表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/80

夕食時まで 1

 彼は、森に入り、家の方角に走っていた。

 実際に走っているのはアリスだが、それはともかく。

 

「どこに行くの? あなたの家?」

「いや、その裏にある、ささやかな畑だよ」

「畑? あなたは、畑も作っているのね」

「自分の食い扶持(ぶち)は、自分で賄わなければならない、しがない身なのさ」

 

 家の裏にある、小さな畑の前で、アリスが足を止める。

 彼は、ひょいと彼女を、その背から降ろした。

 そのまま、畑のほうに歩き出そうとすると、カッカッという蹄の音がする。

 アリスが不満そうに、尻尾も、ぱしんぱしんさせていた。

 

(大量の貸しがあるのだから、この程度で礼を期待するものじゃない)

 

 思う、彼の隣から、彼女がアリスに顔を向ける。

 どうも、彼女はアリスを、ことのほか気に入ってしまったらしい。

 

「偉かったわね、アリス。あなたは、とても賢いわ」

「おっと」

 

 彼女が、アリスの額に口づけようとしたのは、明白だった。

 咄嗟に、彼は、彼女の腰に腕を回して、それを制する。

 彼にしか分からないことだが、アリスは、とても恨みがましい目をしていた。

 彼は、アリスに、軽く肩をすくめてみせる。

 

「このあたりを“うろついて”おいで、アリス」

 

 アリスが、小さく、ひと声いなないた。

 それから、ひと際、大きく、ぱっしんっと己の体に尾を叩きつけてから、くるりと体を返す。

 

「アリス、怒ってしまったのじゃない?」

「それはないよ。彼は、正しく自分の役割を心得ているのでね」

「それならいいけど」

「アリスは放っておいても平気さ。それより、きみ、昼食は食べたかい?」

「まだよ」

 

 彼は、彼女の腰から腕を離し、代わりに手を取った。

 少し足場が悪かったからだ。

 そして、畑のほうに案内をする。

 

「まあ! すごいわ! こんなにたくさん!」

「そうでもないよ。基本的に、私の嫌いな野菜は育てていないからね」

「あなたは偏食家だったわね」

 

 くすくすと、彼女が笑った。

 出会ったばかりの、うつむいていた女性とは思えないほど、表情が明るい。

 部屋で「幽閉」も同然の生活をしていれば、なにもかもが目新しく、新鮮に感じられるはずだ。

 彼女の薄茶色の瞳が、きらきらと輝いている。

 

「あれは、そら豆。玉ねぎに、カリフラワー」

 

 彼女が、畑で育っている野菜を次々に当てていた。

 実物は、料理になっているものしか知らなくても、知識はあるのだろう。

 

(おそらく、どのように流通しているのか、相場がどうやって決まっているかも、知っているはずだ。屋敷を切り盛りするのに役立つ知識は持っているが、発揮する場はない、ということか)

 

 レックスモアの当主は、もったいないことをするものだ。

 彼女なら、きっと勤め人たちに信頼される女主人になり得る。

 それも、彼女の夫は知らないのかもしれない。

 4年間、なにひとつ、知ろうともせず、放置していた。

 

「ねえ! 当てて見せましょうか?」

「なにをだい?」

 

 彼女の、いたずらっぽく光る瞳に、つい見惚(みと)れそうになる。

 これではアリスに「お気に入り」だと勘違いされてもしかたがない。

 彼女と話していると、にっこりしたくなることも、しばしばあるのだ。

 

「あなたが嫌いなのは、ブロッコリーだわ!」

「恐れ入ったね。きみが、“探偵”だったとは知らなかったよ」

「たんてい?」

「失せ物を探したり、奇妙な出来事を解決したりする者のことさ」

「そんな仕事もあるのね」

「実際、きみは、私の小さな秘密を、見事に暴いたじゃないか。これでは、隠し事などできやしないね」

 

 彼女が楽しげに笑う。

 笑顔に、彼の感情が、ほんのわずかに揺らいでいた。

 彼女の「気晴らし」につきあうだけのつもりだったのに。

 

 頭の片隅で、彼女を抱き寄せ、口づけることを考えている。

 

「でも、あなたの秘密は、それほど難しくなかったわ。カリフラワーがあるのに、ブロッコリーがないのは不自然だもの。そうでしょう?」

 

 明るい声に、彼は頭の隅にある「不埒」な考えを弾き出した。

 実情がどうあれ、彼女は「人妻」なのだ。

 2人の関係に「なにか」が起こった際、彼女の体裁に傷がつく。

 今よりずっと、立場も悪くなるに違いない。

 

(とはいえ、すでに厄介なことになっているわけだが)

 

「少し収穫して、昼食にしようか。きみにひもじい思いをさせているのは、しのびないのでね」

「そう言われると、お腹が減ってきたみたい。ここにある野菜って、屋敷の料理に出てくるものより美味しそうに見えるのだもの」

「採れたては、どのような調味料にも勝る」

 

 彼は、畑の隅にある小さな小屋から、バスケットを取り出す。

 収穫した野菜を入れるためのものだ。

 それを見て、彼女が、はしゃいだ声をあげた。

 

「収穫! 私、野菜を採るのは初めてよ」

「レースの編み物をするより、ずっと簡単だが、きみのドレスを、汚してしまうのじゃないかな?」

 

 彼女が、少し困った顔をする。

 畑に入れば、少なからずドレスを汚すことになるのだ。

 裾が地面に着けば、泥もつく。

 そのことに思い至って、彼女は困っているのだろう。

 

「私が収穫するから、きみは待っていればいい」

「そんな! せっかく畑が目の前にあるのに!」

「だが、ドレスが……」

「収穫には、やはり民服が必要なのね。私、民服を持っていなくて、着替えられなかったの。ドレスでは、迷惑をかけてしまうかしら」

 

 彼女のしょげた顔に、彼の胸がざわめいた。

 彼女は、ドレスが汚れることなど、ちっとも気にしていなかったのだ。

 それどころか、民服が用意できなかったと、落ち込んでいる。

 

(彼女ほど、私を驚かせる女性はいないな)

 

 彼は、小さく笑った。

 彼女が、びっくりした顔で、彼を見ている。

 今まで、しかめ面しか見せていなかったせいだろう。

 笑うことなどない、と思われていたのかもしれない。

 

「きみが、その一張羅を汚すのを気にしないというのなら、かまわないさ」

「全然、気にしないわ」

「それなら、どうぞ。我がささやかなる菜園へ」

 

 手を伸ばすと、彼女は戸惑うことなく、彼の手を握った。

 彼は、彼女に、にっこりする。

 もう不機嫌さを保っていられなかったのだ。

 

(ああ、いいよ、アリス。認めようじゃないか)

 

 収穫に胸を弾ませ、そわそわしている彼女は、とても愛らしい。

 

(彼女は、私の“お気に入り”だ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ