表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/80

夕食時まで 3

 彼女が、彼の元を訪れるようになって、7日が経っている。

 連日、笛は吹かれていた。

 

「なあ」

 

 今日も、彼女は、ここに来ている。

 彼の用意した「民服」に着替え中なので、居間にはいない。

 代わりに、人の姿をしたアリスがいた。

 扉の開く音がしたら、即座に家を出る。

 アリスは鼻も利くが、耳もいいのだ。

 

「わかっているさ、アリス」

 

 アリスは、両腕を頭の後ろで組んで立っていた。

 首だけではなく、体ごと少し横にかしげている。

 

「なら、なんで?」

「今のところ、問題が起きていないから、というところかな」

「問題が起きる前のほうが、いいんじゃねーか?」

「いいや、アリス。問題が起きてからのほうが、いいのさ」

 

 アリスが、目を、ぱちんと(またた)かせた。

 それから、また意地悪っぽく目を細める。

 

「彼女は人妻だ、なーんて言ってたのに、ちゃっかりしてるぜ」

「きみは、本当に生意気だ」

「分かり過ぎるってのも、考えもんだけどなー」

 

 言う割には、悩んでいる様子もない。

 宰相として、日々、悩み続けているリカとは大違いだ。

 つくづくと、双子の弟に同情する。

 

「でもサ、いいのかよ?」

「いいさ」

「あーあれか。終わり良ければすべて良し、ってやつ?」

「きみは、字引きにだけは、精通しているらしい」

 

 アリスに言ったように、彼女は人妻だ。

 いつまでも、このまま会い続けることはできない。

 この関係に、いずれは終止符を打つ必要がある。

 とはいえ、彼女に手を出すつもりもなかった。

 

「きみから指摘されたことを、肯定はするがね。私は、彼女を愛してはいないよ」

「ふぅん。オレには、愛なんて、よくわかんねーな」

「そうだろうとも。一夜限りの欲望に情熱を傾けているようではね」

「よせよ、面倒くせえ」

 

 彼は、小さく笑う。

 アリスは性格も自由奔放だが、性的にも自由なのだ。

 愛だの恋だのに、こだわったりはしない。

 その潔さを、わずかながら、彼は称賛している。

 褒めるようなことではないとしても。

 

「アンタの口から、愛なんて面倒な単語が出てくるとは思わなかったぜ」

「私に、愛は必要ないからね。日頃は使わないのさ」

 

 そっけない口調は、いつものことだ。

 が、アリスは「打ち切り」に気づいたのだろう。

 すぐに、その話題から離れる。

 

「そういや、リカが、うるさくてかなわねーんだよ」

「そうだろうねえ。きみが、ちゃんと家に帰っていないのが悪い」

「理由があるだろ?」

「放蕩以外にかい?」

 

 アリスは返事をしない。

 それが返事なのだ。

 得てして、それは「肯定」を意味する。

 

「リカは真面目だから、気をもんでいるのではないかな」

「あいつは真面目っていうより、堅物なんだよ。(こま)っけえしな」

「でなければ、宰相など務まらないさ」

「どっちみち、もうちっとばかし、辛抱させとく」

 

 2人の兄弟仲は、悪いわけではない。

 むしろ、アリスは、リカに対して過保護なところがあった。

 口ではどう言っても、弟を危険から遠ざけている。

 

「おっと。アンタのお気に入りが戻って来そうだ」

 

 わずかな扉の擦過音に、アリスは気づいたらしい。

 しゅっと烏姿に変わり、飛び立つ。

 変転している際のアリスには、どんな壁も役立たず。

 好きに出入りができるのだ。

 

 馬でも同じではあるが、室内で馬に変化(へんげ)されても困る。

 きっと彼女は、室内に大きな馬がいても気にしないのだろうけれども。

 

「洗っているので、清潔だとはいえ、着回しで悪いね」

「何着も用意してもらって、嬉しいくらいよ」

 

 鹿色の、ざっくりとした上着に、飾りけのまったくない淡いピンクのスカート。

 丸襟の部分から、白い首元が見えている。

 足には、編み上げの赤い布靴。

 髪が、肩のあたりで揺れていた。

 

 元々、彼女は化粧をする習慣がないようだった。

 こってりと化粧を(ほどこ)している貴族令嬢とは違い、素顔を(さら)している。

 前は、顔の右半分を髪で隠していたが、ここ最近は気にしていないらしく、流れるに任せていた。

 

 彼女を愛してはいない。

 が、気に入ってはいる。

 そして、守りたい、とも感じていた。

 彼女の「傷つかなさ」が、彼に、そう思わせるのだ。

 

 誰もが、彼女を無視していたのだろう。

 彼女は、そににいるのに、いないも同然に扱われていた。

 だから、誰も彼女を「傷つけられなかった」のだ。

 存在しない相手を傷つけることはできないので。

 

(無関心と完全な拒絶。それほどの悪意があるだろうか)

 

 けれど、彼女は、その悪意にすら気づけずに生きてきた。

 いや、気づかせてもらえなかった。

 悪意になど気づかないほうがいい、とは言えるかもしれない。

 

(だが、それは同時に、感情を与えない、ということでもある)

 

 怒ることも、泣くことも、笑うこともない世界。

 そんな世界の中、彼女は、1人ぼっちで生きてきたのだ。

 多くの可能性も取り上げられて。

 

「今日は、なにをするの?」

「まず森で木を()る。新しいイスの材料にするのだよ」

「どんなイスになるのかしら?」

「きみのイスになる」

「私の?」

「きみにも、きみ専用のイスがあるべきだと思ってね」

 

 扉を開け、先に家から出る。

 後ろを彼女がついてきたのだが、小さな悲鳴が聞こえた。

 

「おっと」

 

 家の上がり口にある階段を踏み外した彼女を、抱きとめる。

 ふんわりとしたぬくもりが、彼の腕の中にあった。

 両腕を彼の胸に置き、彼女が見上げてくる。

 じっと見つめてくる瞳に、彼は、体を前へとかしがせた。

 2人の距離が縮まる。

 唇がふれあいそうなほどに、近い。

 

 が、寸でのところで、正気に戻った。

 視線を、彼女の足元に落として言う。

 

「靴紐が、ほどけていますよ、お嬢さん」

「あら……しっかり結んだと思ったのだけれど、難しいものね」

「ああ、いいから。私が結んであげよう」

 

 彼女の足元に(ひざまず)き、靴紐を結び直した。

 自分の心の箍も、これくらい、しっかりと締めておかなければ、と思いながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ