7.霧の深い朝に
翌朝、なぜか隣で寝ていた受付嬢を揺り起こし、カズヤは家を出た。
「しかし、便利だなぁ。」
彼はほとんど何も持たずに家を出た。
厳密には、けっこう多くの道具や武器、素材を携行しているのだが、ランタンの他には何も手に持っていない。
それもそのはず。
カズヤは、アイテムストレージという特別なスキルを所持しているのだ。
このスキルは簡単に言うと、独立した時空間にアイテムを収納できるという便利なスキルである。
収納できるものの法則は、色々複雑だ。
この辺りの初夏にしては珍しく、深い霧が出ている。
魔石灯の明かりが霧の粒子にぶつかって、ぼんやりと広がっている。
建物の影が、まるで巨大な魔物のようだ。
旅に出る日に雨が降らなくて、本当に良かったと思った。
関所には、何人かの人影が見える。
「あ、カズヤさん。」
にょろり、と大蛇のような影が動く。
「ずいぶん早く着いてたんですね。」
カズヤは、大蛇の影に対してランタンを持った右手を上げる。
誤解なきよう念のため言っておくと、大蛇の影とはシエルラのことである。
カズヤが来ると同時に、影の一団がシエルラの傍を去っていく。
「…国王陛下?」
カズヤはシエルラに問いかける。
「国王陛下と、先代殿下と、先々代殿下でしたよ。私のことを見送りに来てくれたんです。」
思わぬ大物がやって来ていたことに驚きつつ、彼は辺りを見回す。
「よう、お二人さん。見送りに来たぜ。」
支部長がニヤリと笑って言う。
「これ、リアラの花です。老師様がお好きだって聞いたので。」
花屋の店長が、リアラツリーの花束をシエルラに手渡す。
「わ、美味しそう!いただきます。」
もしゃり。
シエルラは、嬉しそうにリアラの花をほおばった。
「それ、食べるんだ…?」
思わず引いてしまうカズヤ。
見送りに来た人々も困惑している。
町の人たちは、贈り物や激励の言葉を二人に送る。
そうして最後に。
「ろ、老師様。これ。」
にやにやと笑いながら菓子屋の長男坊が、シエルラに例の飴を手渡した。
「あ、ありがとうございます…?」
顔を赤らめながらご立派な棒状のそれを受け取るシエルラ。
長男坊は、そんな彼女の様子に満足したように、立ち去った。
「あいつは本当に…」
パン屋のおばさんが頭を抱えながらそう言う。彼女は、あの長男坊の叔母なのだ。
「ははは。彼も腕だけはいいですからね。では、僕らはこの辺で失礼しますよ。それではみなさん、5年間ありがとうございました!」
「え、えっと、50年間ありがとうございました!」
冒険者と竜人の二人は、振り向くことなく、あっさりと王国を後にした。
「おーい、馬車馬車!!!」
結局、二人して馬車に乗り忘れたことに気づき、気まずい気持ちで門まで戻ることとなったが。
暫く二人は、無言で霧の中を進んでいった。
「別に、責任なんて感じなくて良かったんですよ。」
沈黙に耐えられなくなったシエルラが、口を開いた。
「女の子の体を傷ものにしちゃったんだもの、責任ぐらい取りますよ。御者とでも奴隷とでも思って、こき使ってください。」
カズヤはおどけてそれに返す。
鞭を軽く振って、馬の魔物・フォースマの足を急がせる。
カズヤはなんだかんだで責任を感じていた。
シエルラに怪我を負わせてしまったのはもちろんだし、その結果として、彼女があの国から追い出される一因を作り出してしまった。
亜人の国に潜入していた内偵からの情報によると、純人間の国に長女を亡命させていたエヴィナリス家(シエルラの実家)は取り潰しとなり、家族たちは完全に離散してしまったのだという。
「まあ。弟たちももう大きくなったはずですし、きっとうまくやってますよ。」
シエルラは気にしていない、というように両手を振った。
しかし、その動きが未だ治っていない骨折に響いたのか、顔をしかめている。
馬車を止め、車内に布布団を敷いてやる。
その上に彼女を寝かし、カズヤは馬車を勧めた。
振動吸収加工をしてもらった馬車が、彼女の体に悪い影響を与えることはないだろう。
「そういえば、どうやって純人間のふりをしていたんですか?」
ふと、疑問に思ったことを口に出す。
シエルラは純人間の国では薬師の老人のふりをしていた。あれだけ腰を曲げて、あの小さな足で二足歩行していたと考えると…
「カズヤ君、なんか変なこと考えてませんか?」
横になったシエルラが、ジト目でカズヤをにらむ。
「いや、竜人族共通のことなのかもしれませんけど、シエルラさんの足って小さ」
「カズヤ君!!」
シエルラは、大きな声を上げてカズヤの話を切る。
「竜人族にとって、後ろ足の話はタブーです。そ、総排出口に関する話よりも、ですよ。ましてや、後ろ足が小さいだなんて…」
シエルラは布をかぶって身悶えしている。
竜人族特有の倫理観というものがあるのだろう。
「というか、竜人族は総排出口があるって話、本当なんですね。」
「カズヤ君!?」
シエルラの大声に呼び寄せられたマガラボアの親子は、彼らの夕飯のおかずとなったのだった。
「認識阻害魔術というものがあります。」
マガラボアを解体するカズヤを横目で眺めながら、シエルラが語り始めた。
「聞いたことはあるよ。」
胆のうをレバーから切り離しつつ、カズヤはそれに答えた。
「なるほど、それなら話は早いですね。」
ごそごそ。
寝そべったまま腕を伸ばして布袋を探るシエルラ。
彼女は袋の中から下着を引っ張り出すと、無表情でそれを袋に戻した。
「これこれ。ちょっとこの水晶を見ていてください。」
そう言って袋から抜かれた彼女の手には。
「…?何もないですよ?」
カズヤは首を傾げた。
シエルラはまるで何かを乗せているかのように、手のひらを広げている。
しかし、その手のひらの上には何もない。
「本当にそうですか?近くに来てよく見てみてください。」
カズヤは半信半疑で彼女の手の傍に寄る。
「…?やっぱりないですよ。」
やはり、近くに寄って見ても何も無いように見える。
「いやいや。ここにあるじゃないですか。」
そう言うと、シエルラは手のひらをひっくり返して見せる。
手の甲の側の、人差し指と中指の間に挟むようにして、白いすが入ったような水晶があった。
「こういうことです。」
元の袋に水晶を収めながら、シエルラはそう言った。
「…。」
「…。」
「……。」
「……。」
「え…?つまり、どういうことです?」
これ以上説明が続かないことに困惑したカズヤが沈黙を破る。
「いや、見ての通りですよ?」
シエルラは、困惑しているカズヤを見て困惑しながらそう答えた。
「えーっと…、つまりミスディレクションを応用した魔術ってこと…?」
「はい?全然違いますけど。」
カズヤの問いかけに、何を馬鹿なことを言っているのだ、という様子で眉を潜めるシエルラ。
「あ、あぁ。違うんだー…。じゃ、じゃあ、どういう原理なんです?」
「えっと、ですから…。」
シエルラは小一時間ほど、認識阻害魔術について例えを交えながら説明した。
カズヤは、シエルラが例え下手の説明下手であることを学んだ。
結局、認識阻害魔術についてはさっぱりわからなかった。