ご迷惑様 3
事情は、のみ込めた。
彼女が滝に身を投げた理由については、だ。
(しかし、夫が側室を迎えるのは、さほど、めずらしいことではない)
王族では減ってきているが、貴族は依然として、側室を迎えることも少なくないのだ。
愛妾をかかえている者すらいる。
さりとて、正妻は正妻。
側室や愛妾とは、立場も身分も違っていた。
夜会などはともかく、正式な場には必ず正妻を伴うものだし、屋敷を取り仕切るのも正妻だ。
どれほど寵愛されていようが、側室や愛妾に、その権利はない。
産まれた子にしても、基本的には長男が継ぐとしつつ、正妻に歳の近い子が産まれれば、その子が優先される。
(そうか。彼女は、子を成していないのだな)
唯一、正妻が肩身の狭い思いをする理由。
それが、後継者問題だ。
後継ぎとなる男子を成していない場合に限り、男子を成した側室が優遇される。
たとえ、男子でなくとも、子を成していれば、まだ救いもあるけれど。
無意識に、彼は、彼女を見つめた。
見たところ、怪我はしていないようだし、憔悴している様子もない。
屋敷で迫害されているのであれば、そうした兆候があるはずなのだ。
「側室が来て、きみの立場は変わったのかね?」
「あまり変わらないのじゃないかしら」
「では、元々、きみは“不要”とされていたと言うのかい?」
彼女は、夫が側室を迎えたため己を不要だと思い、自死しようとした。
が、立場は変わっていないとも言う。
であれば、側室が来る前から「不要」だった、ということになりはしないか。
論理的に考えれば、そうなる。
「ええ。私が気づいていなかった、というだけの話なの」
「……側室が来たので、気づいた?」
「ええ。私がいなくても、誰も困らないと気づいたわ」
肩から力が抜けていく気がした。
訊けば訊くほど、彼女の屋敷での立場がわからなくなっていく。
たとえ政略的な婚姻であれ、婚姻した事実はあるのだ。
正妻がいなくて困らないなどということは有り得ない。
それでは、公の場に出られないし、貴族特有の「体裁主義」に反する。
「きみは、屋敷の切り盛りはしていないのかね?」
「していないわ。頼まれたことがないもの」
「国の行事に出席したことは?」
「ないわ。呼ばれたことがないから」
「客が来た時には、どうしていた?」
「部屋から出ないようにしていたの。出ると叱られるって、わかっていたわ」
最後の「わかっていた」の部分で、彼女は少し得意げだった。
まるで「私は馬鹿ではないのよ」と言いたげに。
いよいよ、力が抜けていく。
これほど驚いたのは、初めてかもしれない、と思った。
「だが、夫とベッドをともにしないわけにはいかないだろう?」
「あら。私は、まだ純潔よ? 旦那様からベッドに誘われたことはないの」
言葉をなくした。
紅茶を飲む手も止まっている。
うっかりすると、ティーカップを取り落としそうだった。
「あ~……女性に歳を訊くのが失礼なのを承知で訊くが、きみは、いくつだい?」
「18になったわ」
「婚姻したのはいつ?」
「14だったかしら」
本気で、カップを落としそうになる。
彼の中にある「理屈」が崩され、論理的な思考ができなくなりかけていた。
彼女の言う「状況」が、まったく理解できないのだ。
もちろん彼女が嘘をついていないことやなんかは、わかっている。
(14で嫁いだあと、1度も……? あり得るのか?)
彼女が、彼を見つめていた。
彼も、彼女を見つめる。
「そのことについて、話し合ったことはないのか?」
「ないわ。話し合うといっても、なにを話すことがあるの?」
「きみたちは、婚姻しているのだよ?」
「それは、そうなのだけれど、私も彼とベッドをともにしたくないから、話し合う必要はないのじゃないかしら」
これ以上、深追いすることはない。
これは、彼女と夫との問題なのだ。
わかっているのだが、どうしても気になる。
「嫁いだ時、きみは14歳だった。その頃なら、男女のいとなみに抵抗があるのもわかる気はするが、その後は? 彼を愛せなかったのかい?」
「まあ……」
急に、彼女が狼狽えた様子を見せた。
困ったように眉を下げている。
別に叱りはしないのに。
「お互いが納得しているのなら、かまわない話だが」
彼女の狼狽えように、彼は、言葉を付け足した。
実際、厳密に言えば、ベッドをともにするのは「義務」ではないのだ。
婚姻していればあたり前ととられるし、時に「妻として」「夫として」の義務のように語られることもあるけれど。
「ええ、そうね。ただ……愛なんて考えたこともなかったって、今さら気づいて、驚いてしまったのよ」
もう唖然とするよりほかない。
彼女は、彼の予測の、遥か右斜め上を行く。
こうだろうと思ったことを、軽く覆してくるのだ。
まったく違う。
こんなことも初めてで、彼は、いっそう彼女を、まじまじと見つめてしまった。
いったい、どういう女性なのだろうか、と。
「こいつは、どうも……まいったね」
彼は、顔をしかめる。
自分の意思かどうかも不明なまま、否応なく、興味を持たされているのが不愉快だったのだ。
頭にある、なぜ?どうして?とのハテナが消えていかない。
「ともかく、曇天から差し込む、ひと筋の光のごとく、わかったことが1つある」
今、確実に言えることだった。
彼女の瞳を見つめて言う。
「きみが、死ぬ必要は、なにもない」
「そのようね」
こくりとうなずかれ、溜め息をついた。
彼女がこんなふうでなければ、ここには連れて来ていない。
さりとて、彼女がこんなふうだから、厄介なことになっている。
「それにしても……」
彼は、言葉を途切れさせた。
無遠慮だとも気づかず、彼女を眺め回す。
頭の先から足先まで。
(彼女の夫は、なぜ彼女をベッドに誘わない? 14ならともかく、16を越えてからは、なにも問題はなかったはずだ)
彼女は健康そうだし、体つきも悪くない。
というより、魅力的に感じられる。
18になるまでベッドに引き込まれなかったのが、信じられなかった。
自分なら、と考えかけて、ハッとなる。
彼女は人妻なのだ。
そうでなくとも、彼は、女性とは関わらないことにしている。
サッと気持ちを切り替えた。
そして、そっけなく言う。
「食事をすませたら、きみを屋敷の近くまで送っていこう」