柑橘の言の葉
レシャとネモ
レシャには双子の兄弟がいる。
宮廷魔術師の一族として、どこに出しても恥ずかしくない実力者の兄弟が。
双子の兄弟の名はイルダ。
宮廷魔術師の慣習によって他にもいくつか名はあるけれど、広く知られている呼び名はイルダである。
ウォルグリア家先代当主レイダの息子といえば、真っ先に名が上がるのがイルダだった。
イルダは、息を潜めることも敵に食らいつくことも、生まれながらに知っていた。
きっと次の当主はイルダなのだ。
レシャは物心ついたころから自然とそう思っていたし、なんの疑問も抱いてはいなかった。
レシャはイルダの影だった。
それで満足していた。
その展望が崩れ去ったのは、今となってはもう昔の出来事、王家に仕えるべきイルダが、フェインを裏切ったあの日だった。
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「イルダ、先程の叔父上の結論には納得しているのか」
毎週開かれる、ウォルグリア家の定例会議の夜。
話が済むなりさっさと主人の部屋へと向かったイルダを、レシャは引き止めた。
いつも通りの無表情で振り向いたイルダは、「どういう意味だ」と怪訝に問い返す。
「次期当主がイルダではなく、私だなんて……どう考えてもおかしいだろう。力不足だ」
「ああ。その話か」
こだわった様子もなく、イルダは回廊の壁に凭れて腕を組む。
レシャは視線を下げ、思い詰めて唇を噛んだ。
「イルダがなるべきだ。私では務まらない」
「レシャ、当主の決定だ」
「叔父上は間違っているのだ」
ターミガンは解っていない。レシャがどれだけ双子の兄弟に頼ってきたかを。
イルダがいたからそれなりにやってこれたのだということを。
ちらりと去っていくターミガンたちの背を見やり、イルダはやや声を落とした。
「正直なところ、私もレシャが相応しいと思っている。叔父上がレシャを後継に選んだ時、安堵したくらいだ」
それは思いも寄らない言葉だった。どうして、と瞠目するレシャに対し、イルダは自嘲の混じった苦笑いを浮かべる。
微かなその笑みを見て、レシャにはイルダが考えていることが解ってしまった。
「そんな……いまとなっては誰も気にしていない、オリビア様もフェイン陛下も」
「私が気にする」
「だが私には出来ない……っ」
「出来るさ」
「適当な事を言うな!」
やや高くなった声に、遠ざかってゆく従兄弟のアロウが振り向いた。
最近やたらとオリビアの周りをうろちょろしているアロウは、何を企んでいるのか以前より気安く声をかけてくるようになった。
あんなにレシャ達を毛嫌いしていたのに、何を企んでいるのか。
気まずくて顔を背けたレシャに、イルダは暫く黙っていたが、やがて淡々とこう言った。
「解った。では試しに叔父上に話してみよう。私の誤ちを全て、詳らかに」
「……!」
そんなことをしたら。
絶句したレシャに、イルダは再び苦笑を向ける。
「ほら。お前だって心の底では解っているのだ。私にはその資格がない。それに、オリビア様はいつか必ずウォルグランドを出て行く。私は主人であるあの方に着いていくつもりだ。あの方が私を、側に置いてくださる限りはな」
悄然と俯くレシャの肩に触れて、イルダは去ってしまった。
(当主か……)
私室に戻り、着替えを持って浴場へ向かう。
浴場は王族のための浴場と、住み込みで仕える者のための浴場の二室がある。
身を清めて湯船につかっていると、何者かが浴室へ入ってきた。
湯気の向こう側の影は、もさもさとした黒髪の痩せぎすの男。
客人と浴場で鉢合わせるとは、なんと気まずいことか。
さっさと出ていこうとしたレシャを、エトルリアの客人ネモは「お構いなく」と軽薄な笑みを浮かべて引き止める。
オリビアはこの男に懐いている。それはいい。
彼は基本的に無意味に人を避けたりはしない。
問題はイルダの信用を得ている事だ。
身内の限られた人間にしか内心を話さないイルダを手懐けるとは。
一体どんな手を使って懐柔したのかと、レシャは警戒の横目を向ける。
「私、そんなに胡散臭いでしょうか」
「!」
考えていることを見透かされた。振り向くも、ネモの目はレシャを見ていない。
彼はのんびりと髪を洗いながら、骨の浮いた背中を向けるばかりだった。
「……胡散臭いなどとは、思っていません」
「勘違いでしたか。それは失礼。なにやら以前のイルダのような目を、向けられているような気がしたものですから」
イルダも始めは警戒していたのか。
それはそうだろう。この男は怪しすぎる。
無言のまま髪を洗う男と湯に浸かるレシャの間で、奇妙な沈黙が流れる。
やはり気まずい。さっさと出よう。
と腰を浮かした瞬間、浴槽、やや離れた横側にネモが身体を沈めた。
あー、と気の抜けた声を上げて、彼は喉を逸らす。
「しみますねぇ」
「……」
「エトルリアの香料もなかなかのものですが、西は西で良い。柑橘でしょうか?」
「ええ。それに相性の良い花の香油を少し」
「なるほど。あの石鹸で髪を洗うとしばらく良い香りがするので、よく眠れます」
「……それは何よりですね」
そのクマの濃い目で、何を言っているのだか。
少しの説得力もない。
マイペースにどうでもいいことを話している男に、次第に苛立ちが込み上げてくる。
このままではいけない。
オリビアが失踪した後に逆戻りしたようにささくれ立った神経をどうにか宥めようと、レシャは話題を変えた。
「ネモ殿。貴方はイルダをどう思っているのですか」
苛立ちの滲んだレシャの声に、ネモは一瞬フクロウのようなとぼけた顔でレシャを見やった。
質問の意図がわからない、と顔に書いてある。
「えー……どうと言われましても。何についてです?」
「何についてもです」
灰色の三白眼が数度瞬き、そして「はて」と首が傾げられた。
何かを思い出そうとしているかのように視線が動いた後、そうですねぇ、と彼は呟く。
「出会った頃と比べると、ずいぶん変わられたとは思います」
「変わった」
「はい。思っていることを表に出すようになったでしょう。怒りや鬱屈以外の感情が、何かに変換されることなくそのまま表れるのです。青年……失礼、オリビア殿下の前では特に顕著ですね」
「……なるほど」
それは、確かにそうだった。
イルダにとってオリビアは特別だ。海の上でイルダの主人が彼に決まった時からその兆しはあった。
うっすらとしていたそれが、ここのところは誰の目にも明らかに映るほど、確固たるものに変わりつつある。
「……確かに以前のイルダだったら、主人に苛立とうと声を上げることはなかっただろうな」
「自身を抑圧せずにいられる相手が、彼にとってオリビア殿下だったのでしょう」
「フェイン様や私ではだめだったのか」
「貴方は身内の人間ですからね。距離が近いからこそ隠したいものもあるでしょう」
「……そう、ですね」
特別と一言で言っても、一括りには出来ない。
家族として、主人として、友として、あるいは他の何かとして「特別」となった者が在ったとして、全てが同じように扱われるはずもない。
(私はオリビア様にイルダを取られた気がして、嫉妬していたのかもしれない)
イルダが当主になるのだと当然のように思っていた。
レシャはその補佐としてイルダの側にいるのだと。
その未来が消え、レシャは当主を務めなくてはならず、イルダはオリビアと共に去っていく。
ただそのことが、レシャは不安で受け入れがたかったのだ。
務まらないとか相応しくないとか、咄嗟に出てきたその反発の正体が、ようやく明確な像を結んだ。
──ああ、この男のこういうところが、イルダを信用させたのか。
責めない。余計なことを言わない。的を得た答えを返す。
信用できるが油断ならない。ネモは水のように浸潤する。
(きっとこの男が敵に回るとしたら、その染み込んだ水伝いに毒を流してくるに違いない)
黙り込んだまま考え事をしていると、では、と前置きをしてネモは立ち上がった。
「上がりますね。何やら視界が眩んできましたので……これは、いけない……」
「は?」
言葉の意味が理解できずに顔を上げると、青白く血の気のひいた顔の男が盛大に飛沫を上げながら前のめりに浴槽の中に倒れ込んでいくところだった。
レシャはぷかぷかとうつ伏せで浮いてきたネモを前に眉根を寄せた。
なにが起こった。そうかのぼせたのか。
いや、悠長に状況を考えている場合ではない。
「珍妙な男だな……」
仕方なく湯から引き上げて湯を吐かせて人を呼ぶ。
どうやら側近が出入り口で待機していたらしく、「またか」と諦め顔で呟いて介抱を始めた。
「我々の主人が、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。見ての通り肉も血も足りていないので、長湯は止めるようにといつも言い聞かせているのですが……風呂好きで、困ったものです」
バスローブを羽織ったレシャは気まずくなって目を逸らした。
話題を振ってしまったのはレシャである。少々責任を感じる。
青ざめた顔のまま、ネモは「お気になさらず、いつものことですので」とにへらと笑って呟いた。
やはり、責めない。
なるほど、とレシャは思った。
翌週の定例会議の後、幾分すっきりした気分でレシャは部屋を出た。
いつも通りにさっさと主人の部屋に向かうイルダと、執務室に戻るターミガン。
何かを気にした様子でちらりと振り向いた従兄弟のアロウに、レシャは「おやすみ」と声をかける。
暗緑の目を僅かに見張ったアロウは、驚き混じりに「ああ、また明日」と答えてくれた。
レシャの隙間に染み込んだネモの言葉は、幾晩経っても柑橘のように香っている。
おかげで今夜も、深く眠れる。
こうしてきちんとイルダ離れが出来たレシャ。
イルダの影に隠れがちですが、レシャもきちんとウォルグリア家の一員です。
冷静な時は冷静。他者との境界線をきっちり引くタイプ。