。
憶測を軽はずみに話さないのは、それを話すと周囲の人間が惑うということを、知っているからだ。
なにか良くないことが起ころうとしている。
イルダは予感を感じていた。
いつもよりも遅れて国王の執務室を訪ねると、顔を上げたレシャが微かに眉を寄せた。
「イルダ、なにかあったのか」
双子の弟は容易にイルダの変化を見抜く。
以前はそうでも無かったが、ここのところは鋭い。
それともイルダの方が、みなの言うように「変わった」のか。
小声で問うレシャに、イルダは微かに首を振った。
執務室で話すようなことではない。
幾度か目を瞬いたレシャは、やがて納得した様子で書類仕事に戻った。
イルダの仕草を「後で」と解釈したのだろう。
窓辺に寄って中庭のオリビアを見下ろすと、視線が向いたことに気付いたのかオリビアが顔を上げる。
オリビアはいつも通りの気の抜けた笑みを浮かべると、俯いて背を丸めて咳込んだ。
(……呪いか。厄介な……)
目を伏せ、唇を噛み締めるイルダを、フェインがちらりと横目で見上げた。
それから二日、イルダはオリビアが寝静まった後に部屋に戻り、オリビアが夢現のまま歩き始めると扉を守る夜勤の魔術師と共に彼を追った。
最初の晩に顔無しの魔術師が言っていた通り、ふらふらとしばらく歩くとよろめいて倒れ、そのまま寝入る。
倒れて頭でも打ってはいけないので、よろめいた時点で抱き止めて、そのまま担いで寝台に戻す。
歩き出すのは一晩に一度、寝台に戻せばその後は大人しく眠り続ける。
そして当人は、翌朝何も覚えていない。
相変わらず空咳と倦怠感に煩わされてはいるものの、普通に食事も食べるし笑いもする。
けろりとしたものである。
「今日も中庭へ行くのか」
「ああ、そうだけど。部屋にいたって魔術具作ることくらいしか、やることないし。最近はアロウがさ、俺好みの文献を持って来てくれるから退屈しなくて済んでいる。アロウって、話してみると結構いい人だよね」
「……」
その意見には賛同しかねる。
音を立てずにため息をもらしつつ、イルダは主人の赤毛を梳かし、身体を締め付けないゆったりとした衣を着せつける。軽装だが暖かいものを選んだ。
「そろそろ日によっては肌寒くなる。冷える前に〈加温〉で暖を取るのだぞ」
「わかってるって」
「……どうだか」
夜中に無意識のまま城を歩いていることにさえ気づかない主人だ。
オリビアは自身のことを、自分で思っているほど理解していない。
「それからアロウには必要以上に気を許すな」
「イルダはもっとアロウのことを知ったほうがいい」
口答えはいつものこと。いちいち取り合っていては時間が幾らあっても足りないので、そのまま黙ってオリビアを中庭へ送る。
食事の席で咳き込んでいてはいけないと言って、最近のオリビアは朝食の席に顔を出すこともない。
後で軽食を届けよう。
くるりと踵を返したその時、どさりと背後で音がした。
振り返るとオリビアがうつ伏せで倒れていた。
ぴくりとも動かない。
「……!」
すぐさま膝をついて状態を確認する。呼吸も脈拍も規則正しいのに意識だけがない。
目を半開きにしたまま突然眠ってしまったかのようだった。
夜中に歩き回っている時と同じだ。
「オリビア様!?」
声が上がりそちらを向けば、アロウが書物を放り出して駆けてくるところだった。
通りがかりの人々の視線が何事かと向くのを感じながら、イルダは舌打ちをする。
これだからこの従兄弟は、迂闊で未熟で嫌なのだ。
「イルダ、これは何事だ」
「解っていればこんなことにはなっていない」
虚ろな目のオリビアを抱き起こして軽く頬を叩く。反応がない。
にも関わらず、唇が動いた。
「わたくしの……もの……」
「……なに?」
これは誰だ。からになった主人の身体に、なにか別のものが入り込んだ。
それの正体を探ろうとじっと主人を見下ろしていると、不意に虚ろだった目が瞬いた。
「……あれ? ええと、なに? どうかしたのか」
不思議そうにイルダを見上げるオリビアは、いつも通りのオリビアだった。
は、と安堵の息を吐くアロウ。
オリビアはきょとんとした様子で起き上がると、「転びでもしたのかな」と首を傾げながら衣の土埃を払っている。
「イルダ? 何かあった?」
「いや、なんでもない。気にするな」
「そう」
物言いたげなアロウを横目で睨んで黙らせる。
無言のまま書物を拾いに戻った従兄弟は、それを渡すなりそそくさと下がった。
アロウには話を付けなければいけない。
視線を感じて顔を向けると、ネモが窓の向こう側からこちらを見ていた。
見えない何かを見極めようとするかのように細められている青混じりの灰色の目が、いつになく鋭い。
──どうやら執務をこなしている場合ではないようだ。
木にもたれて座り、機嫌良く書物を開いたオリビアを眺め、イルダはため息をひとつ。
まずはオリビアに食事を届け、フェインに事情を話して暇をもらい、アロウに話をつけてネモの意見を聞きに行く。
(いや、アロウを口止めする方が先か?)
あの未熟な従兄弟に余計なことをされては困る。
イルダはもう一度振り返り、オリビアが無事であることを確認して、逃げるように去っていったアロウを追った。