夕食時まで 1
彼は、森に入り、家の方角に走っていた。
実際に走っているのはアリスだが、それはともかく。
「どこに行くの? あなたの家?」
「いや、その裏にある、ささやかな畑だよ」
「畑? あなたは、畑も作っているのね」
「自分の食い扶持は、自分で賄わなければならない、しがない身なのさ」
家の裏にある、小さな畑の前で、アリスが足を止める。
彼は、ひょいと彼女を、その背から降ろした。
そのまま、畑のほうに歩き出そうとすると、カッカッという蹄の音がする。
アリスが不満そうに、尻尾も、ぱしんぱしんさせていた。
(大量の貸しがあるのだから、この程度で礼を期待するものじゃない)
思う、彼の隣から、彼女がアリスに顔を向ける。
どうも、彼女はアリスを、ことのほか気に入ってしまったらしい。
「偉かったわね、アリス。あなたは、とても賢いわ」
「おっと」
彼女が、アリスの額に口づけようとしたのは、明白だった。
咄嗟に、彼は、彼女の腰に腕を回して、それを制する。
彼にしか分からないことだが、アリスは、とても恨みがましい目をしていた。
彼は、アリスに、軽く肩をすくめてみせる。
「このあたりを“うろついて”おいで、アリス」
アリスが、小さく、ひと声いなないた。
それから、ひと際、大きく、ぱっしんっと己の体に尾を叩きつけてから、くるりと体を返す。
「アリス、怒ってしまったのじゃない?」
「それはないよ。彼は、正しく自分の役割を心得ているのでね」
「それならいいけど」
「アリスは放っておいても平気さ。それより、きみ、昼食は食べたかい?」
「まだよ」
彼は、彼女の腰から腕を離し、代わりに手を取った。
少し足場が悪かったからだ。
そして、畑のほうに案内をする。
「まあ! すごいわ! こんなにたくさん!」
「そうでもないよ。基本的に、私の嫌いな野菜は育てていないからね」
「あなたは偏食家だったわね」
くすくすと、彼女が笑った。
出会ったばかりの、うつむいていた女性とは思えないほど、表情が明るい。
部屋で「幽閉」も同然の生活をしていれば、なにもかもが目新しく、新鮮に感じられるはずだ。
彼女の薄茶色の瞳が、きらきらと輝いている。
「あれは、そら豆。玉ねぎに、カリフラワー」
彼女が、畑で育っている野菜を次々に当てていた。
実物は、料理になっているものしか知らなくても、知識はあるのだろう。
(おそらく、どのように流通しているのか、相場がどうやって決まっているかも、知っているはずだ。屋敷を切り盛りするのに役立つ知識は持っているが、発揮する場はない、ということか)
レックスモアの当主は、もったいないことをするものだ。
彼女なら、きっと勤め人たちに信頼される女主人になり得る。
それも、彼女の夫は知らないのかもしれない。
4年間、なにひとつ、知ろうともせず、放置していた。
「ねえ! 当てて見せましょうか?」
「なにをだい?」
彼女の、いたずらっぽく光る瞳に、つい見惚れそうになる。
これではアリスに「お気に入り」だと勘違いされてもしかたがない。
彼女と話していると、にっこりしたくなることも、しばしばあるのだ。
「あなたが嫌いなのは、ブロッコリーだわ!」
「恐れ入ったね。きみが、“探偵”だったとは知らなかったよ」
「たんてい?」
「失せ物を探したり、奇妙な出来事を解決したりする者のことさ」
「そんな仕事もあるのね」
「実際、きみは、私の小さな秘密を、見事に暴いたじゃないか。これでは、隠し事などできやしないね」
彼女が楽しげに笑う。
笑顔に、彼の感情が、ほんのわずかに揺らいでいた。
彼女の「気晴らし」につきあうだけのつもりだったのに。
頭の片隅で、彼女を抱き寄せ、口づけることを考えている。
「でも、あなたの秘密は、それほど難しくなかったわ。カリフラワーがあるのに、ブロッコリーがないのは不自然だもの。そうでしょう?」
明るい声に、彼は頭の隅にある「不埒」な考えを弾き出した。
実情がどうあれ、彼女は「人妻」なのだ。
2人の関係に「なにか」が起こった際、彼女の体裁に傷がつく。
今よりずっと、立場も悪くなるに違いない。
(とはいえ、すでに厄介なことになっているわけだが)
「少し収穫して、昼食にしようか。きみにひもじい思いをさせているのは、しのびないのでね」
「そう言われると、お腹が減ってきたみたい。ここにある野菜って、屋敷の料理に出てくるものより美味しそうに見えるのだもの」
「採れたては、どのような調味料にも勝る」
彼は、畑の隅にある小さな小屋から、バスケットを取り出す。
収穫した野菜を入れるためのものだ。
それを見て、彼女が、はしゃいだ声をあげた。
「収穫! 私、野菜を採るのは初めてよ」
「レースの編み物をするより、ずっと簡単だが、きみのドレスを、汚してしまうのじゃないかな?」
彼女が、少し困った顔をする。
畑に入れば、少なからずドレスを汚すことになるのだ。
裾が地面に着けば、泥もつく。
そのことに思い至って、彼女は困っているのだろう。
「私が収穫するから、きみは待っていればいい」
「そんな! せっかく畑が目の前にあるのに!」
「だが、ドレスが……」
「収穫には、やはり民服が必要なのね。私、民服を持っていなくて、着替えられなかったの。ドレスでは、迷惑をかけてしまうかしら」
彼女のしょげた顔に、彼の胸がざわめいた。
彼女は、ドレスが汚れることなど、ちっとも気にしていなかったのだ。
それどころか、民服が用意できなかったと、落ち込んでいる。
(彼女ほど、私を驚かせる女性はいないな)
彼は、小さく笑った。
彼女が、びっくりした顔で、彼を見ている。
今まで、しかめ面しか見せていなかったせいだろう。
笑うことなどない、と思われていたのかもしれない。
「きみが、その一張羅を汚すのを気にしないというのなら、かまわないさ」
「全然、気にしないわ」
「それなら、どうぞ。我がささやかなる菜園へ」
手を伸ばすと、彼女は戸惑うことなく、彼の手を握った。
彼は、彼女に、にっこりする。
もう不機嫌さを保っていられなかったのだ。
(ああ、いいよ、アリス。認めようじゃないか)
収穫に胸を弾ませ、そわそわしている彼女は、とても愛らしい。
(彼女は、私の“お気に入り”だ)