いつもの不幸せ 1
コンコンと、扉が叩かれる音がした。
気づいて、顔を上げる。
「……はい」
小さな声で返事をした。
自分の部屋に誰かが来るなんて、どうせ「禄でもないこと」に違いないのだ。
いつだってそうだったし、これからだって変わりやしない。
18年も「それで」やってくれば、このあとどうなるかくらいは、考えなくてもわかる。
「奥様、旦那様が、お呼びにございます」
扉を開け、そう言ったのは、この屋敷のメイドだ。
視線を合わせようとはせず、頭を下げている。
立場が上の者に対する、下の者の礼儀のように見えなくもない。
実際、それは礼儀なのだし。
が、メイドが頭を下げ、視線を合わせずにいるのは、礼儀を重んじてのことではないと知っている。
彼女を見たくないからなのだ。
視線も合わせたくない、と思っている。
「旦那様が……? どういうご用かしら?」
「私どもは存じません。旦那様から、言いつかっただけにございます」
冷たく返され、溜め息をつきたくなった。
すでに「禄でもないこと」は始まっているらしい。
ともあれ、屋敷の者たちは、全員、こんなふうなのだけれども。
というよりも。
実の母親も含め、全員「こんなふう」だった。
誰もが、彼女には冷たくあたる。
彼女自身、しかたがないことだと諦めていた。
両親も、彼女の産まれた屋敷でも、ただの1度も優しくされた記憶がないので。
「すぐにまいります」
メイドは返事もせず、扉を閉める。
さっさと彼女から離れたかったのだろう。
これも、いつものことだ。
「着替えたほうがいいかしら……? でも、お待たせすると叱られそうね……」
うんざりした気分になりつつ、彼女は立ち上がった。
貧相なドレスではあるが、そのままで行くことにする。
どの道、彼女の装いなど、誰も気にしてはいないのだ。
彼女、シェルニティは、ブレインバーグ公爵家の令嬢だった。
14歳で、レックスモア侯爵家に嫁ぎ、すでに4年が経っている。
夫、クリフォード・レックスモアとの間に、子供はいない。
それもそのはずだ。
彼は、彼女をベッドに誘ったことがなかったし、彼女のベッドどころか、部屋にすら訪れたことがない。
4年間、シェルニティは、ほとんど1人で暮らしている。
必要なものは揃えてもらえていたし、生活するのに苦労はなかった。
部屋も豪華で広く、ドレスもたくさんあり、食事だって夫と同じものだ。
宝石の類も多く与えられていて、彼女の指には大層な「石」のついた指輪がはめられている。
ベルを鳴らしてメイドを呼び、用事を片づけてもらうこともできた。
部屋の掃除、洗濯、お茶の用意など、すべて彼女自身がしたことはないくらい、身の回りのことについては、いきとどいている。
いつも、1人でいる、ということを除いては。
メイドたちは、黙々と掃除をしたり、お茶や食事を運んだり。
必要がない限り、誰も、シェルニティと話をしようとはしない。
用事がすめば、そそくさと部屋を出て行く。
彼女の実家、ブレインバーグの屋敷にいたメイドも大差はなかった。
婚姻当初は「違う対応」を期待もしていたが、4年と経たずに、その期待は落胆へ、そして諦めに変わっている。
「今度は、なにを言われるやら……」
夫であるクリフォードは、メイドとは違い、一応、話はしていた。
ただ、彼女と「会話」をしているのではなく、一方的に「話す」だけだ。
シェルニティが「返事」をしようものなら、たちまち不快を露わにする。
最初は、戸惑った。
訊かれたことに、答えたつもりだったからだ。
が、これも、今では理解している。
自分の「返事」など期待されてはいない。
彼は、話しかけている「フリ」をしているに過ぎないと、わかった。
彼の言うことが、彼女の思いと一致していようがいまいが、間違っていようが、
そんなことは関係ない。
返事なんてせず、ただ、うなずいていればいいのだ。
そのように、理解している。
シェルニティは部屋から出て、長い階段を降り、食堂に向かった。
今は夕食時であり、夫は食事中に違いない。
メイドは、どことは言わなかったけれど、その程度は、推測できる。
待たせれば叱られるだろうし、待たせなくても嫌なことを言われるに違いない。
わかっているので、シェルニティの足取りは重かった。
もとより、彼女だって、人前に出るのは、好きではないのだ。
部屋で静かに過ごすほうが、楽な気分でいられる。
両親からも「人前には出せない」と言われて育った。
自分でも、そう思っている。
ここ、ロズウェルド王国では、14歳で大人と見做される。
そのため14歳になると貴族の令嬢は、社交界にデビューするのだが、彼女は、その舞踏会にも出ていなかった。
2つ年下で母親違いの妹エリスティは、出席していたけれど。
妹との違いを、シェルニティは、はっきりと自覚している。
自分には、舞踏会や夜会に出席するような「資格」はないのだ。
夫とテーブルを同じくする資格だって、おそらく、ないのだろう。
思いながら、食堂の扉を開く。
扉の向こうに控えていたメイドが、すかさず目をそらせた。
給仕をしていた勤め人たちも、執事さえ、彼女をまともに見ようとしない。
わかっていたことなので、改めて、なぜ呼ばれたのか、不思議に思う。
(お話があるのであれば、小ホールに呼んでくだされば、人目につかずにすんだと思うのだけれど)
用があって、あえて「会話」じみたものをしなければならない時、彼は、いつも屋敷の小ホールに、彼女を呼び出していた。
大勢の目にふれる場所での会話を避けていたからに違いない。
シェルニティと話しているのを見られたくなくて。
彼女は、うつむき加減に、中へと入って行く。
顔を上げるのが怖かったからだ。
というより、時折、向けられる、彼女に対する視線が怖かった。
シェルニティの右頬には、大きな痣がある。
産まれつきのもので、どんな治癒も効果はない。
両親、とくに母親は躍起になって、あらゆる治療を試した。
けれど、すべて無駄となっている。
どす黒いような紫色をした痣は、彼女の右頬から離れようとはしなかった。
グネグネとした、醜悪な生き物のような形で、張りついているのだ。
だから、誰も彼女の顔を真正面から見ようとしない。
見た者は、顔を背ける。
そして、シェルニティの部屋に、鏡はなかった。