行き倒れ王弟
イルダとオリビア
精霊の民の国、ウォルグランドのフェイン王には弟がいる。
救国の英雄として臣と民の関心の的である彼の名前は、オリビア・ウォルグリス。
暗殺者から兄を守り、瀕死の重症を負い、冬の間行方知れずであった彼は、兄の戴冠式の日に神々と精霊の加護によってウォルグランドに帰ってきた。
吟遊詩人たちは彼の伝説を語る。
十七歳という若さで、死の象徴である冬の神に立ち向かった勇姿を。
魔女の死霊魔術で蘇った屍人を、浄化の炎で燃やし尽くした慈悲深さを。
騎士達へ降り注ぐ数多の呪いを肩代わりした、その自己犠牲の気高さを。
兄王を守るために己が命さえも捧げるその確固とした忠誠心を。
そして、精霊の森より帰還したあの日の、不死鳥の如き聖なる姿を。
なにかと人々に語られることの多い王弟オリビアは、もはやウォルグランドでその存在を知らぬ者はいない、高名な人物であった。
しかし。
その英雄視すらされているオリビアが、療養中にも関わらずにふらふらと私室から脱走し、城のあちこちで力尽きて行き倒れていることを語る吟遊詩人は、ひとりもいないのである。
王城に仕える臣の間では、彼は親しみと諦めを込めてこう呼ばれている。
「行き倒れ王弟」と。
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この不名誉な通称を、果たして許しておいて良いのだろうか。
行き倒れ王弟ことオリビアの従者である宮廷魔術師イルダは、無表情の下で人知れず悩みを抱えていた。
精霊の森から帰還して数日後の本日、オリビアはまたしても私室から脱走し、厩の前でぱたんと倒れていた。
誰よりもこの王弟の気ままさに振り回されている人物こそ、イルダである。
死の危機から脱したとはいえ、体力がないことを自覚しているであろうに、なぜ主人はこう懲りずに脱走を計るのか。
「ああ、頭が痛い……」
主人の身柄を引き取り、寝台に連れ戻したイルダは、うっかり声に出して呟いてしまった。
途端、疲労でぐったりと閉じていた主人の目がぱちんと開き、心配そうにイルダを見上げた。
「え、大丈夫? 調子が悪いんだったら下がって休んだほうがいいよ」
「…………」
これである。
素なのかボケているのか、はたまた巫山戯ているのか、定かではない。
お前がそれを言うのかと喉まで出かかった反論を飲み込み、イルダはじろりと主人を見下ろす。
言葉はなくとも言いたいことを察したらしいオリビアは、うっと首をすくめて毛布に潜り込んだ。
無言のやりとりも、これで何度目だろうか。
数えても虚しくなるだけなので三度目以降は不明。
「ええと……うん、すまなかった。反省している」
「まったく同じ台詞を昨日も聞きましたが」
「イルダ……」
敬語を使うと怒られている自覚をするらしいオリビアは、困った様子で眉を下げた。
心底反省している──ようには見える。見えるだけだ。
どうせ明日もまた部屋を抜け出して、どこかで倒れているに決まっている。
「いっそのこと部屋に鍵をかけて閉じ込めてしまおうか……そうだ、それで我々の心の平穏と主人の身の安全が保たれるのならばフェイン陛下も否とは言うまい……」
茶を淹れながら溢れた不穏なつぶやきを、オリビアはしっかり聞いていたらしい。
鎮静作用のある薬を混ぜたハーブティーを差し出すと、何やら警戒した目でイルダを眺める。
「どうかしたのか、オリビア」
睡眠薬なんて盛っていないとも。だから安心して飲むといい。
そしてさっさと寝てくれ。朝まで。大人しく。安らかに。
そして一刻も早く、健康体に戻って欲しい。
平然と見つめ返すイルダに、彼は何を思ったのか。
「……いや。なんでもない」
数秒の沈黙の後、オリビアは警戒を捨てて諦め混じりの微笑を浮かべた。
その仄かな笑みが、ぐりぐりとイルダの罪悪感を抉る。
とうの昔に投げて捨てた良心の破片が心臓に突き刺さり、胸が痛くて堪らないのだ。
そんなイルダの葛藤を知ってか知らずか、若緑色の目を伏せ、オリビアは薬を盛ったハーブティーに指を伸ばした。
イルダは咄嗟にティーカップを遠ざけてしまった。だめだ。
主人を騙すようなことは、今のイルダにはもう出来ない。
以前ならばともかくとして。
「あの、イルダ? 茶をくれ。のど渇いたんだけど」
オリビアの怪訝な声がイルダを現実に引き戻した。
なんだと?
「気づいていたわけではなかったのか?」
「なにが?」
「…………」
オリビアはきょとんとイルダを見上げている。
これは素だ、見れば解る。
だがしかしそうであるならば、先程の物憂げな間はいったいなんだったのか。
わからない。オリビアがわからない。
主人が理解出来なさすぎて頭が痛い。
ティーカップを持ったまま、イルダは無言で寝台から離れた。
中身を捨てて、新しく茶を入れ直す。
「喉が渇いたのならば別の薬草の茶の方が良い。あれは甘すぎる」
「そう? 別にそこまで気を使ってくれなくてもいいのに」
「いや……」
薬の味を誤魔化すために蜂蜜を多めに入れた。
そのうえミルクティーだ。渇きを癒すにはくどすぎる。
飲み慣れたミントがいいだろう。ミントにレモンバームにワイルドストロベリーを少々、熱湯で蒸らして〈冷却〉の印にポットを乗せて温度を下げる。
こんなものか。
飲みやすくぬるめにしたそれをグラスに注ぎ、再び寝台へ持っていく。
「…………」
オリビアは寝ていた。
それはもうすやすやと、遊び疲れた頑是無い子供のように。
主人でなかったら首を絞めていたかもしれないが、主人なので許せた。
眠ってくれて良かった、とすら思える。不思議だ。
新台横の小さなテーブルにグラスを置く。
ついでに、食欲が低下ぎみの主人でも食べてくれる新鮮ないちごを添えて置き、ガラス製のドーム型の蓋クロッシュを被せる。
音を立てないようにそっと寝台を覆う天幕を閉めて、イルダは苦笑を浮かべる。
規則正しい呼吸に上下する胸。
肺の呪いのために始終咳と喀血に苦しんでいた姿を知っているから、ただ心地よさそうに眠っている当たり前の日常にすら安堵を覚える。
故郷にオリビアが戻ってきて以来、イルダは同僚や親類から「変わった」だの「性格が丸くなった」だのと言われることが増えた。
中には「日和った」と侮りの言葉をかけてきた従兄弟もいた。
もちろんきっちりと半殺しにして上下関係を思い出させ、前言を撤回させた。
一方で、確かに甘やかしているのかも知れないと思う自分もいる。
闇に落ちたこの身を双子の弟共々救ってくれた、大切な主人だ。代わりはいない。
危なっかしくて自重しない主人を持つと気苦労も山積みだが、親しみと信頼も同じように積み上がっていく。
どうせ明日もどこかで倒れているのだろう。
扉に見張りを立ててもオリビアは窓から逃げだすし、一度姿を消したら〈遮断の腕輪〉の魔力を散らさない限りけして見つからない。
本当に手のかかる、困った主人である。仕方のない人だ。
そんな生活を楽しいと思い始めてしまっているイルダも、確実に染められている。
そして、翌日。
いつもの如く、今度は中庭でぱたんと行き倒れていた主人を回収しに来たイルダは、主人の指先が触れている城の壁に〈呪い返し〉の刻印がしるされていることに気づいた。
オリビアは城を徘徊して、守りの印を刻みつけていたのだ。
脱走を繰り返す謎が解けたと同時に、「それならそうと言ってくれれば良いものを」と過ぎった小言を呟くと、倒れていたオリビアがころんと仰向けになってイルダを見上げた。
困った顔をしていた。
「城が広すぎる。ひとりじゃ無理だ」
「当たり前だ。王城の敷地の中にいくつ建物があると思っているのだ」
「うん……しかも中途半端に古い守りの印があちこちにあってさ、壁伝いに〈呪い返し〉を流すと変な感じに魔力が返ってきて気分悪くなるんだよ。〈呪い返し〉自体は攻撃じゃないから、痛いことにはならないんだけど」
〈呪い返し〉が呪者を襲うのは印を纏うものに攻撃したときのみだ。〈呪い返し〉に直接〈呪い返し〉をぶつけてもあまり意味は無い。
とはいえ。
「……貴方はその〈呪い返し〉のために肋骨が粉々に砕けたことをもう忘れたのか……?」
なんて危険なことを軽はずみに試しているのだ、この主人は。
怒りを押し込めるあまりぶるぶると震える声で、やっとのことでそれだけ言うと、オリビアはびくりと目を見開いてやや青ざめ、引きつった顔にごまかし笑いをうかべた。
「イ、イルダ。落ち着け、落ち着くんだ。顔が怖い」
「私は落ち着いている。冷静だ」
「嘘だ! 落ち着いている人間はそんなふうにこめかみの血管をひくひくさせたりしない!」
「オリビア」
「はい」
「誰のせいだと思っているのだ!!」
とうとう雷が落ちた。イルダは冷静さを失った。
宮廷魔術師のなかでも当主であるターミガンの次に冷徹だと評されるイルダの怒声に、城仕えの臣や使用人たちが何事かと顔を覗かせた。
そしてイルダを爆発させた相手が例の如く行き倒れていた王弟だと知るなり、納得してそれぞれの仕事に戻った。いつもの事だからだ。
救国の英雄、王弟オリビア。
その仰々しい肩書きにも関わらず彼が「行き倒れ王弟」などと情けない通称で呼ばれているのは、ひとえに、愛されているからである。
主人に振り回される事にやりがいを感じ始めている色々と手遅れになりつつあるイルダ。
宮廷魔術師の思考回路はわりと物騒。