来客に困惑 2
自分より、彼のほうが暖かい、と感じる。
生まれてこのかた、こんなふうに抱きしめられたことはない。
両親に抱き上げられた記憶すらなかった。
乳母が、シェルニティの世話はしてくれていたが、それだけだ。
彼女は、自分が幼い頃に、泣いたことがあるかも、わからずにいる。
シェルニティの知識にある「幼児」は、たいてい泣くものらしいけれど。
よく覚えていないのだ。
なんとなく、ガラス越しに周囲の者を見ていたような感覚だけが残っている。
自分は、そのガラスを越えられないし、越えてはいけない。
そう感じていた。
(彼は、やはり良い人だわ。私に、いつも、あったかいものをくれる)
乾かしてくれた、びしょ濡れだったドレスも、振る舞ってくれた料理も、すべて暖かい。
なにより、彼の手は、とても暖かかった。
こうしていると伝わってくる、ぬくもりも。
彼の胸に頬を、ぴとっと押し当てる。
なんともいえない気持ちになった。
心地いいというだけではない感覚が、胸に広がっていく。
もっと近づきたいと、何気なく、彼の体を抱きしめようとした時だ。
彼が、シェルニティの肩を掴み、体を引き離した。
なにか不味いことをしたのだろうか。
思わずにはいられないほど、彼の表情が険しい。
「どうしたの?」
訊いた彼女に、彼が、微笑みを浮かべる。
彼は、シェルニティの頭から頬までを、ゆっくりと撫でた。
それから、ちらっと視線を扉のほうへと投げた。
さっきの険しい表情は、扉の向こうに対してだったらしい。
「今日は、どうも来客が多いようだ。夜会を開いていると、勘違いでもされているのかな」
軽口を叩きながら、彼が立ち上がる。
その彼を、シェルニティは見上げた。
口調は軽いが、また険しい表情に戻っている。
しばしの間のあと、扉の叩かれる音がした。
「そこに座っていてくれるかい?」
「ええ、いいわ」
自分を訪ねてくる者は少ないはずだ。
その数少ないうちの1人、父は、すでに訪問済み。
彼の様子からして、父が戻ってきたのではなさそうだった。
少し離れた場所から、扉の開く音が聞こえる。
ソファに座っていると、扉までもは見えない。
居間と入り口は、一直線では結ばれていないのだ。
最初は気にしていなかったが、3日ほど暮らすうち、様々、気づき始めている。
この家にも、屋敷で言うところの「玄関ホール」が、一応はあった。
仕切りがないので、ひと続きに見えるが、実際は、入り口からも、奥までは見えないのだ。
入口と居間との間にある小さなスペースは、わずかに曲線を描いている。
さりとて、見えなくても、途切れ途切れの声が、聞こえてきた。
「……ら、私は……という……心配……ですが……」
「……いるのだよ……今日でなくとも……」
「わけ……りません……お願いし……」
この声には、聞き覚えがある。
彼女は、腰を上げかけて、躊躇した。
彼には、座っているよう言われていたからだ。
しばらく2人の会話は、続いていた。
彼が戻ってくるのが見える。
後ろを、女性が歩いていた。
「まあ、リリアンナ様」
聞き覚えがあるのも当然だ。
クリフォードの側室として迎えられた、リリアンナだった。
さりとて、リリアンナは夫といることが多かったので、会話らしい会話は、したことがなかったけれど。
すると、リリアンナが、突然、彼の前に立つ。
そして、彼の胸にしがみついた。
シェルニティの目の前で。
「公爵様、どうか、お願いいたします!」
彼に、なにか頼みたいことがあるらしい。
シェルニティは、リリアンナの行動の意味がわからず、目をしばたたかせる。
階段を踏み外したシェルニティを彼が支えただけで、彼女は、不義を疑われた。
こんなふうに抱きついては、リリアンナも不義を疑われることになりかねない。
今回の件を、クリフォードから聞いていないのだろうか。
「このようなことになるなんて……婚姻を解消され、シェルニティ様は、さぞお気を落としておられるでしょう。きっと私のせいですわ」
シェルニティは、婚姻解消の件について、リリアンナのせいだなんて、まったく思っていなかった。
リリアンナが、なぜそう考えているのかも、わからずにいる。
「私を正妻にされたいとの、お気持ちが、クリフ様に、このような過ちをおかさせたのです。私は、シェルニティ様を追い落とすつもりなど、これっぽっちもありはしませんでしたのに」
確かに、リリアンナは、シェルニティと少しは「会話」をしようとしていた。
屋敷に帰った際は、クリフォードの「お叱り」から庇ってくれてもいる。
婚姻解消は、リリアンナの望むことではなかったのかもしれない。
「シェルニティ様が、どんなに傷ついておられるかと思うと、私……私は、申し訳なくて……こちらまで出向かずにはいられませんでした」
リリアンナは、いい人なのだろう。
これほど気にかけてもらっていたとは知らなかった。
リリアンナが気にすることではないのに。
「公爵様の望む、どのようなことも、私がいたします。ですから、シェルニティ様を、レックスモアのお屋敷に、お返しくださいませんか?」
言葉に、初めて「え?」となる。
シェルニティに帰る気はない。
というより帰りたくなくて、婚姻解消を喜んでいたくらいなのだ。
リリアンナが、自分を思いやってくれているのは、わかるのだけれど、むしろ、帰されては困る。
「いいかげんにしたまえ」
驚くほど冷淡な声が、彼の口から発せられた。
リリアンナの体を、片手で振りはらう。
まるで、それ以上には、さわりたくない、とでもいうような仕草だ。
「きみに、私の望みは叶えられないし、きみには、なにも望んでいない」
瞬間、なぜかリリアンナの顔が赤く染まった。
羞恥と怒りが、瞳をよぎったように見えたが、気のせいだったかもしれない。
シェルニティはうつむいて暮らしていたため、人の表情を読むなんていう高度な能力を、持ち合わせてはいないのだ。
ぱんぱんっと、彼が、腕や胸のあたりをはたいている。
さしずめ、掃除のあとについた埃をはらうかのごとく。
表情は、険しいから厳しい、そして「不快」へと変わっていた。
(どうしたのかしら? 彼、怒っているの?)
前に、彼が「貴族に偏見を持っている」と言っていたのを思い出す。
だとしても、父イノックエルに対しては、それなりに節度を保っていたのだ。
彼の「不快」の原因も理由も、シェルニティにはわからない。
そのシェルニティに、リリアンナが駆け寄ってきた。
「シェルニティ様、どうか、私と2人で、お話をさせてくださいませ」
リリアンナは、心配して来てくれたのだろうし、彼は、あんな調子だし。
ともあれ、シェルニティの中での結論は変わらないので、それを伝えるだけだ。
リリアンナに納得してもらい、正妻の座についてもらえばすむ話だと、思う。
彼女は、膝に縋りついているリリアンナに、静かに言った。
「わかりました。それでは、2人で、お話しましょう、リリアンナ様」