初めてづくしの 3
シェルニティは、その男性の視線に戸惑っている。
未だかつて、こんなふうに見つめられたことがなかったからだ。
誰もが、彼女からは目をそらせる。
それを、彼女も当然に受け止めてきた。
だから、彼が自分の「痣」を、どう思っているのかわからずにいる。
ブレインバーグの屋敷での、シェルニティの部屋には鏡があった。
そこに映った姿に、彼女自身でさえも「気持ちが悪い」と思ったものだ。
だからこそ、みんなが自分を見たがらないことに納得している。
「きみは……なにを言っているのかね?」
「だって、そうじゃありません? あなたは、最初から、私をじっと見て……」
「私が、きみに興味を持っていると思っているらしいが、とんでもない勘違いだ」
「興味? いえ、そのようには思っておりませんわ」
実際、シェルニティは、男性に興味を持たれるなんて微塵も思っていない。
いや、思ったことがない。
そのため、本気で驚いている。
なぜ、そんな「勘違いをしている」と勘違いをされたのか、まるでわからない。
「思ってはいない? だが、きみは、さっきから何度も……」
バシャーン!!
急に、水が大きく跳ね上がった。
勢いよく、2人に水が降りかかる。
「…………きみ、あれは、なにかね?」
「私の……持っていたバスケットのようです……」
彼が指さした場所。
上からは滝つぼに見えたが、実際には池のようになっている場所だ。
そこに、バスケットが、ぷかぷかと浮かんでいる。
「きみの持っていたバスケットが、どうして降ってきた? きみの後追いで、自死しようとしたとでも?」
「それは、私にもわかりませんわ。なぜ、落ちてきたのかしら?」
はあ…という、大きな溜め息が聞こえた。
シェルニティは顔を上げ、初めて、彼を見てみる。
ちょっぴり胸が、どきっとした。
水が滴っている、焦げ茶色の髪を、彼は右手でかきあげている。
伏せた目、眉間には、くっきりと皺を寄せていた。
民服なので、肌の露出が多い。
胸元はざっくり逆三角形に大きく開いているし、袖は肘までしかないし。
そこから出ている腕にも水が垂れていた。
あの腕に、さっきまで抱きかかえられていたのだ。
気づくと、急に恥ずかしくなってくる。
こんなにも「男性」を意識したのは、初めてだった。
彼が、自分を正面きって見つめてきたからかもしれない。
今までにない感覚を覚えている。
「言いたいことがあるなら言え、と言っただろう」
彼は、とても不機嫌そうだ。
髪と同じ、焦げ茶色の瞳には「不愉快」さしか浮かんでいない。
釣りを邪魔され、水浸しになったのだから、当然、機嫌も悪くなる。
せめて、と、シェルニティは、胸元からハンカチを取り出した。
「これを、お使いくださいな」
「それを?」
彼の呆れ顔に、手元を見れば、ハンカチもびしょ濡れ。
ポタポタと、水が滴り落ちている。
「あら……びしょ濡れだわ」
「それはそうだろうね。きみも、びしょ濡れだと気づいているかい?」
「え?」
指摘され、ようやく自分の髪からも水が滴っているのに気づいた。
彼に気を取られていて、ほかのことが疎かになっていたのだ。
部屋にいる時より、少しはマシなドレスもびしょ濡れになっている。
そう思うと、体が、ずいぶん重い。
ドレスが水をたっぷりと吸い込んでいるからだろう。
「まったく、とんだことになってしまったな。これでは帰るしかない」
「釣りは、どうなさるのですか? 夕飯は?」
「きみのバスケットが、魚を追い散らしてしまったのでね。どの道、粘っても釣れやしないさ。夕食は別のもので間に合わせるよ」
彼が、シェルニティから離れ、地面に落ちていたものを拾った。
長い釣り竿で、それを肩に軽く乗せる。
そのあと、シェルニティに、再び視線を向けた。
不機嫌そうではあるが、彼女の外見に対してではなさそうだ。
彼からは「気持ち悪い」という「不快感」は漂ってきていない。
「きみは、どうする?」
「どうすればいいのか、わかりません」
ここは、シェルニティが立っていた場所より、ずっと下。
どうやって上に戻ればいいのか、わからなかった。
「きみには、2つの選択肢がある。ひとつ、帰り道を私から教わり、自力で帰る。ふたつ、私の家に立ち寄り、ひとまず服を乾かしてから、どうするかを決める」
「服を乾かしていただけるのなら、ありがたいですわ」
「よく考えなくてもいいのかね?」
「服が濡れているのは、気持ちがいいものではありませんから」
それに、帰り道を教わっても、自力で帰れるかどうか、判断がつかない。
そもそも、帰る気をなくしていたところだったし。
「きみが、それでいいのなら、かまわないさ。ついて来るといい」
彼が歩き出す。
後ろについて、シェルニティも歩いた。
池の淵を、ぐるっと半周し、滝に近いところに小道がある。
そこに入り、少し歩くと、すぐに開けた場所に出た。
「これが、私の家だ。城でなくて申し訳ないがね」
「ですが、私の部屋よりは広いですわ」
「それはどうも。褒めていただいて恐縮するよ」
シェルニティは、やはり不思議に思う。
彼は、彼女に「言いたいことを言え」と言った。
そして、シェルニティにとっては驚くくらいに「会話」をしてくれる。
会話なんて望まれていない、と思っていたが、そうでない人もいたようだ。
重そうな木の扉を簡単に開き、彼が中に入っていく。
シェルニティも、彼について中へと入った。
豪奢な家具や装飾品はない。
けれど、清潔だ。
塵ひとつ落ちてはおらず、埃っぽさもなかった。
中に入ってすぐの部屋は、居間のようだ。
右側に暖炉、正面に大きなソファが2つ、そのソファの前に、やはり木でできたテーブルが置かれている。
左側には、続き部屋に通じると思しき扉と、上階に繋がる階段があった。
おそらく2階に寝室などがあるのだろう。
「じっとしていないで、ついて来てくれないか? きみは、家を見に来たわけではないだろう?」
「木でできたお部屋がめずらしかったものですから、つい見入ってしまいました」
レックスモアの屋敷は、元が城塞であったため石造りだったし、ブレインバーグの屋敷も、基本的に煉瓦造りだ。
暖炉などはともかく、全体的に木で造られた家自体が、シェルニティにとってはめずらしかった。
「ここは森だ。石や煉瓦より、材木のほうが手軽に手に入るのでね」
彼が階段を上がって行く。
手すりまでもが木で出来ていた。
握ると、なんだか暖かい気がする。
「とても住み心地が良さそうですね」
「快適だよ。1人で暮らすにはね」
そっけなく言われているのだが、そのそっけなさには気づかない。
今まで「会話」をしてくれる人自体が、ほとんどいなかったので。