帰りたいのは 1
シェルニティは、それまで、審議を、ただ、ぼうっと見ていただけだった。
クリフォードの言っていることが、デタラメだとはわかっていたが、自分が口を出すことではないのだろうと思っていたのだ。
反論する、という発想が、シェルニティにはない。
それでも、多少の戸惑いはあった。
父とクリフォードの意見が対立していたので、どちらに従うべきか、判断がつきかねていた。
そうこうしているうちに、裁定がくだされたのだ。
シェルニティは終始うつむいていたため、その場にいた男性たちが、なにを見ていたのかは、知らずにいた。
彼女が階段を踏み外し、彼に支えてもらった際の写真だと、わかるはずもない。
結局、シェルニティに、誰も声をかけはしなかったし。
彼女にわかったのは「婚姻が解消された」ということだけだ。
けれど、裁定の言葉に、はっきりと、シェルニティは安堵した。
それを自覚している。
彼女は、思ったのだ。
これで、屋敷に帰らずにすむ。
彼の家に行ける。
思っていた矢先、彼が現れた。
笛を吹いていないのに、と驚いたが、すぐに納得をしている。
彼は魔術師だったのだ。
(ジョザイア・ローエルハイド。それが、彼の名なのね)
彼女は、ローエルハイドと聞いても、怯んではいなかった。
それより、彼の名を知ることができて、嬉しくなっている。
彼はシェルニティを「きみ」と呼び、彼女は彼を「あなた」と呼びかけていた。
だから、別に名を知らなくても、困りはしなかったのだけれども。
(そうね。こういう形で名を知られることになって、彼は不本意かもしれないわ)
かと言って、聞かなかった振りもできない。
が、すぐに気持ちを切り替える。
(どう呼べばいいかは、あとで彼に聞けばいいことだもの)
今、考える必要はない、という気になっていた。
シェルニティは顔を上げ、彼を、じっと見つめる。
(焦げ茶色も似合っていたけれど、あの色も素敵ね。一張羅の正装も、とてもよく似合っているわ)
彼の「一張羅」を、シェルニティは真に受けていた。
ローエルハイドが公爵家だとの知識はあるが、彼女にとっては民服の彼のほうが印象に強いのだ。
それでも、正装姿に見惚れてしまう。
昼用の正装、黒のモーニングコート。
裾は長く、座っていても、膝のあたりまである。
前は1つ釦、袖口は3つ釦。
いずれも、おそらく胡桃材だ。
真鍮などの金釦より、彼らしいと感じる。
ウィングカラーの白いシャツに、グレイのズボン。
そのズボンには、細くて黒い縦線が入っていた。
首には、ボウタイではなく、シルバーグレイのアスコット・タイ。
一見、地味ではあるが、彼が身にまとうと、すべてが華やかに見える。
「公爵様は、それほど彼女を気にいられた、ということですか?」
「そうとも。出会った、その日に、彼女を腕に抱いたくらいさ」
彼の言葉に、シェルニティは出会った日のことを思い出していた。
死ぬつもりで滝に飛び込んだのに、気づけば彼に抱きかかえられていたのだ。
そう、確かに、彼の腕に抱かれていた。
彼も、あの時のことを覚えていたのだと、呑気に考えている。
周囲の目が、驚きに満ちていることになど、気づいてはいない。
「そして、彼女を、お誘いになられた?」
「そのまま、私の家に連れて行ったね。ああ、リカラス、わかってもらえるとありがたいのだが、そうせずにはいられなかったのだよ」
それも、彼の言う通りだ。
あの時、2人は、びしょ濡れだった。
シェルニティは自力で帰れるかわからない状態だったし、とにかく服を着替えることを優先させている。
もちろん「そうせずにはいられなかった」には違いない。
周囲の者たちがどうあれ、彼女だけは納得していた。
デタラメを並べたてていたクリフォードとは違い、彼は事実だけを話している。
少なくとも、シェルニティは、そう思っていた。
(そういえば、さっき、彼は、私を、彼の“お気に入りだ”、と言ったわ。私を気に入ってくれていたのは、アリスだけではなかったのね)
シェルニティにとって、彼との時間は、新鮮で楽しかった。
彼もまた、同じように思っていてくれたのかもしれない、と思える。
それが、嬉しかった。
鼓動も、ドキドキと速まっている。
誰からも必要とされてはおらず、いてもいなくてもいい存在。
それが、自分という人間なのだと、ずっと思ってきた。
けれど、彼にとっては違う。
彼は、シェルニティという存在を「気に入って」くれているのだ。
必要とされているかどうかはさておき、不快とも、疎ましいとも思われていないのは確かだった。
「つまり、非があるのだとすれば、私であって、彼女ではない。それでいて不義の汚名を着せるのは、いかにも理不尽じゃないかね?」
シェルニティは、驚きに目をしばたたかせた。
彼は、彼女の汚名を晴らすために、ここに来たのだ。
これまで、シェルニティに対して、そんな行動を取ってくれた人はいない。
彼女とは会話すらしようとしない者ばかりだった。
(そのために一張羅を引っ張り出して正装までして、王都に来てくれるなんて)
彼は、紳士であるだけでなく、今時めずらしい騎士道精神の持ち主らしい。
嬉しい反面、なんだか申し訳ないような気持ちになる。
考えたことはなかったけれど、今さらに「自分が反論すべきだった」のかもしれないと思った。
「私が誘い、家に連れて行き、部屋に招き入れて……いや、具体的な話をするのはよそう。ともかく、彼女は、そのあと、私の服を着るはめになったのさ」
最初は、そうだ。
彼の家には、彼の服しかなかった。
うまく腰紐が結べず、上しか着られなかったのを、覚えている。
民服を着たことはなかったし、男性ものの服だって、初めてだった。
(でも、上だけで十分だったわ。彼の服、とても大きかったもの)
その服は、ゆうにシェルニティの膝の上まで、丈があったのだ。
その後、彼は、シェルニティに民服を用意してくれている。
最近は、彼の家に行くと、すぐに着替えるようになった。
民服にも、すっかり慣れている。
(畑や釣りには、民服が適しているわね。ドレスは動きにくくて、魚に逃げられてしまうもの。彼が民服を好む理由も、それかしら?)
シェルニティの周りには、民服を好む男性はいなかった。
貴族とは「体裁を重んじるもの」だと、教わってもいる。
彼は、貴族としては、最も爵位の高い公爵だ。
なのに、民服を好むし、料理だってする。
知識にある貴族だけが「貴族」ではないらしい。
(ブレインバーグとレックスモアしか知らないから、そういうものだと思っていただけだったのね)
彼とのことを思い出し、シェルニティは、いちいち納得していた。
実際、彼は「嘘」はついていないので。
「こ、こ、公爵様」
不意に、隣に座っていた夫が声を上げる。
正面を向いていた彼が、クリフォードのほうに顔を向けた。
「なにかな、クリフォード」
シェルニティは、また驚く。
不機嫌な時でさえも、彼は、こんなにも冷ややかな口調で話したりはしなかったからだ。